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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十一章『巡礼編』
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第二百八十話『黄金達の邂逅と神代の息吹』

 それは、白の化粧を無理矢理山脈に押し付けた様な風景だった。本来雄々しくその身を曝け出しているはずの山々が、今ではすっかり白に覆い隠されている。


 アリュエノは黄金の頭髪を白に馴染ませながら、知らず上空を見上げた。いやに遠い空は、ため息でもつくようにぽつり、ぽつりと雪の粒を零れ落としている。


 雪というものは空を舞う姿は言葉に出来ぬほど美しいにも関わらず、本質は人の命を奪い去る象徴そのものと、何とも物騒だ。


 美しいものには肌を指す棘があるものだとはよく言うが、それにしてもやりすぎではないだろうか。いやそれとも、それほどまでに危うい存在だからこそ、余計に此の死雪というものは美しく見えるのかもしれない。


 アリュエノは手袋で覆った手の平で、零れ落ちた雪の一片を掬い上げる。それは一瞬、手の内でその姿を留めようとはしたものの、すぐに溶けだして水となってしまった。


「どうしました、お疲れですか歌姫様。すまねぇな、此処まで雪があると馬車を引きずってこれねぇからよぉ」


 ふと、雪を捕まえる為に脚を止めたアリュエノを見て、同行していた男が軽く振り向き、声を漏らす。その何処までも軽薄そうな言葉遣いと振る舞いに、思らず微笑を浮かべながら、アリュエノは言葉を返した。


「何もないわよ、聖堂騎士ガルラス=ガルガンティア。それに、私は歌姫と呼ばれるような身分ではありません。ええ、違いますとも」


 ならアリュエノ様の方が良かったかい、と軽口を叩きながら笑うガルラスを見て、アリュエノの周囲を覆う他の聖堂騎士達が、その表情を凍り付かせた。


 確かにアリュエノの正確な地位は聖女候補でしかなく、歌姫の聖女という二つ名も仮に与えられたものだ。ゆえに聖堂騎士たるガルラスが普通の口を利いたとて其処に何か問題があるわけもない、が。其れはあくまでも今は、だ。


 歌姫の聖女アリュエノ。黄金の頭髪と眼を煌かせながら詩を奏でる彼女の姿は、もはや聖女同様のものとして司祭と庶民達には受け入れられている。


 そうして聖堂騎士が仕える教皇猊下もまた、その認識は変わらない。いやむしろ教皇こそ彼女を聖女と、そう信じてやまない第一人者と言っても良いだろう。


 だからこそ、本来は大聖堂に控えるはずの聖堂騎士が其の大半を彼女の護衛にと遣わされている。それは神意がアリュエノを聖女にすべきだと語るに等しい行為。


 ゆえにもはやアリュエノが聖女として列席するのも時間の問題であり、後は神が用意している試練とやら、巡礼の旅路が何時終わるのか、という話でしかない。


 だからこそ護衛として同行を許された聖堂騎士の多くも、アリュエノを聖女同様に遇している。未来の己らが主として、頭を垂れながらその後ろを歩いているのだ。


 だが、ガルラス=ガルガンティアだけは、別だった。


 ――腕前は聖堂騎士随一でありながら、最も聖堂騎士らしくない男。槍持つ猛獣。


 そんな蔑称を与えられている彼だからか。その口ぶりは何処までも軽薄で、聖女に対してすら敬意の欠片も見えはしない。ガルラスが口を開く度、聖堂騎士の誰もがその表情を固まらせ、背筋を緊張に凍り付かせる。


 中には、此れを切っ掛けに普段から良く思わぬガルラスが聖女の癇癪を買ってくれないかと、そう願う者もいた。


 けれどガルラスの軽薄極まる言葉に、アリュエノは何処か朗らかさすら垣間見える笑顔で、言うのだ。


「本当に、貴方は掴めない人ね。ええ、好きにしてくれて、構わないわ」


 軽く溜息を一つ漏らしはするが、決して嫌悪感が見えることはない。むしろ好ましくすら思っている節がある。


 聞けば、ガルラス=ガルガンティアと聖女は、未だ聖女が修道女と呼ばれる立場であった頃からの付き合いなのだという。それゆえの気安さなのだろう。


 将来聖女たる者と親しくある。其れは、聖堂騎士達にとって羨望と妬みの対象であることは間違いがないの、だが。


 だからといって、今この場で縁を得ようとアリュエノに自ら声を掛けようとする聖堂騎士は、ガルラスの他には決していなかった。誰もが、聖女の素直な従僕としての振る舞いを徹底している。


 理由は、単純なものだ。大聖教徒にとって聖女は、もはや人間であって人間ではないから。


 聖女とは畏れ多くも神に近づき、人からその存在を数歩はみ出る者。神代の奇跡と神秘をその身に宿す者の事を言うのだ。


 ゆえに、其処にある感情は余りある崇拝と、畏れ。それに、近頃のアリュエノの振る舞いが余計に、聖堂騎士達が抱く畏敬を強いものに変質させていた。


 アリュエノは神の啓示に従い巡礼を辿り続け、その振る舞いや魔力、いや存在そのものが少しずつ変貌を遂げている。少なくとも、今ではとても町娘のような存在感ではない。


 護衛の聖堂騎士達は日々のふとした接触の中で、それを実感する時がある。其れはアリュエノの瞳の中、だ。普段からそうというわけではないが、時折その黄金色に捉えられると、彼らは酷い怖気を覚える時がある。


 まるで、遥か上位の存在から直接見つめられているような、畏怖。まるで自らの輪郭や存在が曖昧になってしまうような、嗚咽。そうしてまるで精神が無理やり引きはがされている様な、狂気。


 其れは、きっと紛れもない神秘の顕現。アリュエノという少女が、神の一端を掴んでいるという事に他ならない。その事実は、大聖教の信者にとっては此の上ない喜びであり、胸を暖めうることだ。


 けれども、其れはあくまで相手が酷く遠くにある存在だからこそに違いない。


 其の周囲全てを呑みこまんとする存在感を一度間近で覚えてしまえば、心臓は恐慌の動悸を打ち、情動は余りある畏怖に縛られる。かつて神に近づきすぎた者は、そのまま光に飲み込まれ眼と全身を焼かれたのだ。


 だからこそ、アリュエノに声を掛けられるような存在は、ガルラス=ガルガンティアと、そうしてもう一人だけだった。


 もう一人。其れはガルラス=ガルガンティアの同行者という形で此の旅路へと付き添いを許された人間。城壁都市ガルーアマリアの名士であり、正当なる復讐者の二つ名を与えられている隻眼の剣士、名はヘルト=スタンレーと、そういった。


「位置を示すものは伝承の記録のみですが、そう遠くない内に姿くらいは見えてくるでしょう」


 そう淡々と呟くヘルトの言葉に、アリュエノは小さく頷いて返事をした。彼女の黄金の瞳が、ヘルトとそう名乗る青年の姿を捉える。


 アリュエノはヘルト=スタンレーに対して深くを知っているわけではない。


 知っている事といえば、唯一神アルティウスが最初に彼を護衛として選んだこと。そうして次に、彼が悪徳の主たるルーギスと対面し、直接刃を斬り合わせて生存した数少ない人間だということだ。彼の左眼が光を永遠に失ったのは、その際にルーギスに刻まれた傷が原因なのだとか。


 噂で聞く分には、ヘルトがその胸に宿す悪徳への敵愾心は誰よりも強く、また隻眼になれど武技の腕は凡夫の及びを知らぬという事。


 だからこそ、庶民は彼に物語を期待している。一度は悪徳に敗れ去り、血の床に伏しながら、それでも今再び剣を手に取り正当なる復讐者としての道を歩む、そんな筋書を。


 事前にそういった話を聞いていたものだから、アリュエノもまたヘルト=スタンレーは其の瞳に炯々とした昏い焔を宿した人間なのだと、そう予想していた。


 ルーギスに対する敵愾心か、それとも復讐心か。何にしろ溢れ出るほどの情動を見せつける、そんな人間なのだろうと。


 だが、どうやらそうでもないらしい。アリュエノは一瞬雪の冷たさに肩をひそめながら、唇を波打たせた。


 ヘルト=スタンレーの瞳にあるものは、敵愾心や復讐心などというものにはとても見えない。むしろもっと別の強い熱を抱えている様な気配が、あった。


 アリュエノの頭髪が、揺蕩う。雑談なんだけれど、と前置きをしてから、小さな唇を震わせて言った。


「――貴方、悪徳の主ルーギスにあったのよね。彼はどんな人間だったのかしら」


 ヘルト=スタンレーは、アリュエノの探るような問いかけに対し、一瞬唇を閉じて何かしら言葉を練るような素振りを見せた。


 その黄金の瞳はアリュエノの事など一切捉えておらず、むしろ何処か別の、もっと遠くの誰かを想像しているような、そんな様子。


 じっくりと数秒の間を置いてから、ヘルトは言った。


「一つの言葉で言い切れるものではありませんが――強い人でした。眩い程に」


 アリュエノは、其の言葉を聞いて強く眼を細めた。やはり、とてもではないが、ヘルトの言葉は仇であるとか、敵意を抱く者に発する言葉ではない。周囲の聖堂騎士達も、ガルラスを除いては表情を困惑に歪めている。


 きっと誰もかれも、ヘルトの真意を掴みかねているのだろう。


 無論、敵にまで敬意を示すのは尊い行為だが、其れを紋章教徒に対してまで行う人間はそういない。しかも相手はよりによって大悪とまで断じられた者。どうしてもヘルトが告げた言葉には、不審が過ぎる。


 とは言っても、誰も彼も聖女との会話に嘴を突っ込むような真似をしようとはしなかったが。


 そんな中、アリュエノはただ一人確信らしきものを胸に、浮かべていた。


 ――ヘルト=スタンレーという者は、ルーギスに恨みを抱いてなどいない。抱いているのは、もっと別の煩わしい、情動。


 アリュエノは自らの唇から僅かに、何かよからぬものが漏れでそうだったのを、すんでの所で飲みほした。頬には線を描いたような美麗な笑みが、浮かんでいた。


 耳元を、ガルラスの声が撫でる。


「見えたぜ、あいつだ。巨人の寝床だったっけか、いや何とも良い場所じゃねぇか」


 雪の狭間に、其の古の建造物が姿を見せる。


 それはかつて唯一神アルティウスが巨人の首を刎ねとり、そうして悠久の眠りにつかせたとそう語り継がれる場所。神話の時代が未だその息吹を残す、そんな切れ目の一つ。

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