第二百六十二話『燃え立つ者』
轟音が、赤煉瓦を砕き弾き飛ばしていく。夜闇の中空を舞うその姿は、さながら蝙蝠の群れのよう。それを成し遂げたのは、ロゾーの腕の一振りだった。
ロゾーの腕は細いというほどでもないが、それでも見た目はどう見てもただの人間のそれ。とてもではないが、一斉に屋根に敷かれた煉瓦を弾き飛ばすことなど、到底かなうようなものには見えない。通常で、あれば。
つまり、あれは異常そのものなのだ。ブルーダーは胸の奥底で呟きながら、銀の閃光を指先で弾いた。
赤煉瓦の波に潜み込ませるような、針の煌き。ロゾーの首元と心臓を狙いつけたそれは、正確に空の間隙をすり抜けていく。此の異常そのものに、どれほど小細工が通じるのかは知らないが。それでもやらないよりはましというものだ。
もはやロゾーなるものの身には、己の針は通じぬのではないか。そんなブルーダーの不安を他所に、拍子抜けするほどの容易さで針はロゾーの首と心臓を抉り抜いた。鮮血が、夜闇の中に消えていく。
返しを付けた特別性の長針だ。もし無理やり引き抜こうとすれば、喉も心臓もその身を破裂させ、間違いなく絶命するはず。
ブルーダーは、唇をひきつかせながら、視線をロゾーの身体へと向ける。此れでどうにもならぬ相手であるなら、本格的に自分の中の常識を入れ替えた方が良い。何せ人間にしろ魔獣にしろ、その核たるものを潰されれば死ぬのが常というものだ。
「神は言った。お前は救いを振り払い、自らの願いを追い求めた愚か者だとな」
けれども、ロゾーは何でもないと言わんばかりに、両手で首と心臓に突き刺さった長針を掴み、そのまま抜き放った。鋭く尖った返しなどないものの如く。
当然に心臓からは濁流の如く血液がその身を飛び出させ、首は皮を弾いてその身を赤黒く変色させる。それでも、ロゾーは怯みすら見せることなく、また一歩、前へと出た。
煉瓦が飛び散り、重圧のようなものが頬に迫るのをブルーダーは、感じた。
「だからこそ、こんな有様なのだとも」
ロゾーの言葉が耳朶に触れる瞬間、何とも嫌なものが背筋を舐めていく。相手が語る事はまるで下らぬ戯言に過ぎないというのに、それでも今の姿を見せつけられた後であれば、妙な圧迫感があった。
空気の重みから逃れる様に、ブルーダーは屋根を強かに蹴りつけて跳ねる。不安定な足場で跳ねまわるような曲芸もどきは苦手ではない。むしろ己の得意分野だ。身体を空中で捩じらせたまま、数本の針をロゾーに目がけて投げつける。今度狙いをつけたのは、その両膝。
どういう仕組みであるのか、あれがどんな存在であるのか。とてもではないがブルーダーには見当がつかない。むしろ悪夢でも見たと思って背を向けてしまいたいほどだ。
いや、今までであれば、当然の如くそうしただろう。大体、暗殺者として仕事をするのなら相手に気付かれた時点で撤退すべきだ。
けれども、今この時においては、それはもはや取れる選択肢ではない。早々に、そんなもの蹴り飛ばしてしまった。
ロゾーは、言ったのだ。悪徳が、ルーギスが此処に来ると。
彼がこの敵を見た時、一体どうするだろうか。普通なら退くはずだ。こんな得体の知れぬ異物を相手にする方がおかしいのだから。
だというのに、不思議なことだ。ブルーダーにはどうしても、己の雇い主がこの異物相手に背を向ける姿が想像できない。頬をつりあげながら噛み煙草でも咥えて、さぁどう殺したものかねとでも言い放ちそうだとすら思う。
だからこそ、退けまい。
ブルーダーの眼が見開かれ、その身体が忙しなく屋根の上を跳ねまわる。脚を屋根に触れさせるたび、ロゾーに向けて針を投じた。次は、両肘。その次は手首や足首といった具合。異物といえどその肉に針が突き刺さるのであれば、関節を縫い留めてやることが出来るかもしれない。僅かな可能性といえど、やる価値はあるだろう。
雇い主は、恩人なのだ。
己の事を何もかもわかった風に話すのは気に食わないし、すぐに人を振り回す様にも不満が残る。だが、彼がいたから己はヴェスタリヌと再び手を取り合え、そうしてもはや死ぬだけのガラクタだった身も、こうしてどうにか生きながらえている。
ああ、そうだ。ようやくわかった。己は、恩を返したかったのだ。ヴェスタリヌと同じように、いやきっとそれ以上の恩を雇い主に感じている。だからこそ、こうして再びその背を追おうと決めたのだ。そうに違いあるまい。恩を一方的に与えておいて、返す暇など与えぬなどと、許せるものか。
ブルーダーは表情に薄い笑みすら張り付けながら、避けもせず針を身体で受けるロゾーを見やる。だからこそこの異物――否、魔人は此処で殺す。例え敵が死なぬとも、殺して見せる。
そう思い、四肢を駆動させて再び針を構えた時だった。ふと、違和感が指先に走る。先ほどまでは、確かに感じてなかったはずの、感触。
――針が、熱い。
堪え切れぬというほどではないが、確かに針が熱を帯びている。今はもう死雪。針が凍てつく事はあれど、熱を持つことなどそうある事ではない。手の中で、強く握りすぎたか。ブルーダーは指を曲げ針を持ち直した。まだ、熱い。
違う。此れは、紛れもなく針そのものが熱を帯びている。しかもその熱は徐々に、まるで燃え立つかのように強くなっていくではないか。熱く、熱く、熱く。もう、持っていられなくなるほどに。
心臓が、強く動悸を走らせる。此れは、此の異常は。咄嗟に視線が、眼前の魔人へと、向く。
ロゾーの眼が暗闇の中、燃え立つように炯々と光を放っていた。それはどう見ても、人間の瞳ではない。
「針は打ち止めかね。ならば銅像か石くれ同様、そこで立ち尽くしていると良い」
その言葉と同時、ロゾーの四肢に突き刺さった針達が、嗚咽をあげた。煙を放ち、その身を拉げさせ軋ませながら、絶叫を漏らす。
膨大な炎熱が、魔人の身体から発している。それが鉄を溶かし、周囲の空気を歪めた。その内、館そのものすら崩壊させてしまいそうなほどの、熱。
舌を打ちながら、ブルーダーは指に挟んだままの針を投擲する。随分と我武者羅な手の振りになってしまったが、それも仕方がない。もはやただ持っているだけで、指が熱に爛れそうだった。
どうした、ものか。ブルーダーの背が一瞬、怯えを見せるように痙攣を起こした。
状況は端的に言って最悪だ。己の武器である針は通じず、そうしてとうとう用いることすら制限されてしまった。
歴史が語る魔人――つまり大いなる魔の下僕であり人類の敵である、彼らは、大抵英雄か勇者に殺されてその身を終える。
しかし、己は凡人だ。なら華々しく刃を奴らに突き立てたり、素晴らしい策謀を見出すような事も、出来はしまい。ブルーダーはもはや熱を伴った空気を吸い込み、吐き出す。
なら精々、後は醜く足掻いてやろう。少なくとも、四肢が千切れるくらいまでは、粘り抜いてやろうじゃないか。そうすれば、もしかすると雇い主もよくやったと、そう自分を認めてくれるかもしれない。
そんな、悲壮とも馬鹿げているとも言える思いが、ブルーダーの臓腑の内に浮かびあがる。それというのも、もう己は助かるまいとそんな奇妙な確信が、胸中にあったからだ。
何せ、熱くなったのは、針だけではない。ブルーダーは奥歯を噛みしめる様にしながら、唾を飲み込む。
――自分の身体そのものが、熱い。まるで炎熱が内から湧き出るかのように。
もう、駄目かな。ブルーダーは頬の中でそう、呟いてから、笑った。瞼の裏に雇い主の姿が浮かんでいた。