第二百六十八話『一瞬の果て』
その身に刻んだ濃厚たる紫電の一線が、赫々たる異様を伴って、煌く。宝剣はロゾーの昏い炎の傍にあって尚その身を大いに輝かせ、炎すらも飲み込まんとするほどの存在感を持って、ただ己の主に付き従っていた。
そうして、思う。また此の類か、と。宝剣は主の手中に収まったまま、鼻を鳴らすように蠢動した。
魔人、魔種と呼ばれる連中。獣に亡者、車輪や魔女などと揶揄される彼ら。
魔獣がただの獣や人が魔に侵されただけの存在であるならば、此の魔種共は紛れもない大いなる魔の直系。大魔の恩恵を受けた者。
なるほど、ならば当然に人は敵うまい。眷属とまでは言わぬものの、奴らは魔性そのものに心臓を掴み込まれた存在だ。その身はもはや人間とは別の所にある。
であればこそ、人間が術や武技を懸命に振るった所で、彼らに敵うはずがない。彼らを殺すのには、何時だって奇跡が必要なのだ。本来人間には掴み取れぬはずのそれが。
そんな奇跡を起こし、そうして栄光を掴み取れるのは、何時だって運命に選び取られた英雄か、神の寵愛を受けた勇者だけ。それらが世界に選ばれるその時まで、人はただ彼らに踏み潰されるだけの存在でしかない。
ならば、と宝剣は紫電の線を中空に描いたまま、思う。
――ならば、我が主は当然に此れを切り伏せよう。寝付いた獣を殺すより容易いとも。
英雄であるから己を持ち、英雄であるから此れを殺す。此れ以上に明確で、分かりやすいことなど他にあるはずがない。
英雄殺しと、そう銘を打つ宝剣にとって、今とてもとても喜ばしいことがある。それは己が身と主が一体となり、ようやく彼が英雄とそう呼ばれる道を歩き出したことだ。
と言っても、目を細め、とても眩しそうにしながら歩くその姿は危なっかしいことこの上ないが。今回とて、もはやその身が只人のままであれば、臓腑が熱に爛れ生きてはいまい。今此処に主があるのは、主がその肉体をも英雄とならんとしている証拠だ。まぁ、その身に妙な魔力が手を伸ばしていたのは、少々癪に障るが。それでも、喜ばしい。言ってしまうなら、自慢げだ。
もう二度と、誰一人、主本人にとて、その身が凡庸などとは言わせるものか。そんな愚かな言葉は吐かせない。その為なら、奇跡だって起こして見せるとも。
宝剣が、揺れる。その刃が弧を描きながら、空を斬獲していった。火の粉がその身を揺らめかし、消えていく。
それに、だ。所詮、眼前の此れはアルティウスが蒔いた種が一つ。ならば、己が殺せぬ道理が何処にある。
我が身はかつて、大魔アルティウスがその魔力を編み込んで造り上げた神秘と奇跡そのもの。言わばその分霊。精々魔の残滓を与えられた程度のものに、どうして敗北できようか。
――さぁ、主よ。喜べ、奇跡は此処に成った。
昏い炎が暗闇の中、爆ぜた。
◇◆◇◆
――ビュゥ、ン。
始まりは、その空気を斬りつける重い音。ロゾーの背後から不意を突くようにして投げつけられた、一つの斧だった。
はっきりとは見えなかったものの、其れの主はヴェスタリヌに違いあるまい。炎の裏で、影が意思を持って動いているのは見えていた。だから、前に踏み込んだ後、どう動くのかも決めていた。
倒れ込むような姿勢のまま、短く脚を踏み込んで肩を突き出す。完全な前傾となったまま、前へ。眼前では炎が蛇の如き獰猛さで、獲物を絡みとらんと慟哭する。ロゾー本人もまた、右腕を振り抜かんとしている姿を取っていた。
その焼き付くばかりの炎熱に包み込まれれば最期、恐らくは一息の呼吸をするまでもなく、全てが終わる。喉は焼け肺は爛れ四肢は炭と化すだろう。
だから此れを殺すには。一呼吸の合間もなく、瞬きほどの猶予すら与えないで殺すしかない。殺す、腹を砕き割る、心臓を抉り取る。
一歩、踏み込んだ。触れ重なった炎の蛇が、悪戯に肌を焼いていく。同時、投げ斧がその重い身体を存分に振るいながら、ロゾーの後頭へと迫っていた。
ヴェスタリヌの事だ、俺の身体をぶち抜かぬよう、それでいてロゾーの気を惹き付ける為の一撃を狙ってくれたのだろう。何処までも生真面目というか、何というか。勿論、有難いのは間違いないが。
魔人とはいえ武具にその身を抉り抜かれれば、一瞬は意識を放り出さざるを得ない。それは、奇襲の一撃で理解していた。だからこそ、ヴェスタリヌは最も効果が得られるだろう頭蓋の裏を狙ったのだと、そう思う。ロゾーはもはや燃え立つ炎そのものとなったとはいえ、流石に頭蓋部分を弾き飛ばされれば、多少は効果が見込める事はずだ。
暗闇の中、眼を見開いてロゾーの動きを想定する。予想し、見極め、そうして描いた線へと、宝剣を乗せた。
その軌道が正しいかどうか何てのは、分からない。確信なぞ持てるはずもない。確かなのは、次の瞬間には俺かロゾー、どちらかの身体が四散しているという事、だけ。信じられるだけの材料など何もない。
それでも其れを、信じた。そうだとも、失うまいと身を怯えて縮めるだけでは、何者になる事も出来なかった。最後には、この手に残ったものは何一つとしてなかったじゃあないか。
どうせ死ぬのなら、俺は俺自身が描いた台本の内で死にたい。他人の舞台で死ぬなんてのは御免だ。
濃厚な紫が、火の粉を撥ねる。俺の眼が思い描いた軌道を、宝剣がさも簡単だとでも言う様になぞっていった。まるで宝剣そのものが、溌剌とした意志を持っているかの如く、滑らかな線が描かれる。それはロゾーの左脇を裂き、そうして心臓を抉るための、一撃。
――グ、チャ。
重い音が、鳴った。それは斧の刃がロゾーの頭蓋を、掠り取る音。肉とも炎とも言えぬ何かを砕き散らす音だった。
ロゾーの身に触れた途端、炎熱は素早く斧を食いちぎる。それでもなお、本来致命である重撃を受けた衝撃は易いものではない。
ぐらりと、その膝が揺れる。一瞬にも満たないことだったが、ロゾーの炎が確かにぶれたのが見えた。炯々とした光を放っていた眼が、白と黒に揺れている。
本来であれば、きっと其れは此の魔人を持ってすら膝をついてしかるべき一撃だったのだと、そう思う。それほどの動揺を、ロゾーの瞳は確かに覚えていた。
「――――ガ、ァ――ァア゛ア゛ァアッ゛!」
それでも、奴は。ロゾーは火柱となったその右腕を、我武者羅に振りぬいた。駆け抜ける衝撃も、動揺も、全てを投げ捨てて振りぬいたであろう、炎撃。
それはまさしく至高。戦技において素人であろうロゾーが、無心のまま放った、ただ相手を殺す為、怨敵を燃やし尽くす為に打ち込んだ魔性の一打。呑み込んでしまえば間違いなく人の身は四散する。
眼前に炎撃を見据え、そうしてその紅と交差させるが如く紫電の閃光を、放った。目が僅かに、細まる。やはり俺と此奴は、同類なのだと、自然と胸が理解していた。
自らに降りかかった一撃を厭うことなく、我武者羅に武威を振り回す、その有様。頭蓋を撃ち抜かれて尚、敵を殺す為に腕を振りぬく歪な在り方。
――ああ、俺がお前でもそうするよ、ロゾー。じゃあな、ご同類。
気が遠くなりそうな一瞬の果て、炎熱が嗚咽を漏らすこともなく、崩れた。




