第二百五十九話『カンテラの灯』
――私を見縊り侮った奴は、皆後悔させながら殺してやる。
そんな思想に初めて思い至ったのは、何時の頃合いだったか。フィロス=トレイトはよく思い出せない。
義理の兄に欲に塗れた瞳で見つめられた時だったかもしれないし、トレイト家へと足を踏み入れたその時だったような気もする。
いや、もしかすると物心ついた時には、言葉にはせずともそう思っていたのかもしれない。
フィロス=トレイトの記憶の奥底にあるもの、其れは瞳だ。此方をじぃっと見つめる瞳。そう言われてみれば己はずっと何等かの瞳に晒されてきた。
奇異の瞳、侮辱の瞳、好色の瞳。どれもこれも、まるで己を見分するような具合だった事をフィロス=トレイトはよく覚えている。
そうだ、そんな己を見つめる瞳が、どれもこれも侮るような、見縊るような色を潜めていたものだから。いつからか己に向けられるそれが大嫌いになったのだ。
だから、決めた。誰にも己を見縊らせるような事も、侮らせるような事もしないと。そんな輩がいるのなら、この手で首を絞めおとしてやるのだと。心に誓ったのだ。
では、と、フィロス=トレイトは頬に痺れる様な痛みを覚えながら、自らに問う。
この、今まさに己を見下している市民達に対しては、どう接するべきなのだろう。己は愛すべき市民の首を、絞めることが出来るのだろうか。
――ガ、ンッ
感じたのは、衝撃。次に鈍い音が頭蓋の奥で、鳴った。耳元で音が弾け、眼前は稲光が落ちたかの様に明滅する。それらの現象が身体に馴染み始めた頃、ようやく痛みという奴が強かにフィロス=トレイトの背筋を焼いた。
咄嗟に、奥歯を噛む。瞼を閉じ、身体を固くして痛みに備えた。恐らく鉄製の棒か何かで打たれたのだろう。背の肉がまるで削ぎ落されたかのような感覚を訴えてくる。
その感触は余りに痛烈だ。痛いという一言などではとても済まされない。身体を縮こまらせて、嗚咽を零しながらようやく耐えきれる、そんな具合だった。
「――――ッ!」
何かしらの声を掛けられたのが、分かる。酷く汚らしい言葉だった。己は此の市民の顔を知らないが、相手は己をよく知っているのだろう。罵りながら、己の不様を嗤う声が聞こえた。
再び、棒が風を切る音がする。全身の筋肉を強張らせながら、フィロス=トレイトは衝撃に備えた。
今度は、太ももを打たれた。本当に、折れても構わないという位の力が入っていたのが分かる。まるで感覚というものが失われてしまったかのように脚が跳ね、肉は何処までも熱い。
耐えがたい痛みに、理性が弾き飛ばされそうになる。思わず、此の市民を憎んでしまいそうになる。
だがそれは、駄目だ。有り得ないことだ。
歯を、食いしばる。顎が軋むかとフィロス=トレイトには思われた。私は統治者だ。フィロスを治める者なのだ。その人間が、市民を憎むなどと、憤怒を沸き立たせる事などあってはならない。誰よりも市民を愛し、誰よりも此の都市を繁栄させるのだとそう決めたではないか。
だから例え鉄で打たれようと、あざ笑われようと、踏み躙られようと、市民を憎むような事はあってはならない。
そんなフィロス=トレイトの胸中など、当然知りはしないのだろう。棒を振りかぶった男は、こう言いながら、その凶器を振り下ろした。
「後悔しながら死ね、市民の敵が!」
鉄が再び少女の身体を、狙い打つ。月光りすら入り込まぬ地下牢の中、僅かなカンテラの灯りが彼女の頬を撫でていた。
もはや、何も見えない。光りすらない暗闇だけが、フィロス=トレイトの視界を覆っている。
中空を何かが両断する音が、聞こえた。数瞬の後には、またあの痛烈な衝撃が己を襲うのだ。身体を固くして、身構えた。暗闇が僅かに揺蕩ったのが、視界の端に映り込んでいた。
――殴打の音ではなく、肉を裂くような耳に粘りつく音が、地下牢に響いた。
痛みは、何時まで立っても来なかった。不思議だ。音が聞こえた後には、必ず痛みが来るものだったのに。
よもや、己が僅かに力を抜いた瞬間に身を打ち付け、のたうつ様を嗤うつもりだろうか。そう思い、フィロス=トレイトは身体を固くしたまま瞳を開く。相変わらず、カンテラが照らす少量の灯り以外は、夜そのもの。周囲はもはや暗いというよりも、黒い絵の具を塗りつけたかの様な有様だ。
其処から声が、響いた。一つは呻き声、もう一つは、
「汚い、だなんて言ってくれるなよ」
何処かで聞いた、声。乱暴で放り投げる様な、それ。
「何せ俺は善良な人間とは違うもんでね。泥を指さしてわざわざ汚いなんて言う人間はいないだろう」
どさりと、何か質量のあるものが崩れ落ちる音が聞こえた。視界は不良のまま、ただ目の前には暗闇が広がっている。ただそこに双眸らしきものが、見えた。尖り切った刃のように鋭く、剣呑な色が浮かんでいる瞳。
フィロス=トレイトの記憶の中に、そんな瞳を持つものは一人しかいなかった。喉の奥に血溜まりの感触を覚えながら、ゆっくりと唇を開く。その行為がやけに久しぶりの事に感じられた。喉から出たものは随分とぼやけた声になってしまったが、何とか言葉にはなったらしい。
「……何をしに来たの、かしら」
どうやって此処に来たのかだとか、何故捕らえられていることが分かったのかとか、そんな事は聞かなかった。それらはフィロス=トレイトにとって至極どうでも良い事に過ぎないから。
ただ不思議だったのは、どうして彼のような人間が、こんな所に来たのか。
彼、悪徳のルーギスは、カンテラの火を強めさせながら言った。その剣呑な眼が僅かに細まっていくのが見える。
「何、同盟相手が牢に入れられてるなら、一先ず鍵くらいは開けてやるさ。恩義だのを感じる必要はないぜ、所詮は物のついでだ」
首を鳴らし、何でもないことだという様に、ルーギスは言った。その何とも軽い物言いに、思わずフィロス=トレイトは瞼を瞬かせる。背筋に痺れを感じる様な痛みが走った。
物の、ついで。今、彼はそう言ったのか。
つまり此の男は、他に主目的があるものの、たまたま己を助けることが出来たから、気まぐれついでに手を差し伸べてやったと、そういう事が言いたいわけか。
知らず乾いた笑いが浮かびそうになり、フィロス=トレイトは表情を歪めた。それだけで身体に痛み浮かび上がってくる。けれども、笑わずにはいられなかった。
ああ、私も馬鹿にされたものだ。愛し守るべき市民からは罵られ棒で打たれ、憎むべき敵には気まぐれで手を差し伸べられる。何と矮小で、軽んじられる存在になった事か。となれば侮られ、見縊られるのも理解ができるというものだ。滑稽なことこの上ない。
まぁ、理解は出来たとしても、それを受け入れることなどとても出来ようはずもないが。震える声に、残った少しばかりの力を込めて、フィロス=トレイトは言った。
「……卑しくも私は都市フィロスの統治者、フィロス=トレイト。情けを受けるような真似は、しません」
痛みに軋みをあげる身体を這いずらせ、何とか顔をあげながら、フィロス=トレイトは言葉を続ける。まるで、戦場での再現を行うかのように。
カンテラの灯りが一つ、大きくなった。
「市民に打ち捨てられ、敵に情けをかけられ、そんな不様を晒したまま生きようとは思いません――此処で殺しなさい。私は貴方の味方ではないのだから」
暗闇の中に浮かぶ双眸を見つめ、睨み付ける様にしながら、言った。少女の頬を、カンテラの灯りが舐める様に照らしていく。