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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十章『昏迷都市フィロス編』
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第二百五十八話『嫉妬は此の胸に』

 ――フィロスの様子を見てくる。何、雇い主に対しての手土産代わりさ。


 都市フィロスの裏通りに身を溶け込ませながらブルーダーは、どうしてあんな事を言ってしまったのだろうと、自己嫌悪染みた様子で眉をひそめた。


 雇い主の危機に飛び込んでいくことが出来なかった情けなさからだろうか。それとも、傭兵として後々の交渉を有利にしたいという思いからだろうか。手元に長針を収めながら、ブルーダーは固く指を曲げた。


 いいや、違う。己は逃げただけだ。己の中で潜み込む複雑に絡み合う感情の正体を、ブルーダーは断片的にではあるが理解していた。


 つまりは、雇い主ルーギスと顔を合わせたくなかっただけなのだ。だからヴェスタリヌのように助けに入る事も出来なかったし、その後顔を合わせることを避けて、都市フィロスの中に逃げ込んだ。偵察などという尤もらしい理屈を無理矢理つけて。


 顔を合わせたくない理由も、簡単だ。


 安い女とみられることも嫌だったし、それに何より、己はベルフェインでの騒動で、殆ど雇い主の役に立つ事が出来なかった。雇われたというのに、彼の期待に応える所かむしろ逆に幾度も助け出された。ヴェスタリヌとの和解にしろ、モルドーへの復讐にしろ、全ては彼の手で成されたに等しい。


 ああ、そうだとも。己は何度も雇い主に助け出されておきながら、それでいて何一つ返せてなどいない。


 そんな己が、今更なんの手土産もなくもう一度雇って欲しいなどと恥ずかし気もなく言えるものか。妹のヴェスタリヌは良い。ベルフェインの傭兵を率いるだけの統率力と、鉄鋼姫と言わせしめた武力がある。


 けれども、己はどうだ。ヴェスタリヌに及ぶべくもない程度の投擲術しか持たぬではないか。それでだ、もしもの話ではあるが。もしも雇い主が、ヴェスタリヌを歓迎しながら反対に己には冷たい眼を向けでもしたら。ヴェスタリヌのおまけのような扱いをされてしまったら。


 己は、どうすれば良いのかわからなくなってしまう。きっと、雇い主に言葉一つ掛けることが出来なくなってしまう。


 情けない。無様にもほどがある。ヴェスタリヌにも、無意味な心配をさせてしまっていることだろう。何せ殆ど説明もしないまま、フィロス内部に入ってしまったのだから。


 夜闇が空を覆い始めた頃、ブルーダーはようやくその手足を伸ばしはじめた。いつも身に着けている帽子も、流石に偵察には不向きが過ぎる。今日ばかりは、長い茶色の髪の毛を一つに纏め、中空を漂わせたままになっていた。


 昼間には紋章教と明確な決別を行ったというのに、都市フィロスの警備体制は随分と杜撰なものだった。見回りの衛兵の数こそ用意しているようだが、大した注意もなくふらりふらりと歩き回っているだけだ。この程度の警備なら、ブルーダーは十二分に動き回れる。


 ブルーダーは数度瞬きをしてから、脚を駆けさせ、街角の影から影へと飛び移る。一人で傭兵をやっていた頃、似たような事は何度もやった。この程度の事は容易い。しかもその頃と違い、息が切れる様子がない。荒く酒を飲む癖をなくした事が、功を奏したのだろうか。


 何にしろ、己の我儘を貫いて此処にきたのだ。有用な情報を得るまでは帰れまいと、ブルーダーは唇を濡らした。可能であれば、敵の中心人物の首でも持って帰れれば最上だ。


 ――確か、ロゾーと、雇い主はそう呼んでたっけな。


 目を細め、長針を手元で固く握ったまま、手首を鳴らす。


 針撃ちは、本来暗殺のための技術。ならばその原点に戻るとしよう。そもそもからして、傭兵などという戦役を生業とする事が、己には相応しくなかったのだ。


 此処で、認めさせよう。雇い主に、己には雇う価値があるのだと、傍に置く意味があるのだと理解させよう。


 その為に、死んでもらおうじゃあないか。


 ブルーダーの口元に見えた犬歯が、妙に鋭く尖り、煌いていた。



 ◇◆◇◆



 執務室の最奥に置かれた、統治者の椅子。何時から使われているものなのかは分からないが、華美とも言える装飾と、分厚いクッションが椅子に取り付けられている。


 本来フィロス=トレイトが座るべきそれに腰をかけながら、ロゾーは眼を閉じて上を向いていた。思ったよりも座り心地が良いものではないのだなと、鼻を鳴らす。きっと、フィロス=トレイトも同じことを思ったに違いない。いや彼女の事だから、椅子の座り心地など、最初から気にもかけていなかったのかもしれないが。


「ロゾー様、よろしいですか」


 休息を取っているようにも見えるロゾーに、事務官が遠慮がちに声をかけた。ロゾーは大した反応もなく軽く顎を引くだけで返し、耳を傾ける。


 内容は、単純なものだった。紋章教と敵対するにおいて、兵が足りぬ、兵糧が足りぬ、人手も足りぬ。大聖教の援助がなければ、そう長くはもたぬだろうと、そう言った。

 

「ロゾー様、司祭様よりのご支援はいつ頃に」


 事務官の言葉を遮るようにして、ロゾーは口を開いた。事務官が語る言葉に、大して興味などないと、そう言いたげだ。


「暫しかかる。それまでは何としてでも耐えしのぐのだ。良いかね」


 淡々と、それだけを告げる。困惑したような表情を浮かべる事務官に対し、喉を鳴らすようにして言葉を続けた。


「簡単な事だ。兵が足りぬのなら老人、子供にも槍を持たせたまえ。兵糧が足りぬのなら、近辺の村落から搔き集めると良い。人手も同じだ」


 頬に笑みを貼りつけながら、ロゾーは言う。事務官は一瞬目を見開き、同時に言葉を漏らす。そんな事をすれば、周囲村落は寒冷の、死雪の時代を超えられぬと。老人も子供も、その多くが死ぬだろうと。


 お利巧で真面目な事だと、ロゾーは胸の中で言葉を吐いた。だからこそ、こう言った。


「それがどうしたというのかね。此れは神の名の下に行われる戦いだ。それより優先されるべき事は何もない。少なくとも、君たちはそう思ったから槍を取ったのだろう」


 舌を回しながら、ロゾーは事務官をあざ笑うように唇をつりあげる。事務官の顔が引きつる様が、何とも愉快だった。そうして、ロゾーはこうも付け加える。


 そう思ったからこそ、君はフィロス=トレイトを売ったのだろう、と。事務官は、もう何も言わなかった。おかしな事だ。ただ事実を言っただけだろうに。


「そうだな。後は、フィロスにも冒険者共がいるだろう。そいつらを使い、近くの魔獣の巣を突かせろ。もう雪が降る。魔獣を使えば、少しは時間も稼げるはずだ」


 勿論、都市フィロスにも被害は出るだろうが。気にすることはあるまい、それは正しいことだ。事務官にそう言い聞かせ、今すぐ取り掛かるように命じる。事務官は一つも口を開くことなく、頷いて執務室を去った。


 憐れなものだと、ロゾーはそう思った。もしフィロス=トレイトを、本来の貴人に対する扱いの通り、地下牢などではなく貴賓室に軟禁しているのであれば。ラルグド=アンが語ったように、己を引き渡してフィロス=トレイトを復権させるという手もあったはずだ。


 だが、もうそんな手段奴らには取り得ない。


 かつての統治者を地下牢獄に押し込め、彼女に対する暴虐を見逃す所かむしろ自ら進んで行った市民共に、そんな事が行えるはずがない。もう己に従うしか、彼らに手はないのだ。ロゾーは思わず、誰もいなくなった執務室で一人嗤った。


 己が行っていることは悪行ではない、むしろ善行だとも。彼ら市民が正しいと、そう思う方向に物事を進めてやっただけ。その結果が、この有様だというだけだ。


 正しき事を貫き通した女は牢の中、己を正しいと思い込んだ奴らは自ら火中へと飛び込まねばならなくなった。


 全くもって、全ては己の望んだとおり。何もかもが無茶苦茶だ。どうせなら市民共にはその最期に、ああ、己は正しくはなかったのだとそう思い知ってから死んでほしいが、奴らにそこまで多くは望めまい。


 己が望んだことはただそれだけ。正しさなど欠片も持っていないにも関わらず、さも己こそが正しいのだと豪語する愚か者共に、相応しい末路を与えてやりたかった。そうして、己が焦がれた少女フィロス=トレイトにも、救いなど此の世にはなく、どうしようもなく正しくない人間というのも存在するのだと教えてやりたかった。


 それこそが、ロゾーにとって出来うる最大の、かつて己を踏みにじった都市フィロスへの復讐だった。


 もはや成すべきは成した。後はもう、此の都市は坂から転げ落ちていくだけだ。己はその中のうのうと、大聖教の手引きを受けて都市から逃れさせてもらおう。


 だがロゾーの胸中にも二つほど、心残りがあった。


 一つは己が焦がれ、憧憬すら思い浮かべたフィロス=トレイトが、最後まで己を断罪しようとはしなかったこと。もう一つは、あの燦然と輝く怨敵、ルーギスの事。


 己が正しいとそう信奉した少女を、汚泥の中に引きずり込んでやりたい。燦然と輝く怨敵を、舞台の上から跳ね飛ばしてやりたい。そんな、人間味溢れる欲望を、ロゾーは確かに胸に抱えていた。


 ――私は正しくなどない。なら、思い切り正しくない事をやってのけてやろう。此の世の喜びという喜び全てに唾を吐きかけてやる。


 ロゾーの瞳が、揺れる。その耳元で何か荘厳な音が、鳴った気がした。

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