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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十章『昏迷都市フィロス編』
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第二百五十六話『昼と夜の境界』

 ――ルーギスは紋章教の英雄であり、己の剣である。


 そんな、エルディスとの決別ともとれる言葉を放ったマティアの胸中には、一つの確信めいたものがあった。エルディスの顔を直視したまま、マティアは息を吸い込む。


 今はまだその燃え立つ碧眼のまま、エルディスの頭蓋は憤怒に支配されている事だろう。彼女の整った唇は今にも火を吐きそうだ。けれども、どれほどの情動が胸に宿ろうが、彼女はガザリアの女王だ。


 ならば、此処で紋章教との同盟を破棄する事など出来るはずがない。マティアは僅かに眼を震わせながらも、エルディスの碧眼を正面から見つめ返した。


 サーニオ会戦において、ガザリアのエルフ達は同盟という形であれど、紋章教と共に大聖教に弓を引いた。我らと共に、大聖教の神に剣を向けたのだ。


 ならば、あの大聖教の連中は決してその恨みを忘れない。可能な限り不寛容である事が、彼らの最も大きな特徴だ。異教、異民族を迫害し、異文化を踏み潰し根絶やしにする。そうする事で、アレは大きく成ってきた。


 エルフという異種族も、また同様。元より大聖教からは人間と同等の扱いは受けていなかったはず。それが大聖教と剣を交わしたとあれば、もはや許容することなど有り得ない。エルフという種族を奴隷に落とすまで、大聖教は迫害を止めないだろう。


 もはや空中庭園ガザリアも、大聖教の神の敵となった。ならば紋章教とガザリアは、運命を共にする間柄に他ならない。


 そんな事は、当然エルディスも理解しているはずだ。ガザリアが、今更紋章教から離れられるような悠長な立ち位置にはなく、むしろ国家としての存亡を問われているという事も。


 マティアは眼を細めながら、怯えたように肩を跳ねさせる記録官へと言葉を漏らす。エルディスもまた、同様だった。内容は、ルーギスはどちらに属するものかを宣言する、ただそれだけ。


 勿論、ガザリアが紋章教の手を取るしかないとはいえ、彼らと不和が生まれるのはよろしい事ではない。一時の不満は飲み込めば終わるが、それが積もれば何時か必ず破綻が眼を開く。ゆえに、可能な限り譲歩する事も必要にはなるだろうとマティアは思う。


 だが、ことルーギスという存在に関しては話が別だ。マティアは高い鼻を突きあげる様に、表情を作った。


 無論、別に自らの感情に突き動かされた故、などという馬鹿らしい理由ではない。ルーギスが英雄という、紋章教にとって無二の剣であるからだ。


 英雄は人の胸奥を掻き立てる、精神の惰眠を吹き飛ばす、血潮の奔流を荒れ狂わせる、そんな劇薬だ。今の紋章教には、その薬がなくてはならない。人は欠片ほどでも、希望という夢が見れねば生きていけぬのだ。その夢らしきものを、彼は見せてくれている。彼がそれを望む、望まぬに関わらず。


 それに加えて、彼の両翼のように付き添うカリア=バードニックとフィアラート=ラ=ボルゴグラード、彼女達の存在も、兵には良い刺激になっている。ルーギスを失うということは、彼女らという貴重な戦力をもそのまま手放すことに等しい。あの二人は、紋章教でもガザリアでも、彼がいる傍に付き従うだろうから。


 マティアは、それが少し羨ましくもあった。統治者としての責任など持たず、ただ己の望むままに行動できる、彼女らが。聖女という役割を忌むわけでは決してないが、それでも、時折そのような事を想う事が、マティアにはあった。


 まぁ、それにだ。彼、ルーギスには何処までも、己の管理が必要なのだ。そうしなければ、彼はただ感情的に、打算もなく動いてしまう。己が管理せねば、理性的には生きていけぬ人なのだから。そんな彼を、今更無責任に放り出すことなんて出来るものか。聖女として有り得ぬ振る舞いだ。


 打算と、聖女の慈愛をもって、マティアは言葉と心を決めた。ルーギスを、ガザリアに引き渡すような事は出来ぬと。


 紋章教の聖女マティアと、空中庭園ガザリアの女主エルディス。その両者の言葉が記録皮紙に収まり切ったと同時、天幕が荒々しく、揺れる。本来、マティアかエルディス、どちらかの許可なしに開かぬはずの天幕が、口を大きく開けた。


 その隙間から護衛の兵が顔を見せたかと思うと、彼は喉をすっかり乾かしながら、随分とかさついた声で告げた。


 ――アン様より、至急の伝令となります。ルーギス様に関わる事と。


 聖女と女王の双眸が、瞬いた。



 ◇◆◇◆



 天高く昇っていた太陽が、その姿をゆっくりと山間の果てへと落とし込み、茜色に空を塗りたくる。自治都市フィロスの城壁にも、その光が届いていた。もうすぐ、夜が落ちてくる事だろう。


 城壁上で槍を持ちながら、見張りの兵は昼と夜が切り替わる瞬間の輝きに、思わず眼を瞬かせた。その美麗な光景に、心臓が破れるかと思うほどの緊張が、少し解れた気がする。


 しかしその弛緩も僅かな間。すぐに怯えと緊迫した心持が、胃の奥から手を伸ばしてくる。原因は言うまでもない、紋章教の連中だった。


 あの蛮人ども、大人しく自らの陣地に戻ったまでは良かったが。もしかすると再び此の都市フィロスに攻め寄せてくるかも知れない。


 それを思うと、何時も以上に見張りも目を凝らさざるを得ない。といっても、普段は殆ど見るものなどないものだから、ろくに見張りらしい事などした事はなかったのだが。


「よう、どうだ。異端どもは来たか」


 随分と疲れた声が、傍らから聞こえて来た。一瞬びくりとしたものの、同僚だと気づいてすぐに肩から力が抜ける。別段、見張り役が二人になったからといって何があるわけでもないが。一人でいるよりかはずっと心強かった。


 特に何も。そう返すと、俺もだ、と同僚は返した。


「嫌になるぜ。どうしてこんな事になったんだよ。ずっと平和だったっていうのによぉ」


 同僚の言葉に、頷いて応じる。全くだ、己の親、そうしてその親の世代から、フィロスという都市は平和だったと聞いている。戦役からは身を隠し、怯えに苛まされることもなかったと。


 それが今ではどうだ。こうもびくびくと、しかも異端の輩に、恐怖の衣を与えられている。街中では赤子が泣き止まぬほど。

 

「そりゃ勿論、背徳者フィロス、あの売女の所為だ!」


 吐き捨てる様に、見張りは同僚に語る。


 そう、全てはあの背徳者の所為だ。あの女が愚かにも戦役に加担し、その上敗北まで喫した。それだけでも余りある罪科だというのに、奴は自らだけが助かるためにとうとう紋章教の悪魔と手を結びまでしたのだ。


 何と、汚らわしい。売女そのものの所業だ。奴の白眼も、その表れに違いあるまい。きっと全ての地位も財貨も、身体を売って得たものさ。


 そんな事を、不満と怒りを露わにしながら、見張りは言う。さも全ての不平不満の原因は、フィロス=トレイトにあるのだと主張するようだった。


 同僚もそれに同意しながら、不埒な笑みを浮かべて、言う。


「どうだそれなら今夜も、善行を積みにいこうや」


 それはまるで嘲弄するような笑みだった。見張りは喉をならして、嗤った。


「またあいつの泣き叫ぶ姿を見に行くとしよう。此れも神様に対する善行さ」


 善行という言葉が指しているのは、フィロス=トレイトを悪戯に痛めつけにいく、という事だった。相手は背徳者。幾ら棒で打とうが暴力を振るおうが、それは全て善たる行動に違いあるまい。


 それに、フィロス=トレイトは紛れもない麗人だ。背徳者ゆえ魂を奪われる様な淫行には及べないが、それでもその白い肌に痛々しい蚯蚓腫れを作り上げるのは、一種の快楽を覚える。


 気丈な彼女は罵倒にこそ何ら言葉を返さなかったが、その肌を打ち付ける度痛みに呻き、最後には泣き声すら漏らした。


 そのフィロス=トレイトの姿こそが、今のフィロス都市兵達にとっては何よりの娯楽だった。かつては手を触れる所か声もかけられなかった人間を、好きなように甚振れる。まるで獣の如く扱っても咎めは受けない。なにせ、それらは善行に違いないのだから。


 そうだ、今日はあの淫売の所為で恐怖と怯えを味わったのだ。なら奴にも同じものを味合わせてやらねばならない。そろそろ背に熱した鉄でも背負わせてやろうか。きっと良い泣き声をあげてくれる事だろう。


 不埒な笑みを浮かべたまま、見張りは茜色の空を見る。早く時間が過ぎぬものか、そうすれば、楽しみが待っているというのに。


 太陽が最期の瞬きとばかりに強い光をみせ、そのまま山間の果てへと、消えていく。ようやく、昼と夜が入れ替わる時が来た。そうして、空が輝きの残滓すら失った。


 ――瞬間、傍らで同僚の首が、爆ぜる。同時に、首元に冷たい感触を覚えた。


 反射的に眼が見開かれ、見張りは手を強く握る。身体が固くなり、眼前の光景が酷く揺れ動くのが分かった。


 何が起こったのか、そうして自分の身に何が起こっているのか。全く分からない。動揺を超えて、脳は完全な混乱を起こしていた。


 そんな所に、耳を削ぎ落すような声が、聞こえた。


「おいおい、声は出すなよ。親しんだ首と別れたくなけりゃあな」


 それは、何処かで聞いた声。それも今日、城門前で聞いたような、そんな恐ろしい声だった。

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