第二百三十八話『その背中』
――バッ、リィン。
破砕音が耳朶を打った数秒後、ようやく己の右手が痛みを訴えていることに、カリアは気づいた。ふと視線をやると、そこには粉々に砕かれた酒瓶と、瓶の破片に切り裂かれた己の皮膚。掌からは僅かな血液が滴り、大地を舐める。
痺れるような、痛み。だが、その痛みも、一瞬の内に脳内から弾け飛んだ。今そんな些事に拘っている暇はないと、カリアは視線を再びルーギスへと、向けた。
こいつは、今何と言った。目の前の此の男は私に向かって何と言葉を吐いた。
――俺の手から離れて動いてくれればいいさ。
その言葉を思い返し、カリアは全身に血液が沸騰しそうなほどの熱が芽生えたのを感じた。美麗な銀眼がこれ以上ないほどに歪み、唇がへし曲がる。
離れて動けば、良い。何だそれは。己は彼に傅き、そして忠誠まで誓ったというのに。それを貴様は、いらぬとばかりに放り出すというのか。カリアの奥歯がぎぃと、軋んだ音を鳴らした。
「……それは、何だ。貴様は、私に暇を与えるということか?」
ゆっくりと呟かれたその声は、カリア自身が驚くほどに震えていた。今までこれほどに震えさせた声を、己は出したことがあっただろうか。しかも、余りある憤激によっての震えではなく、ただただ、怯えによって生まれた震えを声に帯びさせた事なぞ、あっただろうか。
ああ、そうか、私は怯えているのだ。情けない。何と、何と脆弱で下らない女になってしまったのだろうか、私は。弱くなったと自覚はしていたが、此処までだったとは。
己が執着した意中の相手に、捨てられるやもしれぬ。傅き忠誠を捧げた主君に、暇を出されるかも知れぬ。そんな喪失に対する怯え。
カリアは己の胸中にそのような情動が浮かび上がること自体が、不思議で仕方がなかった。今までであれば、そのようなもの一顧だにしなかったはずだ。そんな事を一々気に留めるほどの脆弱さを、カリアは心の底から嫌っていた。
世界で最も価値があるものは、力、つまり強さだとカリアは信じている。カリアという人間は己は勿論他者にさえ、弱さという概念を許さなかった。力を追求すること、それこそが正しい在り方だと信じて疑わなかった。
だというのに、何だこの有様は。何だこの余りに脆い精神性は。此れでは、己が嫌った弱者そのものではないか。カリアの吐息が、僅かに荒れる。己を律するように、細い指がぎゅぅと力強く握りしめられた。
ルーギスは破砕した酒瓶に眼を丸め、頬をひくつかせてはいたものの、カリアの問いかけに言葉を選ぶようにして、答えた。
「暇を与えるっていうのは違うがよ。カリアなら、自由にというか、好きに動けた方が良いと思ったんだがね」
ルーギスから与えられた言葉を一つ一つ噛み砕くようにカリアは受け止め、眼を細める。カリアが反応を見せるまでに、数秒が、あった。その数秒をかけて、カリアはゆっくりとルーギスの言葉を飲み込んでいく。
そして全て受け止めた、瞬間。カリアの体内には心臓が跳ね上がるような音が、あった。
心臓を跳ね上げさせたのは、先ほどから身体の中を蠢いていた怯えでも、悲しみでもない。
むしろそれらの情動とは全く反対の、喉から吐き出しそうなほどの、熱。カリアの唇、その端が歪に波打ち、言葉を漏れ出させた。
――そうか、つまり貴様は。もう私の手など必要ないと、そう言いたいわけか。言ってくれるものだな、ええ?
唇が尖り、眦が燃える。その言葉はもはや声などという上等なものではなく、ただ心の中に渦巻いていた熱が、そのまま外に吐き出されただけの音だった。
すっくとその場から立ち上がり、カリアは右手から血液を垂れ流したまま、口端をつりあげる。意識せねば腰元にさげた愛剣すら抜き放ってしまいそうなほどの衝動が、カリアの胸には渦巻いていた。
人の感情とは、なんと奇妙なものだろうと、カリアは思う。
つい先ほどまでは、ルーギスに見捨てられぬか、切り捨てられぬかとびくびくと馬鹿のように怯えていたというのに。今になってはもはやそんな事を憂慮するような気持ちは、胸の奥底、その何処を見ても見当たらない。ただ燃え滾るばかりの衝動が、あった。
ルーギスの唇が跳ね、目は見開き、何事かを言おうとしたのがカリアには見えた。けれどそれよりもカリアの方が、数瞬、早い。
カリアの白い右手が、ルーギスの両頬を捕まえる。僅かな抵抗も、カリアを前にしては一切の意味を成さない。椅子に座り込んだままのルーギスに寄りかかり、抑えつける様にしながら、カリアは言う。
銀の眼が、仄かな暗い明かりをともしながら、己の主を見据えていた。
「そうだな、主君だからといって、甘やかすことはない。私は勘違いをしていたぞ、ルーギス」
カリアの声色は酷く愉快げだった。何かを嘲弄するような、まるで悪魔が囁くような笑み。
その頬を綺麗な線が割いていく。冷酷で、獰猛そのものを張り付けた表情。尖り切った犬歯が、唇の隙間から見え隠れしていた。
カリアは己の身体の至る所から、何かしらの力が湧き出てくるのを感じている。今まで感じたことすらなかった、それ。今であれば掌で包み込んでいるルーギスの顔を――そのまま骨ごと拉げさせてしまうことすら出来そうだ。
だからだろうか、カリアは繊細なものを扱う様に、両手で優しくルーギスの頬を撫でた。決して、彼が逃げられぬように身体を抑えつけたまま。
「良いか貴様。しっかりと覚えろ。そうして忘れるな」
ルーギスの耳に熱い吐息を押し当てながら、カリアは囁く。覚えの悪い飼い犬に躾を教え込むかのように、脳髄に言葉を直接吹き込むかのように。
そうだ、そもそもからして、ずっと前にルーギスへと教え込まねばならなかったことを、愚かにも己は失念してしまっていた。
己の剣を断ち切り、英雄へと至るルーギスを好ましく思うあまり。栄光を掴み込もうとする彼の姿を後押しする余り、その奔放を許してしまった。
何と、愚かな。カリアの唇が、妙な妖艶さを伴って波打った。
「私は貴様に生涯を捧げよう。身も心も魂すらも、望むなら好きにするが良い」
その甘く囁かれる声は、何かを誘うような響きすら伴っている。思考を茹らせるような、頬を思わず染めさせてしまうような、そんな声。カリアが今まで出したこともないような、艶やかな声色だった。
ただ、それが次の瞬間には、背骨そのものを氷に変じさせる冷徹な声に、変じた。銀眼がルーギスを貫くように細まる。
「だが、私を裏切り、よもや他の者に縋りつくなどという不義を晒してみろ。そんな時がきたならば――」
――貴様に必ず、破滅と絶望を与えてやる。
カリアの重く鋭い声が、ルーギスの耳奥を何度も、抉った。
◇◆◇◆
随分と前に思った事だが、本当に此の女、遠い先祖に巨人族でもいたんじゃあないだろうな。
そんな事を頭に思い浮かばせながら、眼を明滅させる。何せ、俺に今動かせそうなのは目玉、あと敢えて言うなら指先くらいしかなかったからだ。
カリアは優しげに俺の両頬に触れ、じぃとこちらを見つめている。恐らくだが四肢や体躯も多少の重みを感じれど痛みを覚えていないのは、カリアが随分と気を遣ってくれているに違いない。吐き出された言葉とは反対に、その態度は優し気だ。
だが、明確な直感が、あった。今、少しでも身じろぎし、カリアを拒絶するような態度を取れば。
瞬間、手か脚かそれとも他の何処かか。動かした箇所が、砕ける、比喩表現などではなく。
なるほど状況は、大いによろしくない。どうやら獰猛な獅子の勘所に直接触れてしまったようだ。そのうえ、もう俺はその牙に噛みつかれてしまっている。今は、カリアの気まぐれでその凶暴な顎が閉じられていないだけだ。もはや抵抗らしい抵抗もできず、動かせるものといえば目玉と、指先と、後は精々口だけか。
静かに吐息を、漏らし。可能な限りゆっくりと唇を、開いた。
「物騒な事を言いやがる。大体、俺が何時お前を裏切るって言うんだよ」
僅かばかり声が震えていたかもしれない。けれどもなるべく平時のような声を意識して、言った。カリアが、その獰猛に細まった銀眼を揺らす。
「分からんぞ。何せ、貴様は随分と女を侍らせるのが好きだからな。その上、目を離せばふらりふらり、あちらこちらへと奔放に動き回る。仲間であり、忠節すら尽くす私に断りもなく、な?」
カリアの白く細い指が、俺の首筋をつぅと、撫でた。本来ならただこそばゆいだけのはずの、それ。だが今この時ばかりは、何時でも俺を殺せるのだという、カリアの宣告のようだった。事実、カリアの指先は容易く俺の肉を抉ってしまいそうな感触が、ある。
何とも、昔から物騒な女ではあったが。どうにもここにきてその獰猛さがより深く、より濃密な何かに変じ始めている様な、そんな気配があった。それが俺に向けられているというのだから、何とも、酷いものだ。
そんなに奔放に動き回ってたつもりはないんだがね、と、敢えて軽口をたたくような口ぶりで、言った。カリアの眉がぐいと、跳ね上がる。
「そうか? ガルーアマリアでも、ガザリアでも、ベルフェインでも、そうして今回もそうだ。貴様は何時だって私を遠くに追いやり、私の視界から消えていった。そうして次も同じことをすると、そういう事か。なぁ、ルーギス――答えろ」
カリアは薄い笑みを浮かべながらも、しかし眼を固くして、言う。その眼は決して笑ってなど、いなかった。言葉を間違えれば、どうにかなってしまうのではないだろうか。そんな予感が、あった。
参った。俺にとってそれは、別行動をとるということは、ある種信頼の表れだったのだが。
気高い彼女であれば、裏切りなどあり得えない。誰よりも強い彼女であれば、襲い掛かる窮地すらも跳ね除けてくれる。そう、心の奥底から信じていた。
しかしそう思うと、俺は天敵であった人間を、よくもまぁ信じるようになったものだ。かつて怯え、竦み、その力にただ羨望の眼差しを向けるしか出来なかった、俺が。
身体から力を抜き、椅子にもたれかかる様に、カリアを受け入れるようにしながら、言う。
「分かった、分かったさ。もう、自由にしろなぞとは言わん」
僅かに、声色が歪んでいたのが、俺自身よく分かっていた。ふと、カリアの胸の中にある感情という奴は、今どんな色をしているのだろうと、そう思った。
今までやったことは無かったんだがよ、と、そう前置きして、言葉を継ぐ。
「実は背中を預ける、という奴に憧れててな。ほら、騎士物語や英雄譚、御伽噺にはよく出てくるだろう、そういうの――どうだ、カリア。俺の背中を、預かってくれるか」
そう言って、此方を固く見つめていた銀の眼を、見返した。その凍ってしまったかと思うほどの眼が、僅かに緩まった、そんな気がした。
カリアの唇が、小さく動いた。