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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第九章『サーニオ会戦編』
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第二百三十四話『報復と呪い』

 ――皆、我が英雄の姿を見よ! 敵は崩れ、道はそこに拓かれた!


 周囲へと声を轟かせるように喉を鳴らし、長く整った頭髪を揺らめかせて、聖女マティアは言う。銀色の籠手と膝当てが、夕焼けの光を反射していた。


 マティアの胸奥には、熱い滾りのようなものが熱を帯びている。固い、今まで無理やり蓋をして閉じ込めて来た情動。名を、憎悪だとか怨念だとかいうものが、沸き上がっていた。


 大聖教と紋章教。


 両者は何時から、互いに槍を持ち敵対しあうようになったのか。そんな事は今となってはもう分からない。元来、どのような関係であったのかということすら、記録には残っていなかった。


 確かであることは、今この時代において大聖教は地上を闊歩する強者であり、紋章教はその住処すら怪しい邪教の一つに過ぎないという事だ。


 その事を、マティアは深く理解していた。そうして、強者が弱者を虐げるのは当然の事、立場が違えば紋章教もまた、大聖教の民を打ち払っていたかもしれないのだから。


 だが、だからと言って、今まで受けた侮蔑と迫害の数々を、忘れられるはずも、許容できるはずもない。


 国を追われ、都市を奪われ、村を、土地を追い払われて。行く当てもない流民となったかつての紋章教徒達。交易都市ガルーアマリアを手中に収めるまで、それこそ紋章教に生きていく土地などなかった。


 逃げて、逃げて、逃げて。その逃避行の中で神を、信仰を踏みつけにされ、男は身体をすりつぶす奴隷に、女は誰かの所有物になった。紋章教徒が住む場所を求めるというのは、そういう事だった。


 奴隷として家畜同然の扱いすら受ける、そんな、日々。それが、どれほどの年月続いていたのだろう。もはや、マティアには想像すらつかない。彼女が知っているのは、少なくとも己が生まれた頃には、紋章教徒というのはそういう存在だった、という事だけ。


 聖女マティアの中で、固く蓋をされていた情動が、這いずりながら零れ出ようと、蠢ていた。熱い息が、漏れる。


「――長い。とても長い寒冷の時期があった」


 語り掛けるように、マティアは声を響かせる。その言葉は祝詞か、もしくは呪いでも振りかけるかのよう。マティアの舌と唇が、丹念に言葉を練り上げていく。


「徒らに尊厳を奪われ、それでも耐え、踏みにじられて尚逃げるしか出来ない。 穏やかに農村で暮らすもの達が、紋章を掲げるという理由のみで殺される。男は拷問にかけられ、女は犯され、我らは奪われ、それでも耐えねばならなかった」


 そんな、寒冷の時があったと、マティアは言う。それは戦場の中、兵士の身体の奥底に染みわたっていくような声だった。心を昂らせ、胸を優しく撫でるような言葉。その胸を撫でる手つきは、奥底に溜まった感情を揺り動かす。


 甘美で、誰もが耳を傾けざるを得ない、マティアの声。それをこそ、人はカリスマと、そう呼ぶのかもしれない。


「誇りを汚され、土地を奪われ、ただ歯を固くかみしめるだけの長い、とても長い寒冷の時」


 だが、と、そう言葉を継ぎながら、マティアは言う。聖女の声は何処までも、何処までも響き渡っていった。


「――だが、其れは此処に終わった! 今、この時をもって再び我らは人と成る。同胞の無念を、始祖の魂の憤怒を晴らすは今この時。此れは聖戦ではない、我らが意志をもってして、敵の首を刎ね落とせェッ!」


 声と同時、マティアが天を突き刺すが如く、槍を掲げる。聖女に追随した声が、戦場の蛮声を跳ねのけた。


 ――ァア゛――オォッ!


 兵達の、声にならぬ声。発された音の塊そのもの。自らの身体にのしかかった重圧な外套を吹き飛ばすが如く発せられたそれ。


 ルーギスが兵に与えるものが、狂的なまでの熱だとすれば。聖女マティアが与えるものは、ああ、それはやはり祝福ではない。明確な呪いだ。


 聖女マティアの嗚咽とも思える言葉の羅列は、紋章教の将、騎士、兵、全てに呪いをかけた。もはや誰も、眼前の大聖教軍を食い破ることしか考えていない。その血と肉しか眼には映らない。瞳の奥には暗い、暗い輝きが灯っている。


 己の精神の中に蹲る信仰と情動を、他者の胸中に植え込んでしまう、その常人離れした能。そんなマティアの事を聖女と呼ぶか、それとも魔女と呼ぶべきなのか。きっと、誰も答えはもっていない。



 ◇◆◇◆


 

 大聖教軍、大天幕の中、しわがれた声が小さく漏れた。


「馬鹿かお前は。あれほど……伏兵は、使うなと言っておいたろうに」


「傷口が開きます、声を出さないでください。それに、命令を破った覚えはありませんよ。兵を救出する時には使って良いのでしょう。大隊長が破られれば、それだけ兵の犠牲は多くなりますから」


 ネイマールの何処か突き飛ばすような言葉に肩を竦めると、脇腹が、捩じり切られたかのような痛みを漏らす。


 リチャード=パーミリスにとって傷などというものは慣れたものだったが、此れほどの大傷を身体に埋め込まれたのは、随分と久方ぶりのことだ。もしかすると、かつて勇者の名を与えられ、諸国を巡っていた時以来の事かも知れない。


 そんな傷を、教え子から与えられた。


 本当に、成長したものだ。良きにしろ、悪きにしろ。己の教え子の事を思い浮かべながら、ふとリチャードは思う。出来が悪かったあのルーギスが、今では英雄となって己に立ちふさがり、そしてこの身に傷すらつけた。忌々しい事には他なるまいが、それでも、悪い気分では、なかった。


 ゆえに一つ問題があるとすれば、それはルーギスに刻まれた術式の事だけ。


 あれは、何だ。長い年月を経たリチャードの瞼が一瞬閉じられ、その裏に戦場で向き合ったルーギスの姿が、浮かぶ。かつてこの身は、数々の魔の術式を見てきたし、エルフの呪いというやつも詳しくまではないが、知っている。時にそれらの被害を受けた人間の手を取ったこともあった。


 だが、リチャードの長い生涯の中でも、あれほどの有様は見たことがない。戦場にて、ルーギスに黒剣の刃を通した瞬間に、分かった。リチャードの眼は確かにアレの中を観たのだ。


 高位陣魔法を身体の至る所に刻み込んだ、その光景。あれは、明らかに尋常ではない。時折魔法使いや魔術師という連中が、自らの身体に術式を刻み込むという話は聞いた事があるが、ルーギスのそれは、どう考えても本人の魔力許容量を超えている。


 人間というものには、魔力の許容量がある。例え自らの身体を魔法、魔術にて書き換えようとしたところで、許容量を超えてしまえば最期は冒険者病に疾患して、命を落とす。それが常識だ。


 だが、ルーギスの身体は違った。その全身に何者かが細工でも施したとでもいうように、身体を崩さぬまま術式を組み込んでいる。


 鋳造、錬成、収斂。何という言葉があれに相応しいのかは分からない。リチャードに理解できるのは、今のルーギスは紛れもない異常をその身体に抱えており、そうして、それは恐らく何者かの強固な意志によるものだということ。思わず、リチャードは背筋を這い上る寒気のようなものを感じていた。


 それに加えて酷いことに、奴はエルフの呪いまで授かっている。


 最低だ、最悪な道をあいつは選んでいる。エルフの呪いについて、リチャードはその細部を知らない。しかし、それが降りかかった人間が、ろくな死に方をしないということだけは知っていた。呪術を埋め込まれた大抵の人間は、安寧などとは別離した一生を送ることになる。エルフに呪いをかけられるなぞというのは、そうある事ではない。一体、あの教え子は何をしでかしたのだろうか。


 頭蓋に浮かび上がった懊悩に対し、深いため息をついた所で、治療兵がリチャードの脇腹に包帯を巻き終わった。多少は魔術の心得もあったのだろう。傷口の痛みが和らいでいる様な気配があった。


「――大隊長。貴方は一軍の将でしょう。ならば、あのような無茶はしないで頂きたい」


 治療が終わった、途端。ネイマールの突き刺すような言葉がリチャードの耳朶を打った。元から上官だ礼儀だ、などというのを気にする性格ではなかったが、今の言葉には一層、そういうものが削ぎ落ちていた気がリチャードにはした。副官としては、面倒な事この上ない。


 しかし此れは此れで、悪くない成長なのだろうがとそう思いつつ、唇を歪めてリチャードは言う。


「いいか、戦場じゃあ、ああいう無茶も時には必要なんだよ。ま、胸には留めておこう……それで、状況はどうなってる」


 戦場から大天幕に運び込まれる最中、リチャードは意識を失うことこそ防いだが、戦況の確認なんて出来るはずもない。今己が治療を受けていた時間だけで、軍が崩壊していたとして、何らおかしな事はないのだ。


 リチャードの問いに、ネイマールが小さく頷いて応える。


「はい。芳しくはありません。敵の魔術は打ち止めの様ですが、魔女の指揮により勢い盛ん。こちらは被害を何とか抑えながら後退している、という形勢です」


 その声を聴いて、上出来だと、リチャードは指を軽く鳴らしながら言った。言葉の通り、想像をしていたよりも随分とマシな状況だった。


 なにせこちらは軍の長たるものが戦場で不様に傷を負ったのだ。兵全体が散々に崩れ落ちていてもおかしくはない。それを未だ戦線を保てているなら十分に出来が良いと褒めたたえるべきだろう。


 ネイマールの視線が、此れからどうすべきかと、リチャードにそう問うている。視線に応じるように、リチャードはしわがれた声を、天幕の中に響かせた。

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[良い点] 敵となった師ですら心配するレベル
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