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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十一章『巡礼編』
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第二百七十八話『鏡たる者と身を噛む祝福』

 彼は本当に変わらないなと、エルディスは思わずその碧眼を転がし、頬に笑みをこぼしてしまった。眼がゆったりと閉じられ、瞼の裏には随分と懐かしい光景が踊っている。


 それは未だ己があの塔の中に在った頃の記憶。精神は腐敗し、膝は崩れ落ち、何もかも呪われてしまえとそう願っていたあの頃、臆病に蹲ることしかできなかったあの頃の光景だ。


 彼は、ルーギスはそんな風だった己の手を無理矢理に取って、そうして言ってのけたのだ。今と変わらぬ、自分勝手な強引さで。何とも酷い言いぐさだったのを覚えている。


 ――諦めたいのは誰だよ、エルディス。お前自身だろう。お前自身が、お前の意志で諦めようとしてるんじゃあないか。


 その言葉が、今でもエルディスの長い耳に強く焼き付いている。そうしてどうにも、剥がれていきそうになかった。無論、エルディス自身にはそれを忘れ捨てようなどという気はさらさらなかったが。


 最初にそれを聞いた時、エルディスはルーギスの事を何と自分勝手で、傲慢な奴なのだとそう思った。


 己の事を何も知らない癖に、よくもまぁ好きな事をいってくれる。此れはとんだ愚か者に違いない、ならば無理矢理此方に引きずり込んで、最後には己の目の前で泣き言を言わせてやろうと、そう企んだものだ。


 けれども、彼が導いた結末はまるで違うもの。己の思惑など知らぬとばかりに大言を吐き、戦場を裂き、そうして果てには己を塔から救い上げてしまった。


 勿論、だといってもルーギスが身勝手な性質であるのは変わるわけではない。いやむしろ今ではその有様に拍車をかけていると言ってもいいだろう。間違いない。


 彼は勝手に人の領地に入り込み、勝手に此の心を掴みあげ、そうしてそんなもの知らぬとばかりに、また何処かへ行ってしまうのだ。


 本当に、身勝手にもほどがある。酷い人間だ。


 けれども、その身勝手さに救われたのが此のフィン=エルディスというエルフであるならば。よもやその全てを否定しきる事など出来るはずもない。彼の身勝手さを恨みながら、その様子を愛すというのは、なんとも酷い矛盾した有様だと。知らずエルディスは自らを自嘲した。


 白い手袋を二枚指に纏わせながら、吐息を漏らす。


 ルーギスが北方の大山脈フリムスラトに向かうとそう言った時、彼が纏う精霊具装はそれが何等かの誤魔化しの為だとか、虚偽をもって告げた言葉ではないと語っていた。


 少なくとも、彼固有の理屈と確信をもってその行き先を決めたのだと。


 其処に果たして本当に敵方の魔女、大聖教の心臓たるアリュエノが座するのかは分からない。けれども、ルーギスは虚偽なくそう言ったのだ。


 ならばエルディスにとっては其れを信じない意味はない。己の騎士が確信するとそういうのだ。他のありとあらゆる言葉が大きな波となって彼を否定しようと、己は彼の言葉にのみ従おう。


 肩に厚めの外套を背負わせる、フリムスラトは極寒の地だと伝え聞く。余り気温の差が激しい場所には訪れぬエルフにとっては、耐えがたい旅路となる事だろう。


 けれども、どうしたわけかエルディスの手は止まるという事を知らない。ルーギスの言葉を聞いてから、その聡明な脳髄の内部を走るのは如何にしてフリムスラトを踏みつけにしてやるかという事だけだ。


 何せ、諦念の殺し方は他でもないルーギスが教えてくれたこと。今更行先が極寒だからなどというのは、つま先一つとめる理由にはならない。


 其処が巨人の寝床だからどうしたというのだ。所詮巨人などかつての大敗北の果て、滅びを迎えることを余儀なくされた種族。幾ら彼らがかつてエルフの天敵だったからといえど、今更そんな存在に怯え背を見せる事など出来るものか。


 エルディスが旅支度の終いにと、その特徴的な細剣を腰に靡かせた、そんな頃合い。ガザリアの大天幕の中を、感情の吐息が転がっていく。


「――本当に、フリムスラトなぞに脚を踏み込まれるのですか、エルディス様」


 それはエルディスの侍女たる、ヴァレットの声だった。


 その声に含まれた色合いは、憤怒とも悲哀とも憐みとも感じられる。エルフとしては本当に貴重で、素晴らしい情動の振れ方だと、エルディスは眉を揺蕩わせる。


 この様に他者の感情に敏感でいられる者は、エルフにはそういない。


「行くとも。僕はかつての頃のように、自分で自分の首を絞めるような愚か者になりたくないのさ」


 そう、かつての頃の如く、自ら諦める理由を探し求めて、そうしてびくびく怯えて蹲っているなんて冗談じゃあない。ルーギスがそんな己を望むというのであれば別だが、そうでもない限り二度とあんな醜態をさらせるものか。


 エルディスの言葉を聞いて、ヴァレットは指先を震わせる。その口からは、とても女王に向けるべきでない感情が、零れ出そうになっていた。眼が、わなわなと戦いているのが、エルディスには見えた。


「貴方様はガザリアのフィン。精霊の寵愛を受け、我らエルフを導かれる方なのですよ。エルディス様の声を、その意志を、幾多もの同胞が待ち望んでいます!」


 本当に、良くも悪くも、ヴァレットというエルフはエルフらしくない。平常のエルフであれば、淡々と事実のみを告げ、そうして出来ぬとあらば早々に見切りをつけて諦めてしまうものだ。


 エルフの時は永い。それゆえかどうにも、此の種族は何か一つの事に熱を有したり、執着したりという情動が薄くなる。何かを縛り付けたいとそう願っても、その為に心を揺らめかせられるエルフがどれ程いることだろうか。


 恐らくそうする事で情動をかき乱さず、ゆったりとまるで植物の如く生を伸ばすことを、エルフの祖先たちは選んだのだろう。そういう意味でいうなら、きっとヴァレットは異端だ。そうして、自分自身も。


 ヴァレットは、強く語気を荒げながら、瞳に余りある情動を浮かばせて、言った。


「失礼を承知で申し上げます。エルディス様のお考えは――」

 

 真面ではない。


 そう言いたいのだろうと、知らず言葉を詰まらせてしまったヴァレットを見て、エルディスは瞼を緩める。


 彼女へと近づきながら、エルディスはゆっくりと唇を開く。耳の奥を擽るような声が天幕の内に響いていった。


「――真面でいる事は幸福かな、ヴァレット。エルフとして真面であるならば、僕は今でもあの塔の中で、死んでいないだけの生を謳歌しているよ」


 そうだとも。今考えればあの時、塔の中でルーギスに手を取られ、それを受け入れたその時から。僕はすでにエルフとして真面ではなくなった。真っすぐに連なっていたはずの道を踏み外したのだ。


 けれどそれが不幸な事だと思い至った事は一度もない。ただの、一度も。


 ああ、むしろ彼を想う情動が胸を蕩けさせる感触の、なんと幸福な事か。何と喜ばしいことか。例え黄金とて此の幸福には敵わない。其れを想えば、真面でいるなどという事のなんと不幸な事か。


 だから、と。エルディスは言葉を継ぎながらヴァレットの瞳を正面から、見つめる。彼女の瞳は涙がこぼれ落ちたかの様に潤み、其の光沢は濡れた鏡を思わせる。


 瞳の中、エルディスの姿が鮮明に映り込んでいた。エルディスは友人にするように、ヴァレットを抱きしめて言う。


「七日だけでいい、僕に時間をおくれ、ヴァレット。フィンとしての特権を、ただ此の為だけに使いたい」


 エルディスがそう告げた途端、ヴァレットの身に宿った精霊の術式が、ゆっくりと、変質していく。


 其れはある種の異変だった。本来精霊の術式は変質するものではなく、ただそのまま行使されるもの。変貌していくその様子は、精霊の暴走と言い換えても良いだろう。


 しかし有り得ぬはずの変貌を見ても、エルディスは微動だにしない。それが、ヴァレットが宿す本質だと理解しているから。


 光の鱗粉をが中空に跳ねまわり、ヴァレットの身を構成する術式と、そうしてその姿そのものを、変質させていく。


 これは精霊術と呼ぶには余りに異質だが、それでも奇跡と呼ぶには少々指が足りない。ゆえにエルフ達は此れを、精霊の変わり子と、そう呼んだ。


 エルディスの瞼が、瞬く。まさしくその瞬きの間に、全てが終わった。


 ゆったりと名残惜しそうに身を離せば、エルディスの眼前には、もはやヴァレットではなく己自身が、いた。


 透き通るような碧眼に、同色の髪の毛。白い肌にまるで周囲を睥睨するが如き美しき容姿。鏡と見まごう存在が、其処にいる。


 それが、ヴァレットがその肉を変じさせた果ての姿だった。


「苦労をかけるね、ヴァレット」


 眼前の己と同じ姿をしたものが、恭しく頭を下げる。


「いえ、これが私の役目ですから――しかし、エルディス様。貴女様の精霊の力をお借りしたとして、七日ほども持つかはわかりません。なるべくの、早きお帰りを」


 その声も、所作もまるでエルディスそのもの。元々他者を己へと重ねる事が得意であったヴァレットであればこその挙動であろうが、少し笑ってしまうほどにそっくりだった。


 エルディスは改めてヴァレットの精霊術を見つめ、感心したように頷きながら、帽子を深く被る。


 本来は危難が迫った際に用いるべき影法師をこの様な形で使わせてしまうとは。ヴァレットには随分と我儘を言ってしまった。


 帰ったならば彼女の好きな遊戯盤に付き合うとしよう。以前のように夜を越す事になったとしても、今回ばかりは受け入れようじゃあないか。エルディスの碧眼が、この時ばかりは柔らかく緩む。どうにもエルディスは、ヴァレットの事となると甘くなってしまったし、ヴァレットにしても同じことだった。


 天幕を、己の姿に扮したヴァレットと共に出る。髪の毛を隠し帽子を目深にかぶった己が、実はエルディス本人などとは、兵達にも気づかれまい。


 ようやくガザリアの陣地から離れた頃合いになり、ふと、エルディスは思う。再び男装に身を包んでまで傍にあろうとする己を見て、ルーギスは何というだろうか。


 喜ぶだろうか、呆れるだろうか、それとも怒るだろうか。どうにも想像がつかない。


 けれど、彼は言ったのだ。己を頼りにしていると。ならば多少なりともその期待に応えるため傍に在るのは当然の事だろう。


 それに、だ。もう一つばかり、気に掛けねばならない事が、エルディスにはあった。ルーギスが身に着けた、精霊具装の事だ。


 あれは彼に精霊の加護を与え続けるが、その反面、魂にその足跡を深く残してしまう。もしかするともうそろそろ、己が傍にいなければ身体が重くなる頃合いかも知れない。


 エルディスは帽子の下に隠した碧眼を細く歪めながら、艶やかな笑みを、頬に浮かべた。


 ――ルーギス。君にありとあらゆる祝福と、幸福を与えよう。それこそ、それを失ってしまえば生きていけなくなるほどの、ものを。

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