第二百七十話『空に帰す灰』
あれはきっと、愚かな女だ。
ロゾーは自らの指先に僅かなぬくもりを感じつつ、重たい身体を放り出すようにしながら、思った。その身に宿らせていた炎熱が、ゆっくりとその姿を失っていくのが分かる。
何処までも愚直で、背負わなくて良いものも背負い込み、その小さな体で必死に何かを掴もうと足掻いている。
統治者という役割と、正しくあらねばらぬという強固な自律心は何処までも彼女を引き離さない事だろう。だというのに時にそれに徹しきれず、同情や悲哀などという矮小な感情に縛り付けられるその矛盾した有様は、愚かと言わざるを得ない。
そんな、何処か歪んだ性質。フィロス=トレイトという女は何処までいっても、そんな自分自身から逃げられない。
けれどもそんな彼女だから、そんなフィロス=トレイトだからこそ、ロゾーは焦がれた。正しくあろうとして、それゆえに何処か歪んだ女。もしかすると正しさというものは、何時だって歪んでいるものなのかもしれない。
「どうするロゾー、お前に一度だけ機会をやろう。俺が楽にしてやっても良い、フィロス=トレイトに裁かれても良い。お前の決着だ、お前でつけろ」
頭上で、怨敵が呟くように言ったのが聞こえた。淡々とした声ではあったが、相手を侮辱するようなものではなく、ただ投げかけただけの、それ。どう考えても、魔人相手に掛ける情けではなかろうに。
思う。やはり此のルーギスという男も、何処か真面ではない。真面でないから此処で魔性と化した己と刃を交わし、そうして、勝利した。
そう、彼は勝者だ。ロゾーの頬が、揺れる。
「自分の始末だ、自分でつける。そういうものだ。それに、君らは私のような小さな者に付き合う暇などないぞ」
炎熱が、自らの身体を焦がし始めるのを感じていた。もはや炎と一種同化すらした身体が燃え尽き、そうして灰へと帰す此の奇妙な感覚。指先から、少しずつ存在が崩れ始めている。此のまま、己の存在は消え失せるのだ。
当然の話だろう。何せ、己の原典は崩れ去った。人をやめ、そうして己の存在証明をも失った魔性は、ただ世界から去るしかない。憎悪に塗れた炎熱は、最後には枯れ行く運命だ。
フィロス=トレイトへと、視線を向ける。四肢を赤子のように震わせ、此方へと近寄ってくるのが見えていた。何かを大きな声で叫んでいるようだったが、どうにも耳は上手くその音を拾ってくれない。せめて最後くらい、彼女の声を聞いていたかったが。己が焦がれた女の、声を。
結局私は、馬鹿らしいことに最初から最後まで彼女を憎むことが出来なかった。どうしてだろうか。幾度も敵対し、言葉を交わし合い、時に罵りすらしたはずなのに。
ロゾーが頬を崩す。きっと、あの時からだ。未だ最低の身分にあったあの時、巡回中の彼女に見惚れ、そうして声を掛けられた、あの時から。
言葉を、続ける。頬が自然と波打っていた。
「近くの魔獣巣を護衛兵と冒険者に突かせている。死雪の魔獣共は獰猛だぞ、すぐさまフィロスの都市街と君らの軍に襲い掛かる。さぁ、今成すべきは一つだろう」
視線を僅かに上向かせると、ルーギスの眼が僅かに細まっているのが、ロゾーには見えた。その眼がどんな感情を湛えているのかは、分からない。だが何にしろ、良い感情ではないだろう。
馬鹿め、己は君の敵だ。それだけは確かなはずだ。こんな不様を晒したのだから、せめて最初からその最期まで、君の敵でいさせてくれ。それでこそ私は死んで行ける。
膝元が灰となり、四肢は崩れ去った。もうすぐ声もでなくなる事だろう。不思議と、月光が眼に眩しい。
――ッ!
その、最後。フィロス=トレイトの声が、聞こえた気がした。まるで泣くような、悲し気な声。それがどうにも、悪いものではない。
唇を開く。目はもう見えない。
「ルーギス。最期に厚かましい願いだ。フィロス=トレイトに、感謝を。そうして――」
もう何も見えなかったが、何処かで彼が頷くような気配があったのが、分かる。ならもう、語るべき事はない。此れで己の生涯は全うした。後悔は何もない。精々あるのは愚痴くらいのものだ。そう、小さな。そうして己の身には大きすぎるほどの、愚痴。
ああ、願わくば。
「――願わくば、ルーギス。君とは未だ正義を信じていたあの頃に出会いたかった。良い友人になれたろうに――ではな、英雄」
それだけを残して、ロゾーの身体も、そうして魂も、灰と化し消えていった。何時しかその灰も風にゆられ、そうして世界に散っていった。
◇◆◇◆
ガーライスト王国フォモール家の邸宅にて、現当主ロイメッツ=フォモールは、その巨躯をやや傾けて、報告書の文字を追った。暫くして、眼を歪めながら顔をあげる。
そうした後、誰に言うでもなく呟いた。
「退いたか。あの悪辣が」
敗けた、という言葉は敢えて使わなかった。悪辣の勇者リチャード=パーミリスにとって、真の敗北とはその身が死んだ時だけだろうから。
だがそれでも、彼が紋章教に数歩退かされたのは、確かだ。
ロイメッツは自らの身体と比較すると随分と小さくなってしまう椅子にもたれかかり、眼を揺蕩わせる。己の心の中に浮かべるべき感情を、何とか整理しようとしているようだった。
正直な事を言えば、此の報せはロイメッツにとって大きな衝撃だ。リチャードが後退を余儀なくされるなど、考えたこともなかった。それは楽観というよりも、ロイメッツの中に宿っているリチャードへの揺るぎない信頼だ。
未だ年若い頃、ロイメッツも次期フォモール家当主として戦場に出た覚えがある。と言っても勿論前線に出るような事は許されなかったが、それでも間近で命が安売りされている現場を、確かに見た。
そう、その戦場にいたのだ。未だ勇者の二つ名を胸に飾り、陽光の下を歩いていたリチャードも。あの日彼と出会い胸に抱いた感情は、今この日にも覚えている。
そうか勇者とは、こういう者を指していうのか。
大剣を振るえば敵軍が裂け、声を上げれば全軍が呼応する。退くことは愚か、踏みとどまることすら知らぬその様。まさしく雷光と呼ぶに相応しい。彼が敗北する姿など、想像すら出来なかった。
時は経ち、リチャードは確かに老いた。己同様、もはや最盛期とは言えぬだろう。それでも、尚あれは強者だ。後手を取る姿など考えられない。
ゆえに後退を強いられたのであれば、リチャードが弱いのではない。紋章教とやらが、同一の強者なのだ。
太い指が、鼻先を撫でる。それがロイメッツが考え事をする際の癖だった。さてどうしたものかと、巨躯が傾く。
大聖堂の名を冠した軍が敗北する、それ自体は大した問題ではない。むしろ歓迎しても良いことだ。
何せ最近の教会連中はその幅を利かせすぎている。少しばかり大人しくなるのなら、一度や二度の後退は有難いというもの。所詮宗教は統治の道具、道具が自己主張をし過ぎるのは面白くない。大人しく教義だけを唱えていれば良いものを。
だが、道具が道具としての役割を果たさないのも、それはそれで問題だ。大聖堂の教えは、何よりも統治者にとって使い勝手が良い。
――確か聖女は、未だ巡礼の最中か。
大きな手が鷲の羽で作ったペンを、取った。歴史がまた一つばかり、その身に疵を作ろうとしている。
お読み頂き有難うございます。
第十章は本話にて完結となり、次話からは第十一章となります。
日々の更新が遅れ気味となり申し訳ありません。
可能な限り元の更新ペースに戻すよう尽力致しますため、ご容赦
頂ければ幸いです。
また、日々のご感想誠にありがとうございます。皆様にお読み頂け、
少しでもお楽しみ頂けているのであればこれ以上の事はありません。
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