第二百四十二話『眠気と管理者の瞳』
「ルーギス。何をしようと、しているのですか?」
聖女マティアのその一言で、重く閉じかかった俺の瞼が開き、再び眼が光を受け入れはじめた。耳を打ったその声が、どうにも耳奥に絡みつくような色を帯びていた所為だろう、背筋が微かに、粟立った。
白い息を細く吐き出し、唇を動かす。
「……良い眠気がきてな。黄金の絹みたいな素晴らしい夢が見れそうなんだよ」
散々に疲れ果てたような声を演じて、言う。いや事実、頭の中は変な音が反響しあい、思い切り疲弊を訴えていたのだが。どうにも睡眠が足りていない。
それに、フィロス=トレイトだとかいう統治者様と顔を会わせた所で、俺が口を交わすことなぞ全くないはずだ。
大部分の方針はマティアがすでに決めてしまっていることだろうし、細部はラルグド=アンが上手く詰めてくれるだろう。つまり俺の役割は椅子にもたれかかっているだけと来ている、なら、多少瞼を閉じていた所で別に問題はないはずだ。
と、そのような事を瞼を重くしたまま、言った。その際にも欠伸が、漏れる。思わずひじ掛けに重く体重を乗せた。
俺の言葉を聞いてマティアは、薄い笑みのようなものを浮かべながら唇を開き、声を出す。
「ルーギス。此処数日は、私の言う通りの時間に寝て、起きているのでしょう。ならばそれは身体に必要なだけの睡眠。それ以上は必要ありません。食事も私が決めたものを出させていますから、眠気を起こすようなことはないはずです。そうでしょう、アン」
言葉を受けてアンが、はい、間違いなくと継ぐ。そのマティアとアンの言葉を聞いて、俺は一瞬、内頬をかむ。すぅ、と唇で空気を吸った。
傍らに座るマティアへと視線をやれば、淡い、それでいて魅入ってしまいそうな笑みを顔に張り付けている。何かおかしな事を言ったでしょうか、とでも言いだしそうだ。
なるほど、とてもではないが、昨日マティアとアンに知識を詰め込まれた後、睡眠など忘れて兵の連中と賭け札を投げ合っていた、などと言えなさそうだ。全てなかったことにしてしまおう。
マティアから静かに視線を逸らし、咄嗟に懐から、噛み煙草を探した。数本が、軍服の裏に放り込まれている。随分と心もとない本数だ。またアンから、受け取らねばならないだろう。
「ルーギス様。そういえば、此れは詰まらない余談なのですが」
噛み煙草を唇に食ませ、その独特の匂いで何とか心を落ち着けようとした、瞬間。
アンが本当に、なんでもないことだ、というような言いぶりで話し始める。此方を向くアンの顔、その口角が妙につり上がり、そうしてひくついているような気配が、あった。
悪い、予感がする。とても、悪い予感が。どうしたんだ、と敢えて軽い様子で声を、返した。
「昨日、軍律を犯した者が数名いるようでして。何でも、本来持つはずのない種類の酒瓶と煙草を持っていた様子。何処から漏れ出たものかはわかりませんが、軍律を破り持ち込んだ、もしくは盗み取ったものがいるのは確かでしょう」
アンは、何ともわざとらしく、そうして言葉で俺を刺すように、声を響かせる。その表情がどうにも楽し気に見えたのは気の所為だろうか。
それは、当然持たぬはずの種類だろうさ。俺が直接やったんだから。見つかるなとあれほど釘を刺しておいたというのに。案外と紋章教軍はそういった話が出回ってしまいやすいらしい。
此の時点で、おおよそ俺は状況という奴を把握していた。そうしてマティアがどうして、少しばかり俺が眠気に襲われた程度で声を鋭くしたのかも。
「そういえば、ルーギス――昨晩、貴方の天幕が妙に騒がしかった気がしたのですが、気の所為でしょうか?」
マティアの、骨の芯すら貫きそうなその声に、俺は両手をあげて応えた。
勘弁してくれ、どういう尋問だ、此れは。
◇◆◇◆
「分かった、悪かった。俺が悪かったよ。少しばかり遊びも必要だと思ったのさ。兵を責めてやるな、酒も煙草も俺がやったんだ」
両手をあげたまま、背筋を伸ばしてそう呟くルーギスに、マティアは思わずに深い笑みを浮かべてしまいそうだった。心臓の動悸が喉から零れ落ちそうになり、引き締めよう、引き締めようとしても、つい頬が緩んでしまいそうになる。
どうにも、よろしくない。彼が己に謝るその姿を見て、胸に充足を覚えるなどと。
本来マティアという人間は、己の知識智謀を信望し、その計算からずれ落ちるような真似を許すような人間ではない。勝手な振る舞いをする人間に対し、甘さというものを見せるような性質ではなかった。
けれども、今回に限って、マティアはルーギスを酷く責め立てるような事をするつもりはない。何せ、このような事が起こるのは分かり切っていたことだからだ。
当然といえば当然で、ルーギスは今まで軍律や規則、そういった何かに管理される生活に浸った事がないと聞く。ならば、そのようなものを窮屈に感じ、時に破り捨ててしまうことは当たり前のこと。
だからこそ、マティアも余り責め立てるような気は、ない。
そう、最初から全てを締め上げてしまえば、人間というのは参ってしまう。ルーギスが言う様に、ある程度の遊びが必要なのだ。全て、何もかも最初から締め付けてしまう、などというのは狂気に近しい。様子を見て適度に緩めてやるのも、実質的には必要なことだろうと、マティアは思う。
――けれども、許すというようなことは、決してないが。
マティアの手先に僅かに力が籠められ、眦に熱が、宿る。
何せ、分かっていたとはいえ、ルーギスは私の管理から外れたのだ。ならばそれがどういう意味であるのかを、よく理解させる必要があるだろう。
マティアは唇を波打たせながら、言う。声色には思わず、他の情動が混じってしまいそうだったのを、必死にマティアは喉に留めた。
「では軍律違反は起こっていないと、良い事です。ええ、ルーギスが私との約束を踏みつけにした以外は」
傷を効率よく癒すため、体調管理を行うため、そんな名目をつけてルーギスの日常に、マティアは幾つかの約束を取り付けた。
マティアの決めた時間に起き、彼女が決めた時間に寝、そうして彼女が決めた食事を取る。言ってしまえば、ただそれだけ。
それだけの事で毒が混入する可能性も下がるうえに、居場所が分かりやすくなるため軍としての行動もとりやすくなる。なら断然行うべき約束だと、そう言い含めた。
軍律というほど重いものでもない、羊皮紙に残した契約でもない。だから本当に、それはただの約束だ。だから、破った所で何か罰則があるわけでもない。
けれども、マティアは約束という言葉が少なからず、ルーギスに罪悪感を覚えさせるのに有効だという事を、此処までの付き合いで理解していた。どうにも彼は、その言葉に少なからず思い入れがあるようだ。ならば、存分に利用しようではないか。
人間、約束を破ってしまう事も多少はあるだろう。しかしルーギスは約束だったと、そう一言いうだけで、破った自分が悪かったのだと認めてくれる。そんな約束知らぬというような不躾な人間では決してない。
それは何と、素晴らしいことだろうとマティアは思う。
己の言葉を耳に受けて、酷くばつが悪そうに視線を逸らすルーギスの表情を見て、唇の端がびくりと跳ねたのを、マティアは感じた。
ルーギスが罪悪感を感じれば、感じるほどに、彼は己の顔をうかがう様になる。此れは良いのだろうか、此れは悪いのだろうか。その判断がだんだんと、自身で出来なくなっていくことだろう。そうして都度私に伺う様になる、此れで良いのかと。
ああ、それで構わない。私の管理の中で、私に抱きしめられて生きていく。それこそが、彼の幸福につながるのだと信じている。
その為に、今はひたすら何が正しいのかを教え込もう。起きる時間も寝る時間も、食べるものすら管理して、彼の身体を手のひらに収めて見せよう。
未だ両手をあげて視線をうろつかせたままのルーギスを見て、マティアは思わずくすりと、何か含んだような笑みを零して、言う。
「釈明は後で聞きましょう。戦場で貴方が無断で突撃を敢行した事も、忘れてはいませんよ?」
さて、後ほど己の天幕で、ルーギスはどのような言葉を聞かせてくれるのだろう。マティアはそれが楽しみで仕方がなかった。処理するべき案件は幾らでもあるが、その為の時間なら幾らでも割こうではないか。
そんな、他愛もないやり取りを交わしている間も、時間は過ぎていく。陽光が強くなり始めた頃、伝令の兵が大きな声を天幕内に響かせた。
――自治都市フィロス領主、フィロス=トレイト様がご到着されました。ご用意のほどを。
遠くで、馬の嘶きが、鳴っていた。