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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十章『昏迷都市フィロス編』
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第二百四十六話『背徳者』

 白い眼が、眦を跳ね上げて中空を貫く。長く整えられた睫毛が、真っすぐに天を突いていた。


 その瞳に宿った感情は憤怒であろうか、失望であろうか、それとも同情や悲嘆の類かもしれぬ。しかし、例えどのような情動であったとして、怯えのようなものだけではないのだろうと、ロゾーはその少女を見て思った。


 凶暴な面を惜しみもなく顔に張り付けて、槍を振るう市民達。彼らに突き付けられた穂先を視界に収めて尚、彼女は指先一つ怯えさせてなどいない。むしろ唇は堂々と開き、当然とでもいうように、声を響かせた。


「ロゾー。民会は統治者を拘束する権限など持ち合わせていない。今すぐ槍を下に向け、自ら成すべき仕事に戻りなさい、市民達」


 透き通るような、その声。フィロス=トレイトの声は、彼女の白い瞳同様に、色を持たない。


 何処までも正しく、何処までも折れ曲がらぬ。ただひたすらに真っすぐに貫かれる矛。それが彼女、フィロス=トレイトという存在なのだ。正しきことを成し、そうしてそれを疑わない。ひょっとすると彼女は、自分を疑うという感情を持ちえぬのかもしれぬ。


 ロゾーは、想う。ああ、やはり彼女という奴は。己とは真反対の存在なのだ、と。見ろ、彼女の真っすぐとした在り方を。何処までも拉げ、捻くれかえった己とは比較にすらならない。ああ、だからこそ、だ。


 声の余りの透明さに、周囲の市民達も一瞬動揺に瞳を曇らせ、槍を鈍らせた。彼らの臓腑に不安と焦燥が煙となって立ち昇る。


 小さく、吐息を漏らすようにしてロゾーが言葉を、食った。


「確かに。民会に統治者を拘束する権限はありません。しかしながら――背徳者を拘束する権限は、大聖教に属す、ありとあらゆる市民が持つもの。違いますか、背徳者フィロス=トレイト」


 今一度、背徳者と、その言葉を強調するようにロゾーは繰り返す。市民に物事を考えさせぬよう、己の言葉で思考を塗り固めさせるように。


 背徳者、信仰を投げ捨てた者。


 呼び名は様々だが、意味合いはどれも変わらない。詰まる所、大聖教の神アルティウスに背を向けた者、此の世で最も許されぬ罪を背負った裏切り者の事。


 その言葉は大聖教徒にとっては最大限の侮辱、もはや禁句とすら言える。誰もが未だ年端もいかぬ子供のころ、親から冗談でも口にしてはならぬと教えられる言葉だ。


 神に背を向けるという事は、今まで受けていた救済を、庇護を何もかも吐き捨てるという事に他ならない。つまり紋章教徒のような異教徒と同じになる、尊厳も礼節も知らぬ野蛮な徒に、獣に成り下がってしまうということ。背徳者という言葉は、それほどの意味を持つ。


 だからこそ、今この時は口にすべきなのだと、ロゾーは唇を跳ね上げさせる。高々と声を震わし、己の言葉を市民の脳髄に刻みつけていく。彼らの思考に己の思想を張り付けていく。


 それは実に、何とも簡単なことだと、ロゾーは知っている。それこそ、骨身に染みるほどに。何故なら、彼らは何が正しいかなど、己で考えたことすらないのだ。何時だって、人に与えられた正義を信じ、人に与えられた悪を憎んで生きて来た。


 何処までも純朴で、何処までも愚か。そうして何処までも憎らしい。そんな彼らの脳髄に、背徳者の烙印はよく響いた。


「貴方は紋章教徒と同盟を結んだ。此れは事実でしょう」


 一言、一言。市民に噛みしめさせるようにゆっくりとロゾーは語りあげる。両腕を大袈裟に振るい、喉と声を震わせ、市民の耳を傾けさせる。今までずっとやってきたことだ。今までこうして、口先だけで生きて来たのだ。


 そうして、正しくない道を、歩いてきたのだ。


「それがどうしたというのよ。風向きを見定めるのはフィロスにとってお得意事でしょう。統治者の務めは恥を食い殺してでも、フィロスの自治を存続させること、ただそれだけよ」


 フィロス=トレイトの白眼は、未だ揺れぬ。正面に立つロゾーを見上げながら、ただただ真実を告げるのみ。けれども真実というものは、決して揺るがぬ場所に鎮座しているものではない。むしろ、余りに移ろいやすい人の頭の中にこそ住み着くものだ。


 ロゾーの眉があがり、両目が見開かれる。唇の端を浮き上がらせるその様は、何とも楽しそうに見えた。


「貴方の様子を密告してくれた兵がいる。楽し気に紋章教の者と語り、そうして――フィロスの統治者としてでなく、フィロス=トレイト個人として紋章教の手を取ったと」


 だから何だとばかりに、フィロス=トレイトは目線を強め身体を張る。己の事を正しいと信じて疑わぬその姿。ロゾーは胸中に賞賛すら覚えながら、唇を拉げさせる。


 統治者個人が、敵対勢力と同盟を結ぶ。そんな事、本来であればまず有り得ぬ。歴史書をひっくり返してみても、恐らくは数度の例しかない事だ。


 今回それが成り得たのは、彼女がフィロスという都市そのものに、背徳の烙印がおされる事を畏れたため、といった所か。そんなこと、ロゾーには分かり切ったことだった。何故なら彼女は何時だって正しいし、私心で動こうとなど欠片も思わぬ強い人だから。


 けれども、だからこそ、人の心の弱さという奴が分からぬのだ。人が人を疑うという行為の本質が、畏れだと分かっていないのだ。そうして歴史の中の稀有な例。己一人で敵対勢力と同盟を結んだ君主が、どういう人間であったのかも、分かっていない。


「――フィロス=トレイト。貴方は自らの保身の為、都市フィロスを売り渡した卑劣な背徳者だ。身柄の安全と引き換えに、都市の物資を紋章教に引き渡す契約を結んでな。恥を知るが良い」


 この時、初めてフィロス=トレイトがその眼を見開いた。そこに浮かんでいるのは、まさしく驚愕の色。一体、何を言っているのだとでも言いたげだ。馬鹿々々しいにもほどがある、よくもまぁそんな下らないことを思いつくものだとでも、胸中では思っているのだろう。


 だがそれと同時にもう一つ、気づいているはずなのだと、ロゾーは頬を歪めた。


 騙されやすく誘導されやすい市民達が、そんな悪評を信じかねぬという、事を。何せ、敵対勢力と単独で同盟を結ぶ、契約を取り交わす君主というものは、何時だって卑怯な裏切り者だったのだから。


「……貴方お得意の妄言は聞き飽きたわ、ロゾー」


 そう言いながらも、フィロス=トレイトの双眸は門前の市民を、反射的に見回す。市民の誰もかれもが、彼女を睨み付けて離そうとしない。それ所か彼らの唇は次々に開き、暴音を吐き散らしていく。


 裏切り者、卑怯で臆病な虫けら、人殺しの悪党め――ああ、死んでしまえ背徳者。


 誰もが気を逸したかの様に荒々しい言葉をまき散らし、中空を汚していく。


「俺達を売りやがったな――汚らしい売女がッ!」


 そうして当然のように、一石が放り投げられ、フィロス=トレイトの頬を強かに打った。


 敢えて尖った石を扱ったのだろう。彼女の頬皮は薄っすらと切り裂かれ、鮮やかな血が頬を舐める。頬骨に響いたのか、その足がたたらを踏んだ。


 それを真似るかのように誰もかれもが放り投げられる物をその手に持ち、槍を構えた者達が、今にもフィロス=トレイトの肉を食い破ってしまうのではないのか、そんな風に思われた頃合い。


 狙いすましたかの様に、ロゾーは言葉を放つ。いつも通りの、よくとおる声を。


「静粛に諸君。背徳者フィロス=トレイトは我々でなく、大聖教によって裁かれる。彼女を牢に入れよ!」


 そう言って、歪に嗤うかのように、ロゾーは唇を歪めた。

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