表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十一章『巡礼編』
272/664

第二百七十一話『瞬きの夢』

 其処は、白。雪の中とも光眩い場所とも言い兼ねる、ただただ白い空間。その場で言葉を発するは、一つの白色。


「おお、怖い怖い。彼は一体どこまで行くのだろうね。怖くて堪らないよ」


 其れが響かせる言葉は、何ら感情が籠ったように見えない。言葉にあってしかるべき重みというやつが、悉く抜け落ちている様な、そんな雰囲気があった。


 今発したものにしてもそう、怖いと言いつつ、その実は全く備わっていない。まるで音を無理矢理並べ立てたような感触。


 白は、指先で空気を弄るようにしながらまた音を立てた。


「けれども結局何も変わらない。もう演目は始まる。死雪に至れば、それで全てが終わるだろう」


 せめて国の一つでも取ってもらわねば話にならぬと、白はまるでせせら笑うように音を並べた。それは聞いた者を酷く困惑させ、不快にさせる音。気の弱い人間であればその音を耳にしただけで気を逸してしまいそうなそれ。


 そんな音を噛み砕くようにして、対面の影は語る。


「演劇とは、常に脚本家の手元から零れ落ちるものだ。もう忘れたか、アルティウス」


 影の頬が、歪むようにつりあがる。面白がっているのか、それともまた別の感情を抱いているのか。その表情はどうにも読み取れそうにない。そうしてそれは、白の方も同じだった。


 転がるような音で、白が言う。


「覚えているとも。君が私の筋書きを破り捨ててくれたことは、忘れたくても忘れられない。ああ、悲しくてたまらないよ、オウフル」


 そんな事をまるで悲しくなさそうに、言う。


 もはや、その光景は何を見ているのか分からなくなってくる。人が話しているのか、それともただ音がかき鳴らされているだけなのか、はたまた全く違う言語が振るわれているのか。まるで理解が及ばない。


 ただ一つ理解できる事と言えば、その白と影が、何かしらの意思を交わしていることくらいのものだろう。


 アルティウスと、そう呼ばれた白が音を継ぐ。どうしてあんな事をしたんだい、と。影はそれを受け、独白するように、嗤いながら言った。


「――聞かれるまでもない。貴様は彼に与えなかった、だから私は与えた。それだけのこと」


 影は大仰に身振りをつけて語る。その有様は本当に、舞台にあがった役者のよう。ならば、この

場面はもうすぐ終わりを迎えるのだろう。影の姿が、周囲の光に押し戻される様に、揺れる。


 まるで夢の光景の如く影は揺蕩い、僅かに乱れ始めた声で続けた。


「まがりなりにも神霊を名乗る貴様が零したものを、拾っただけに過ぎん」


 影の言葉を聞いて、白は酷く愉快げだった。いやその様子を見ても感情が籠っているかすら良く分からないため、そうとは言い切れぬのだが。とにかく嗤うように音を、鳴らしていた。実に楽しそうに、実に滑稽なものでも見るかのように。


 白は言う。零したんじゃあない、残したのさ。


「私は彼らに救いを与えると言い、君は全てを運び込もうとそう言った。それを自ら破るなんて、空が裂けても有り得ない。その例外はただ一つ」


 影の姿が霞み、殆ど間もなく此処から消え失せようとしていた。ただその眼が僅かに細まっているのが、見える。何か意図を得たような、眼。


「――眷属が特権のみだ。そうだろう、君がルーギスなる人間に施したのと同じこと。私もまた、眷属の願いを叶えたに過ぎない」


 その音を最後に、空間から影は消え去った。そうして、白はそれを大して気に留めるでもなく、まるで何もなかったとでも言う様にその瞼を閉じていく。


 当然の事。今此処で起こったことは、まさしく夢。無かった事、本来有り得ぬ事だ。


 ただ世界が切り替わる瞬きの間に起きた、気まぐれのようなもの。だから、本当にこんな会話が何処かであったのか、それすらもよく分からない。



 ◇◆◇◆



 瞼を開けると、見知った天井がすぐそこにある事に、アリュエノは気づいた。慣れ親しんだそれが、どうして視界にあるのか、一瞬脳が不思議がって疑問を浮かべる。黄金の眼が、一度、二度と瞬き、眠気を払っていった。そうしてようやく、気づく。


 ――そうか、大聖堂にいるのだった。


 歌姫の聖女とそう呼ばれる様になり、アリュエノはもう数か月以上も巡礼を続けていた。その間運よく貴族の館に招かれることもあれば、宿がなく馬車で寝泊まりする事もあったが、頻度でいえば後者の方がずっと多い。


 神の加護ゆえか山賊の類に遭遇するような事はそうなかったが、それでも満足に寝れることは少なかったと言っていいだろう。


 その反動ゆえか、大聖堂内の己の部屋で寝れたことはアリュエノにとっては甘露に等しいことだった。それに己の部屋といっても、かつて修道女として数年を過ごしていた頃とはまるで扱いが違う。


 固すぎて背中に痛みすら感じられたベッドは、身体が沈み込むような柔らかさに変貌していたし、薄布のようだった毛布も、随分と厚いものに入れ替えられている。


 あからさまなものだと、アリュエノは思わず長い睫毛を揺らして吐息を漏らした。部屋内だというのに、吐き出された息が瞬く間に白い姿を見せる。


 用意されていた身を清める為の冷たい水は、まるで氷のようだった。どうせ待遇を良くしてくれるのなら、此処も湯にしてくれれば良いものを。身だしなみを整え、黄金の頭髪を揺蕩わせながら、目元に触れる。眠気はとうの昔に頭蓋の奥から消え去っていた。


 アリュエノが大聖堂へとその脚を寄せたのは、何も巡礼を終えたからというわけではない。むしろ未だ啓示は更に遠くの地を指し示している。ゆえにその身は、未だ聖女候補に過ぎなかった。誰よりも聖女に近い、という枕詞は付くが。


 そんな中、態々脚を大聖堂まで運ばされたのは他でもない、紋章教の躍進がゆえだ。勿論建て前では一度大聖堂にてその身を清め、巡礼の疲れを癒す、などというものだったが。


 サーニオ平野にて良く言えば後退、率直に言えば敗北した大聖教は、少なからず動揺を抱えている。そんな最中に、ただでさえ厳しい死雪の時代に入るのだ。民の悲鳴は隠しきれるものではない。


 それゆえ歌姫の聖女と呼ばれる己を呼び戻し、少しでも民の心を慰めておきたいというのが本音だろう。


 アリュエノはそれを思い、胸中に暖かいものを覚えながら小さな笑みを浮かべた。本当に、本人にしか分からぬようなささやかな笑み。


 紋章教の躍進。それは二人の人物の名とともにかたられる。一人は、魔女マティア。そうしてもう一人が、己が幼馴染、ルーギス。


 大悪、邪な竜、悪徳の人。名を聞く度にその肩書を変えていく幼馴染の噂は、アリュエノにとって必ずしも喜ばしいものではない。それは彼が紋章教という歪な救いに傾倒している証であり、大聖教に対して牙を剥いている事実そのもの。素直に喜べるはずもなかった。通常であれば、それ以外に感情などあるはずがないのだが。


 アリュエノはそれらの想いと同時に、黒く昏い、どろどろとした粘着質な情動が己の臓腑の底を這っている事を、よく理解していた。とても聖女に似つかわしいとは思えない、その感情。


 何と語るべきか、いいや決して人に語るべきものではない。しかしルーギスの活躍を聞く度、昏い喜びが胸を舐める事をアリュエノは包み隠すことが出来なかった。彼が紋章教徒として活躍するということは、その罪を重ねるという事。より深い場所に堕していくという事。


 その度に、彼は救われ難くなっていく。誰もその手を取らなくなっていく。きっと最後には、神も見捨て果てるだろう。


 ああ、そうなった時こそ私は彼を救おう。周囲の全てを切り払われ、何もかもを失って、そうして最後に彼が伸ばした手を私が取ろう。その後にゆっくりと罪を償い、救いを与えれば良い。私だけが、彼にそれを与えることが出来る。


 そんな、言い様のない衝動と確信。胸の奥底を熱く滾らせるような想いが全身に行き渡る。知らず、アリュエノは凍えるような寒さを忘れ、揚々とした気分で廊下を歩いていた。


 民への慰労として街々を回る事は、昨日まででその殆どを終えている。今日は確か、護衛の聖堂騎士を選定するのだとか言っていたのを覚えていた。


 と言っても、アリュエノが実際に行うような事は何もない。最終的には神の啓示が指し示す通りに、全てが決まるのだ。その先に己の願いがあるのだと、アリュエノは信じる。


 ――きっと私は、過去も未来も、同じ事を願うのでしょうね。


 黄金の瞳が、寒空の下に煌く。その中には信仰の光ともう一つ、昏い何かが浮かんでいるようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] これまでの流れを見ると、大聖教に与したこういう歪んだ欲求の持ち主は魔人化するしかない 呪いじゃなく祝福なんだろうからね 吐き気がするが
[一言] 読み返してここまで来たけどやっぱアリュエノさんヤベェよ。
[一言] 主人公の想い人が全然好きになれない
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ