第二百七十四話『絡み合い解れぬ糸』
紋章教大天幕の中は、何とも言い難い空気が満ちていた。誰もが何かを言いたげで、それでいて何も語りださない。皆が皆、何か切っ掛けを待っている様な、そんな気配。
その中に一つばかり声が、零れた。
「――私はね、貴方に嫌われることでもしでかしてしまったんじゃないかって、時折そう思うことがあるわ」
すぐ右隣に腰をついたまま、フィアラート=ラ=ボルグラードが声を固くして、此方を見つめながら言う。それはフィアラートにしては随分と珍しい、やけに張り詰めたような声だった。全身を緊張で漲らせた時に放つ、声。
はて、別段俺はフィアラートに対し何か馬鹿げた事を言ったつもりはないし、邪険に扱ったという記憶もないのだが。どうしてそのような話になるのだろうか。思い当たらぬとでもいうように、肩眉を揺らめかせる。
そんな俺の表情が気にくわなかったのだろう、次の瞬間にはフィアラートの黒眼が細まり、尖るような視線が俺の頬を焼いていく。知らず、唇がひくついた。何と語り返せばよいのか、どうにも言葉が出てこない。
誤魔化すように、手近に置いてあった杯へと手を伸ばす。妙に、喉が渇いていた。それに冷たいエールで喉を潤せば、案外言葉も気楽に滑り出てきてくれるかもしれない。
そうして杯を手に取る、瞬間。その杯が、目の前で細長い指に奪われる。左隣から伸び出て来たそれは、問わずとも誰のものか分かった。銀髪の剣士、カリア=バードニックのものだ。何度見ても、その白い指で長剣を自在に振るうとはとても思えない、そんな指だった。
カリアは悪戯げに微笑みながら杯を傾け、エールで唇を濡らしてから、言った。フィアラートのものとは違い、随分と軽い調子だ。
「奇遇だなフィアラート、私もだ。何せ仲間だ、己の盾だと言いながら、いざという時には置き去りにされるのだからな。きっと心の底では軽蔑すらしているに違いあるまい」
いや、此れは違うな。カリアは軽く言っている様に振る舞ってはいるが、その声の節々が上擦っている。
何か抑えきれぬ情動を胸の奥に抱えながら、何とか無理やり押し込めているような、そんな雰囲気があった。同時に、一つの切っ掛けさえあればそれが周囲に盛大に降りかかりそうな、危うさも。
不味いな、大いに不味い。
フィアラートにしろカリアにしろ、どう見ても平時の様子ではない。いやまぁ、その裏にある事情という奴は何となく俺も理解していないわけではないのだが。それにしても、少しばかり度が過ぎないだろうか。
語るべき言葉を必死に頭蓋の中で探しながら、間を空けるように胸元から噛み煙草を拾いあげる。慣れた動作であるはずなのに随分ともたついたのは、指先が緊張でも抱えているのだろうか。落ち着きを取り戻すように、何時も通りの動作で、唇にそれを咥えさせる。
そうして、風味を鼻に通す暇もなく、背後から伸びた手に噛み煙草が取り上げられた。
「そうだね。言葉は心が付き添ってこそ。心の添わない言葉だけで誤魔化されるほどボクは安くないつもりだけれど――ねぇ、どう思う。ルーギス、ボクの騎士」
フィン=エルディスは、俺の背にしな垂れかかるようにしながら、奪い取った噛み煙草をくるくると器用に指先で回す。耳元で囁かれた声は、耳の奥底を擽るようだった。そのまま耳元で、君は誰を頼りにしているんだったかな、とエルディスが続ける。奥歯が、歪な音を立てた。
勘弁してくれ、酒も噛み煙草も奪われたら、俺は何に縋れば良いと言うんだ。せめてどちらか一つくらいは残してくれるのが情というものではないだろうか。
そう思い、煙草を取り戻そうと指を伸ばした瞬間だった。俺の思考を見透かしたように、正面に立った聖女マティアが口を開く。
「今は至極正当な話をしているのです。そんな場には酒も煙草も不要でしょう。違いますか、ルーギス。間違っているのは何方でしょう」
真っすぐに此方を見つめるマティアは、表情こそ穏やかなもの。しかしすぐに、理解する。穏やかであるのは表情だけだ。その双眸は笑みだとか穏やかさだとかいうものを投げ捨ててしまったかのように、鋭利な存在感を放ちながら此方を見据えている。まるで獲物を前にした猛禽のそれ。
駄目だ。誰もかれもその眼と頭蓋を熱で浮かしてしまっている。とてもではないが助け船を期待できる状況ではない。
そうして、聖女マティアにフィン=エルディス、此の二人が天幕の中にいる以上、外からの援軍も期待できまい。むしろこぞって誰かが此処に入り込んでくる事を阻止するはずだ。
ならばと視線を横にずらし、四人の他天幕内に残った唯一の人間、ラルグド=アンに視線をやった。こんな具合に糸が好き放題絡み合ってしまった際、それを解してくれていたのは何時も彼女だ。ならば今日この時も少なからず助けを期待できるのではなかろうかと、そう思う。
そんな想いを込めて、アンと視線を交わすように、眼を動かした。
小さな体躯は、恐らくすぐに此方に気付いたのだろう。ぴくりと、眼を跳ねさせた。そうしてその顔に無邪気な笑みを、浮かべる。実に楽し気な笑みだった。
しかし、その唇は一向に開く様子を見せない。なるほど、助ける気はないという事か。
臓腑の底から大きく溜息を洩らしながら、両手をあげて言う。
「分かった、俺が悪かった。自覚しているとも。だからそう誰もかれも燃え立ったみたいに熱を寄越すのはよしてくれ。もう炎は十分胃に入れた後なんだよ」
言葉を発した後、一瞬の空白があった。周囲から与えられる視線が絡み合い、熱を帯び、そうして無言の内に重みを増していくのが分かる。
空気はといえば、その視線に熱を奪い取られたとでもいうように、冷たい。此の冷気は何も、今が死雪の節だからというわけでもないだろう。
延々と続くと思われた一瞬の後、仕方がないとでもいうように、マティアが唇を開いた。わざとらしく大きなため息をついた後で、だったが。
「――余り時間があるというわけでもありません。一先ず今の所は治めましょう。集まって頂いたのも、何も貴方の不逞を咎めたてるわけでは無いですから。アン、本題を」
音を立てぬ程度に安堵の吐息を漏らす。だが、肩からは未だ力が抜け落ちて行かなかった。何せ、確かに空気はマティアの言葉を前にしてその緩みを取り戻したが、それでもまだ何処か緊張をその腹に孕んだままだ。
傍らではカリアがまるで納得していないとでも言いたげに唇を尖らせていたし、フィアラートにしろ、エルディスにしろ、似たようなものだろう。
何といえば良いのか、まるで棘を剥き出しにした茨の椅子に座り込んでいる様な気分だ。生きた心地がしない。
アンはマティアに促されると軽く頷き、テーブルに敷かれた大き目の地図に幾つかの丸い石を置いていく。位置関係を見るに、恐らくは紋章教の影響力下に収まった地域を示しているのだろう。勿論、未だ大聖教が吐息を吹けばそのまま飛んでいきそうな程度の影響力ではあるのだが。
「では、僭越ながら私から。此度のフィロス事変、過程はどうあれ結果は良き物になったと言えます。最もロゾーが反逆者へと至った事は私の失態ゆえ、大きな事は言えませんが」
少しばかり声の調子を弱めながら、それでも淡々と、アンは現況についてを取りまとめていく。
その話術というやつは、なるほど流石のものだと、そう思う。人が聞き取りやすい言葉を敢えて選び取っているのであろう、耳に触れた言葉がそのまま頭蓋の中へと入り込んでくる。
フィロス事変。統治者であるフィロス=トレイトを反逆者ロゾーが失脚させ、一時的に都市フィロスを支配下に置いた今回の一件。それもロゾーが死に絶え、そうしてフィロス=トレイトが救出された事で終わりを迎えた。
いや正確には、紋章教の介入により無理矢理に終わりを迎えさせた、が正しいか。唇の端を僅かに噛み、そうしてそのまま眼を細めた。噛み煙草がない所為か、随分と口元が寂しい。
「反逆者たるロゾーは地に伏し、本来の統治者たるフィロス=トレイトは紋章教の手中。もはや都市フィロスに組織的な行動力は存在しません。彼らは我々の影響下に入ったといって過言はないでしょう」
勿論今後の統治については、少々注視が必要ですが。アンはそう続けながら、今回の件を締めくくった。俺はその言葉を聞いて、随分と淡々と語るものだと思わず目を丸くする。
都市フィロスにおける本来の統治者であったフィロス=トレイトは未だ療養中であり、治める者のいない都市フィロスは紋章教の影響下に組み入れられた。これ自体は間違いではあるまい、明確な事実だ。けれどもその過程は決して淡々と語れるほどなだらかなものではない。
何せフィロスの市民は、紋章教の同盟相手たるフィロス=トレイトに対して一度刃を向けた連中だ。首魁たるロゾーが倒れたからと言って、紋章教もそう簡単に受け入れられる訳がない。
正直に言えば、マティアにしろアンにしろ、侮られぬ為に槍と剣をもってしてフィロスという都市を踏み潰す事すら考えていたはずだ。そうして、その選択が取られる可能性は大いにあった。
けれども大聖教と今後対決を行う上で、最前線となるフィロスを失うのは余りに惜しい。都市を焼き払うのは簡単な事だが、それを今一度育て直すのは苗木を樹木にするより困難だ。
であるならば、二度と同じような真似をさせぬため、フィロスを完全な傀儡都市と化す必要があった。フィロス=トレイトの取り込みは勿論、フィロスという都市そのものを無理矢理造り替えてしまうような手法をもって。
その手法の中には、時に都市の一部を赤く染め上げる選択とてあったことだろう。少なくとも、一言で語り切れるほど楽なものではなかったろうに。
アンはその眼の端に僅かに疲労らしきものを見せながら、それでも表情には出さぬようにして、小さな唇を波打たせた。
「詰まる所目下の問題は此れから――死雪の時代をどう乗り越えるかという話になります」