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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十章『昏迷都市フィロス編』
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第二百四十三話『魔女と邪竜』

 フィロス=トレイトの頬を渇いた風が打つ。砂ぼこりが舞い上がり、身体に纏わりつかせた礼服が揺蕩った。


 どうやら、今日は随分と風が強いらしい。まるで、妖精が戯れているのかと思わせるほどだ。背後に事務官と護衛官を連れながら、フィロス=トレイトは紋章教の陣地を踏みしめるように、歩く。


 自らの白い眼がゆえだろうか、それとも大聖教徒の装いが故か。いやというほど好奇の視線が突き刺さってくるのが、フィロス=トレイトには分かった。不躾ではあるが、それを拒むことも出来まい。何せ相手が珍しいのは、こちらも同じだ。何せ大聖教徒は、紋章教徒が真面に出歩いている姿を見ることは極めて稀であるし、それにエルフに至っては伝承で耳にする程度のもの。飾り付けや装飾品に至るまで、何もかもがフィロス=トレイトの価値観、つまり大聖教徒の価値観とは異なっている。


 此れが、異種族、異文化というものか。フィロス=トレイトはある種素直な感嘆すら持ちながら、その白眼と片眼鏡を煌かせる。今まで彼女にとって、フィロスという都市を出る機会など数えるほどのことで、異文化は勿論異種族など見た事すらない。思わずその視線が滑って行ってしまう。


 しかし、その好奇心も恐らくは臓腑の底に潜んでいる緊張を紛らわす為のものだろう。喉は数度唾を飲み込んだが、渇きがどうにも取れていかない。


「此方が交渉の場となります。フィロス=トレイト様」


 案内の兵が、胸の辺りに腕を置くような敬礼を行って、道を開ける。眼前には大天幕があった。恐らく此処に、彼らが、いるのだ。フィロス=トレイトの足先に痺れのようなものが襲う。紛れもない焦燥と緊張が、胃の辺りを掠めていく。


 周囲に気づかれぬよう、呼吸を、一つ。そうして案内の兵を軽く労りながら、大天幕の中へと入った。


 ——そこに、紛れもなく彼らはいた。紋章教の魔女、そうして大悪と、そう呼ばれる男が。


 事前の交渉の通り、こちらと同じく相手も三者。中央に座すのが、恐らくは魔女マティアだろう。


 大きな瞳を覆う煌きは、まごうことなき信仰の狂光。時に聖人と呼ばれる人間が持つそれだ。それに、その振る舞いや所作の洗練のされ具合は、人の視線をよく惹き付ける。


 紋章教徒には聖女と祀り上げられ、大聖教徒には魔女と、そう忌み嫌われるわけがそれだけでよく分かった。


 その左隣に控える小柄な女性は、魔女の秘書官か、そのような役回りなのだろう。挨拶を交わす僅かな言葉にも、隠しきれない知性が見え隠れしている。それにこのような交渉の場に立つことを許されていること自体、彼女が能を持っていることを証明していた。


 そうして、最後にフィロス=トレイトは魔女の右隣に視線を、やった。目つきを悪くしながら、粗野さを隠そうともせず言葉を交わす、彼。


 大悪、悪徳の主、裏切り者、ルーギス。その双眸は尖り切った刃のように鋭く、此方を貫く。口に出す言葉は少ないが、何をその頭蓋の中で巡らせているのかわからぬ、そのような表情だった。


 思わずフィロス=トレイトの肩が竦みそうになる。戦場で見た、兜ごと兵を断絶するあの悪逆なる振る舞い。馬の蹄で人の頭蓋を叩き割っていく、その姿。そうして、己が命を差し出しておきながらも、それをいらぬとばかりに捨て去り屈辱を与えた、彼。それが、否が応でも彼女の瞼の裏に描き出される。


 熱い吐息が唇から漏れ出そうになるのを、必死にフィロス=トレイトは抑え込んだ。見縊られた、侮られた憤慨が今にも喉から登ってきそうだった。だというのにその当人は、まるで己と初めてあったとでもいうように振る舞い、此方を珍しげにじぃと見つめていた。そうか、どうやら覚える価値もないと断じられていたらしい。馬鹿にされたものだ。


 ルーギスなる人間は大聖堂が認めた勇者によって大悪に任ぜられ、そうして教皇猊下よりは悪徳の主の名を与えられたと聞く。


 かつてその称号と名を与えられたのは、唯一神アルティウスが神話の時代にその心臓を砕いた邪なる竜、大魔ヴリリガントのみ。アルティウスは邪竜の首を刎ね落とすことで、唯一の神として君臨したという話もある。その邪竜に例えられるとは、果たしてどのような人間なのか。


 フィロス=トレイトの胸中にはその僅かな好奇心、そうして大きな警戒と憤慨が、あった。この交渉の場でも、何か彼はしでかすのではないかという、懸念。


 だが、此の交渉の場に彼を呼ばぬ方がもっと怖い。紋章教の実権を握り込み、軍を左右させているのは此の男だという噂もフィロス=トレイトの耳には集められていた。魔女と契約を交わしたところで、後から邪竜に全て踏み潰されてしまうのでは意味がない。どうせ紋章教の手を取るのであれば、確実な契約にするべきだ。此処で何があろうと、明確な契約と記録を持ち帰らねばならない。例え、その交渉相手が魔女と邪竜だとしても。


 だが、そんなフィロス=トレイトの懸念を敢えて外したかのように、交渉の場はかつてないほどに円滑に進んだ。


 魔女マティアとラルグド=アンなる少女がフィロス=トレイトに提示したものは、同盟案。都市フィロスが紋章教の配下として跪くのではなく、あくまで協力者としての立ち位置を求めるもの。先に送られてきた羊皮紙の内容からすると、随分と軟化した内容と言えるだろう。


 求められているものは物資の補給、宿舎の確保、そうして情報の提供といった所。恐らく物資の提供というのには、此方の武器防具を接収し、脅威を取り除くという意味合いもあるのだろう。


 多少飲み込めぬ部分はある、しかし、決して受け入れられぬほどではない。また、嫌な線を提示してくるものだとフィロス=トレイトは白い眼を歪ませた。強すぎる要求であれば一度交渉を取りやめ、相手の譲歩を促すということも出来るのだが、此れではそれも望めそうにない。


 自治都市フィロスという立地は、紋章教にすれば是が非でも勢力に組み込みたい立地になるのだろうと、フィロス=トレイトは頭の中に思い浮かべていた。


 此れから紋章教がガーライスト王国王都に向け進軍するにしろしないにしろ、その足掛かりとなる都市フィロスを見逃すわけにはいかない。進軍を続けるのであればその背後に噛みつかれかねないし、かといって全く手を施さずに撤退を行ってしまえば、長い寒冷期が去った後、この都市は大聖教の前線基地となってしまうことだろう。


 ゆえに、紋章教には都市フィロスを見逃してしまうなどという手はない。条件を飲めば同盟者として歓迎するであろうし、飲めぬというのなら被害を受けてでも必ず滅ぼすはずだ。


 フィロス=トレイトは目を細めたまま、事務官と言葉を交わしつつ、頭蓋の中で思考を巡らせる。


 正直を言えば、悪くはない要求だった。同盟内容は勿論として、その同盟相手が都市フィロスではなく、フィロス=トレイト個人という所が、特に。此の内容であれば、紋章教と同盟を結んだのは統治者個人であり、後々紋章教が大聖教に飲み込まれたとしても、己個人が罰されれば事態の解決が図れ都市フィロスそのものは自治を守れる可能性が残る。勿論、薄い可能性であるのは確かだが、全く可能性が無いというのとは全く違う。


 魔女マティアか、それとも他の誰かが描いた絵図なのかは知らないが、彼女らは風聞で耳にする姿よりずっと聡明であるらしい。


 大天幕の中数度言葉が飛び交いあい、紋章教とフィロス=トレイトとの間とで、交渉が重ねられていく。その合間ふと、フィロス=トレイトは殆ど言葉を発さぬルーギスの事が気にかかり、そちらの方へと視線を向ける。交渉自体は円滑に進んでいるが、よもや彼が何か横槍を入れはしないだろうかと、そんな思いも胸中には練り込まれていた。


 だが、ルーギスは唇を開くこともなく、ただじぃと凝視するようにフィロス=トレイトの顔を見つめていた。何であろうか。確かに己の片眼鏡や白眼は珍しく奇異には映るだろうが、それほど飽きもせず見ておきたいものでもあるまい。むしろ多くのものは恐怖や嫌悪から目を逸らすものだが。


 その鋭い視線を向けられて思わず、フィロス=トレイトの顔がルーギスの方に、向く。それにつられたかのように、マティアとアンも、ルーギスへと視線を向けた。


 僅かな、空白。誰もが何となしに言葉を発さないその間断に追い立てられたかのように、ルーギスが唇を、開いた。


「気を悪くしないで欲しいんだが、その右眼は生まれつき、じゃあないよな。答えたくなけりゃあ、答えなくてもいいんだが」


 本当に、何でもないかのようにルーギスは、言う。フィロス=トレイトは己の眉が大きく跳ね上がるのが、分かった。


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