第二百五十一話『大悪を殺す者は』
本来としては、言葉に力なんてものはない。
物を動かす事も出来ず、世界なんて薄皮一枚すら変える事も出来ない。言葉なんぞ所詮は音の羅列に過ぎないというわけだ。けれどもどうした事か。そんなものに心を奪われてしまう人間というのは確かに存在する。
フィアラートに、それを教えてもらったのだったか。そうして、今更逃げることは許さないとも。全く、そういう部分はかつての頃から変わらない奴だ。
ならばやって見せるとも。眼前にて槍を振るう彼ら都市兵共は、一度はロゾーとやらの言葉に頭蓋を掴み込まれた人間達だ。なればこそ、今一度、上から思想を塗りたくってやれば良い。ただ注ぎ込まれた熱意は、悪意で塗り込まれる熱狂に抑え込まれるものなのだから。
「アルティウスとやらが万能の救済神とは、泣かせる信仰心だ。素晴らしい、惚れ惚れするな。だがそんな虚言が通用するのは、精々大聖堂の中だけだろうさ、ロゾー」
まるでそれが歴然たる事実のように、語る。肩を竦め、鼻で笑うようにしながら。そんな事も分からないのかとばかりに、相手の一番の拠り所を打ちのめす。
人を効率的に騙すには、それが一番の方法だ。一歩、前に進む。頬には笑みすら浮かんでいるのが、分かった。
フィロス都市兵共の眼は、憤怒や侮蔑というよりも、驚愕に染まっているのが見える。彼らは今までフィロスという小さな都市の中に蹲って生きて来た人間だ。よもや堂々と唯一神アルティウスを貶す人間なぞ周囲にはいなかったのだろう。であればこそ、そこに付け込むべきだ。
「神をも恐れぬというのは、貴様の為にある言葉だろうな、悪徳のルーギス。慈悲とまでは言わぬが、せめて恥を知ったらどうだ」
そう、ロゾーが言う。その振る舞いは堂々としたものだ。まさしく神に仕えるものに相応しい。ならば、俺は何に仕える者として振る舞うべきだろうか。紋章教の神、というわけでもない、なら聖女マティアか。もしくは、エルフの姫君エルディス。そういえばどうにも、何に仕えるのかという部分は曖昧なままだ。
けれども、神か悪魔、どちらかで言うならば、間違いなく悪魔よりなのだろう。死後に神様が俺を迎えてくれるとはどうにも思えない。
傍らで不安げに瞳を揺らすラルグド=アンに、軽く頷いて口を開く。
「そのお言葉はそのまま返したいね、ロゾーとやら。恥を知るが良い。アルティウスが万能だというのなら、どうして俺は今此処に生きたままでいられるのだ。万能の神に逆らったのなら、もうとっくに土に還っていなければいけないはずじゃあないのかい」
ロゾーの言葉をあざ笑うように、そしてまるで明々白々たる事実を教えてやるような口ぶりで言う。
人を騙す時に何が重要であるのか。
それは己をもその嘘を信じるという事だ。口も、仕草も、表情も。一切をその嘘に委ねてしまう。出鱈目な思想に伴って己を歪めてしまえば良い。それでこそ、人は騙されてくれるのだ。それで騙されぬ人間は、そもそもからして人に騙される様な人間ではない、さっさと背を向けて逃げ出すべきだ。
だが、今目の前にいるのは、一度は騙され切った人間達。ロゾーの唇が歪むのが、見えた気がした。
「神は人に試練を与えるものだ。苦難の中、信仰を預ける者をこそお救いになられる。貴様は言わば神が試練として我らに与えたもの――」
その発された言葉を、食い取る。試練だと何だとか、如何にも彼らが好きそうな言葉じゃあないか。
「――本当にそんな事を信じているのか、ロゾー。大聖教の教えでは、本来背徳者には即座に天罰がくだるはずだろう。それがどうだ、本来大聖教の徒でありながら、紋章教へと至った俺が未だこうして生きている」
何なら、子供の頃には大聖教の教会にすら足を運んだのだがね、とそう付け加えながら、言う。背徳者という言葉に周囲の人間の眼が、揺れた。
さぁ、誑かしてやろうじゃあないか。遠い神様の言葉なんてよりも、もっと身近な、大悪の言葉で心臓を掴み込んでやろう。
「試練なんてものじゃあない。良いかロゾー、ただただ、アルティウスは俺を殺せなかったんだ。大聖教に唾を吐き、その教義を踏み躙ったというのに。大聖教の軍を用いても俺に血を流させることすらできなかった」
本当の所は、戦場にて存分に血を流したわけだが。別にこれ位の誇張は構うまいさ。人に物事を言い聞かせる時は、少しばかり見栄を張るのが大事なのだから。謙虚や実直というものは美点ではあるが、時に人の価値を暴落させる欠点でもある。
口を開いたまま、視線が向く先をロゾーから周囲の都市兵へと、変える。頬が歪みそうになるのを抑えながら、ただ嗤いだけを浮かべて。
「それで、お前らは誰を殺すんだ。大聖教の軍勢すら、神すら俺を殺せなかった。それがどうして、お前らが俺を殺せるというのかね」
両腕を開き、まるで俺に向けられた槍を迎え入れるような恰好で言う。お前らには俺を殺せぬのだと、フィロスの都市兵、そうして紋章教の兵士にすら言い聞かせるようにして。
もう一歩、進んだ。心配事など何もない、そう見せる為に。一切の躊躇や動揺がないような素振りで。
実際の所は、心臓は大雨に打たれたかのように揺れ動いているし、踵からは寒気のようなものが這い寄り、背筋に至っては冷たい汗が舐めているのだが。当たり前だ、此れはまさに細い綱を渡っている様なもの。
都市兵がたったの一人でも雄たけびをあげて槍を振るってしまえばそれで終わる喜劇だ。そうなれば、恐らく熱に浮かされるように、周囲の全員が俺に飛び掛かってくることだろう。
そう、問題は言わばその熱だ。フィロス都市兵の連中が今槍を向けて紋章教と敵対しようとしているのは、誰もかれもがロゾーの奴が発する熱に浮かされているから。
ならば俺はそれを取り払い、別のものに置き換えてやれば良い。例えば、恐怖だとか怖気だとかいうものに。
「……戯言が上手いな、大悪なる者よ。貴様の最期をもって、神は我らに教えて下さるだろう。貴様やフィロス=トレイトのような背徳者が、如何に無残な死を遂げるのかをな!」
その荒い声に、肩眉を僅かに潜める。
そうか、フィロス=トレイトもまた民会の圧力に屈し紋章教の手を払ったのかとも思っていたが。むしろ逆で、俺達と同盟を結んだことにより背徳者として追い立てられたか。
ままならぬものだ、本当に。此の世の中は正義なるものが泥を振りかけられ、虚言が持てはやされる。そんな事が堂々とまかり通ってしまうのだから、やはり神なぞ信じるものではない。
唇を歪めながら、都市兵共をみやる。お前らを真に救おうと思っていたのは、フィロス=トレイトに他ならないだろうに。何とも、運がないというべきか、虚言に乗せられるとは憐れなものだ。
耳を跳ねさせ一つの音を捉えながら、ロゾーの荒げた声を、跳ね除けるようにして言う。
「――言ったなロゾーとやら。ならばアルティウスよ、今此処で俺を殺して見せろ。無残に、万能の力とやらで心臓を貫いて見せるが良い!」
上を向き、天に向けて言葉を発する。中空に幾ら声を投げかけたとて、天候は快晴そのもの。荒れる気配すら一切ない。どうやら今日の夜は、気分よく酒が飲めそうだ。
耳朶に、馬車が駆ける様な音が響き始めていた。此れは、フィロス都市兵が鳴らすものではあるまい。馬車と軍馬の蹄の音。それらが交わる音をかき鳴らすのは、大抵が傭兵と相場が決まっている。いずれ合流するとは聞いていたが、随分と上手くやってくれるものじゃあないか。
ならば少しは恰好を付けておこう。久方ぶりの親友との出会いなのだから。肩を竦め、胸を張りながら言う。此れで、まるで見当違いだったなら、恥などというものではないが。
「それで、誰が俺を殺してくれるんだったかな、ええ」
周囲全てを巻き込むようにして、そう言った。馬蹄の音が、すぐ背後にまで、迫っている。