第二百七十二話『鷲鼻の思惑とその旅路』
スタンレー家の名代、バッキンガム=スタンレーはその特徴的な鷹鼻をひくつかせ、テーブルにおいた水に数度口をつけた。頭が、酷く痛むのが分かる。
その頭痛は、もはやバッキンガムにとって持病のようなものだった。しかも外的な要因から与えられるものではない、精神などという、何処に在るのか分からぬものからひねり出される痛みだ。
ガルーアマリアにてスタンレー家の外交を担っていた時は、こんな様を見せることは一度たりともなかったのだが。ガーライスト王都に居ついてからは、寝ても冷めても此の痛みに苛まされる。歯の鈍った鋸が、丹念に頭を切り裂いているかのようだった。
かつては悪ふざけと美酒を愛した男が、情けない。よもや己がこれほどに弱い人間だとは思いもしなかった。バッキンガムは大きく溜息を吐く。自室にてその重い吐息を漏らすことが、最近ではバッキンガムの日常のようになっていた。
頭痛を呼び起こす種は、二つ。両方とも頭の奥底に埋まってしまっている。
一つは当然、スタンレー家の名代として形もない重圧を背負わされる日々そのものだ。本来の当主であった兄は未だに行方が知れず、遺骸も探せぬまま。親類共はガルーアマリアという拠り所を失ったスタンレー家から散るように去って行った。
本来の次代当主であり、バッキンガムの甥でもあるヘルト=スタンレーは、社交界の毒蜘蛛共と舌を絡め合うには未だ経験が浅かった所為だろう。何時の間にやら、スタンレー家の外交を担っていた己が名代という事になってしまった。
正直、碌なものではない。依るべき地を失った名士など、あって無きが如し。出来ることと言えばガルーアマリアを取り戻した際の利権を切り売りし、少しでもガーライスト王都での生活と地位を保つことくらいだ。
貴族のご機嫌伺いに、ありとあらゆる社交の場に顔を出す日々。そうしてそこで演じるのはかつての自信を張り巡らせていた己自身だ。
酒好きで、女好きで、悪ふざけを何より好む。そんな放埓な人間を何時までも演じ続ける。そうする事で刺激に飢えている貴族連中の興味は引けるし、笑いも買える。ある意味で、それがバッキンガムの処世術だった。
だがそんな事を繰り返すうち、バッキンガムはかつて好きだった酒も、女も、悪ふざけも。何もかも鬱陶しく思えてきてしまうようになっていた。実に面白くない人間になったものだと、歯を噛んで自嘲する。
どれほど嫌になろうとも、そんな愉快な存在を演じ続けなければならない日々。その矛盾というやつが、バッキンガムの頭蓋に痛みを孕ませていた。
――矛盾を常にその胸に孕ませ、生み落としてはまた孕む。それが人間の性ってやつじゃないかな、ヘルト。
かつて甥のヘルトに、そんな事を偉そうに語った覚えがある。全くそんな事を言い放ちながら己がこの様とは、笑いものだ。
そうして、もう一つの悩みの種というのが、その甥。ヘルト=スタンレーの事だった。
あれは良くやってくれている。大聖堂預かりとしての振る舞いに文句はなく、時折社交場に次期当主として顔を出させればそつなく交流を交わすし、話も上手い。
左眼を失って尚、その性根は卑屈に転げてなどいなかった。むしろより精悍としたものだ。このままいけばきっと良い当主になれる。バッキンガムはそれを確信している節すらあった。身内の贔屓はあれども、間違いではないだろう。
そう思うからこそ、懸念がある。それは時折ヘルトが見せる、危うさ。
闘技場で命を荒く扱うような振る舞いを見せることもあれば、時に冒険者まがいの事をしでかすこともあった。勿論、それで危機に陥ったというわけではない。むしろこちらが拍子抜けするほど何事もなく、黄金の眼を輝かせ帰ってくる。だが、だからといって見逃せるわけでもない。
かつてガルーアマリアにいた頃は、そんな様子を見たことは一度もなかった。正義と善意の信奉者であり、体現者。懊悩する事も戸惑う事もなく、ただそれを遂行する人。それがヘルト=スタンレーだったと言って過言はない。過去の己はそれを人間味がないとそう言ったが、今ではあの頃が懐かしく思えてくる。
ヘルトの危うさは、最近特にその度合を増しているようにバッキンガムには思われた。あれは、もしかすると自棄なのだろうか。
己が父を失い、拠り所を失い、そうして片目まで失った。ヘルトの年頃は未だ血気盛んな頃合いだ。平時の様子からは見て取れずとも、その心の奥底、臓腑の裏では暗澹たるものを抱えている、そのような事はあっても何らおかしくない。
それは、駄目だ。あれは、ヘルトは決して小さな器ではない。時代が上手くその背を押しさえすれば、何処までも駆け上がっていく器だ。少なくとも、バッキンガムはそう信じている。
――コン、コンッ
固い、あくまで控えめなノックが自室の扉から鳴らされる。バッキンガムは僅かに枯れた声で返事をしながら、入るよう促した。どうやら昨夜は声を使いすぎたらしい。
入りますよ、叔父上。そんな声と共に、黄金色の頭髪――ヘルト=スタンレーが扉から姿を見せる。ヘルトは何ら気兼ねないという風に、室内の椅子に腰をかけた。
ガルーアマリアにいた頃は綺麗に整えていた髪の毛が、今では僅かにばらけている。しかし乱雑という風な印象を受けないのは、その物腰故だろうか。
考えていた言葉を捻りだすようにして、バッキンガムが言う。
「ヘルト、貴様に良い報せを持ってきてやった。大聖堂からのお声かけだ」
ヘルトはややその右眼を細めるようにして、バッキンガムの言葉を噛みしめる。数瞬、果て何事かと考えるようにしてから、唇を開いた。
「構いませんよ。魔獣の首狩りか、それとも誰かしらの護衛ですか」
何にしろ問題はないが、と言わんばかりに、ヘルトは顎を軽く引いて頷く。それは傲慢とも、余裕とも自棄とも取れる、何とも曖昧な返事。
バッキンガムは鷲鼻を高くあげ、ヘルトの態度を見定めるように唇を濡らす。そうしてから、首を横に振った。
「護衛だが、何ら危険はないさ。当然だ。貴様はスタンレー家の次期当主だぞ。危険な目になど遭わせられるものか」
言葉を滑らかに継いで、バッキンガムはその白い歯を見せる。社交場で見せるのとはまた違った笑みだった。何かを言いかけたヘルトの声を豪快に踏み潰す。
「貴様が行くのは――聖女の旅路、巡礼の護衛だ、ヘルト。私の旧友に聖堂騎士がいる。誉とも呼ばれる騎士がな、形式上は彼の同行者だ」
そう言って一人の騎士の姿を、脳裏にちらつかせる。朱槍を振るい、獰猛な笑みを見せる彼。彼のすぐ傍にいるのであれば、万が一にも危険はない。それに、巡礼の旅路というものは神に見守れているも同然だ。其処に死の危険などあるはずもない。
かつて語られる巡礼の逸話はどれも、奇跡的に聖女を含めた全ての同行者が助かるというのがお約束だ。
「要は儀式の付き添いですね。あまり興味は湧きませんが、大聖堂預かりの義務という事であれば」
殆ど間断なくそう切り出したヘルトに、バッキンガムは思わず鼻白む。
過去の頃であれば、興味がない、などと言う人間ではなかったろうに。特に巡礼の付き添いなど、誰もがやりたがる中、選ばれた者しか出来ぬ役目だ。聖女の逸話、言わば神話の一端に関わるに等しいこと。
バッキンガムは一瞬言葉を詰まらせながらも、大きく頷いて手を打った。動揺を誤魔化すように、敢えて大仰な演技をしてみせた。そうして水に唇を浸す。
今回ヘルトが巡礼の同行者として選ばれたのには、バッキンガムの働きかけもあるが、何より大聖堂がそれを求めたというのがある。理由はバッキンガムにも容易く想像がついた。
今、大聖堂は少しばかり焦りを見せている。死雪に入る間際の会戦で、紋章教に遅れを取ってしまった。大聖堂がそのまま死骸を晒すなどという事はそうあるまいが、それでも司祭共は大いに慌てていることだろう、その責任を取らされるかもしれんと。それに民の心情も、少なからず揺れている。
――だから、奴らは物語が欲しいのだ。心を充足させ、高揚を得る為の物語が。敗戦の責任から眼を逸らさせるための何かが。
そこで考え付いた筋書が、こうだ。
紋章教により生家を奪われた名士の跡取りが、大聖堂の庇護下でその意志を確かなものとする。そうして聖女の巡礼を経て、神の宣託を受けた後、紋章教の討滅を誓い聖堂騎士となる。
実に美しい物語だ、市民連中はこんな安い芝居でも胸の奥を熱くしてくれることだろう。傑作だ。
だが、どのような思惑が裏にあれ、何にしろ良い機会である事に間違いはない。聖堂騎士というのは国王直下の騎士とは違い、大聖堂管轄であるがゆえ、一種の不可侵性を持つ。時代によっては下位貴族以上の権限を有する事だってある上、大聖堂が明確な拠り所になってくれる事も大きい。
ヘルトが自棄になっているのか、それとも他に何かがあるのか。それはどうにもバッキンガムには理解しかねる。それでも、その拠り所を作ることには、決して意味がないとは思わない。
僅かに細められた黄金の右眼を、バッキンガムは見た。
ヘルトには、過去から不思議な魅力があった。人を魅了すると言えば良いのか、その眼に貫かれると、まるで己の奥底を照らされているような気分になる。どうにも、人を惹き付けるものがあるのだ。
此の様な所で折れ曲がって良いような存在では、あるまい。今回の良い話が回ってきたのも、その証左だ。神の導きと言っても誤りは無い。
「では、すぐに準備を。私の友――ガルラスという名だが、気のいい男だ。良い旅になる事だろう」
鷲鼻を揺らしながら、バッキンガムは言った。頭が、痛む。