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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第九章『サーニオ会戦編』
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第二百三十二話『遠い遠い道のり』

 遠い、余りに遠い道のりがあった。道は歪み、くねり、もはや獣道とすらいえぬ有様。時には断絶すら繰り返しながら、それでも尚、道は其処にあった。


 目を眩ませ、気が遠くなりながらも歩いてきた、道程。我が事ながら、あきれ果てる。此れがなにかの演目であれば、観客は愚か演者すら誰一人いなくなってしまうに違いない。


 喉は枯れ果て、手足は疲弊し摩耗し尽くした。そうして今、俺は確かにその道のりの果てにいる。


 ――五秒が、経った。周囲は戦場特有の騒々しさを失い、時が止まったような静寂だけがあった。

 

 左肩、否左半身全ての感覚が痺れたかの様に鈍くなる。血液が自由を求めて身体の中から這い出したかの如く、周囲に飛び散り空を汚した。戦場の中でもはや効かなくなった鼻が、ひくついた。


 左右の瞼は痙攣を起こして開き、固い眼が空気にさらされる。肺の奥底にてたまりにたまった空気が、一息に唇から漏れ出ていく。瞬間、左腕全体を走るような痛みがあった。


 俺の左肩、その肉を断裂させるようにして、リチャード=パーミリスの黒剣が煌いている。止めどない血潮の波が、荒れ狂うように肩口から吹き上がった。それはまるで死人が末期の叫びをあげるかのような有様。こうも酷い様子だと、自分の事だと受け止めきれなくなってくる。だが、此れでもきっと、ましな結果に違いあるまい。


 本来、なら。その黒剣が放った一撃は、俺の心臓を食い殺すはずだった。肩骨など容易くへし折り、筋の抵抗などなきものの如く、俺の半身を切り裂いていたはずだ。


 相手は、リチャード=パーミリス。我が悪辣なる師。その程度のことは息を吐くが如く成し遂げるに決まっている。だから、それが成し得なかったのには、成し得なかった理由が、あった。


 視界が赤黒さに塗れる中、自らの姿を誇示するかの如く、紫電が光った。


 宝剣、英雄殺しの銘を持つその剣が視界の先で、リチャード=パーミリスの腸を裂いている。まるで彼の左腹そのものを切り裂くかの如き様子だった。


 どぼり、どぼりと、嫌な音を立ててリチャード=パーミリスの脇腹から、血の塊が落ちていく。目が、細まった。


「初めてか、爺さんに剣が届いたのは。随分と、遠かった。酷い回り道だ」


 口の中に溢れた血溜まりを吐き出しながら、言う。不思議と、左肩を切り刻まれて尚、身体は動く。四肢から力が抜け出ていくようなことも、無かった。それどころか、むしろより深く生きた心地がするほどだ。


 眼前で、深い皺が刻まれた顔が、歪む。相応の齢を重ねたであろう唇が、ゆっくりと開いた。


「――エルフの、呪い、それに魔の術式か。馬鹿な道を、歩きやがって」


 吐き捨てるように、リチャード=パーミリスは、言った。その言葉が何を指し示しているのか、何てのは流石に分からない。だがある程度察すること位は、出来た。


 普通、人間の身体なんてものは幾ら意志を込めていても、渾身の力を振り絞っていても、その命を脅かすような剛撃を叩き込まれればその場で肉体は硬直する。


 剣を以ての敵を切り裂くのだとそれこそ命を賭けて誓っていたとして、自らの身体に刃が埋め込まれてしまえば、手は痺れ思考も意志も吹き飛び、攻撃なんて出来なくなるのが当然だ。


 事実、本来俺の心臓を抉りぬくはずだったリチャード=パーミリスの一撃も、宝剣の斬撃を腹に受け止めた所為で高々俺の肩を傷つけるに終わっている。


 だと、いうのに。俺は左肩に黒剣の強撃を受けて尚、リチャード=パーミリスへと宝剣を振り切った。振り切ることが、出来た。それどころか今をもって尚、本来力を失うであろう左手は、力強く宝剣の柄を握りしめている。


 明らかに、何かがおかしい。世界の理というやつが酷くずれ込んでいるような、そんな気配があった。


 なるほど、此れがエルフの呪いだ、魔の術式だというのなら、確かにそうなのかも知れない。よもや俺自身、全く身に覚えがないとは言うまいさ。


 眼を固くし、唇から垂れた血の感触を感じながら、身体を無理矢理に動かした。宝剣を、引き抜く。ぐちゃりとした嫌な感触が、手元に広がるのが分かった。同時、リチャード=パーミリスも俺の左肩から黒剣を、取り上げた。


 両者の血が、再び飛び散り大地を汚した。眼前では皺の寄った唇が、歪みながら呻きをあげる。


 周囲は、奇妙な静寂に包まれていた。大聖教兵も紋章教兵も、互いに唾を飲み込みながら眼を瞬かせている様な、そんな気配があった。


「恩がある。楽に死なせてやるさ」


 左肩から血潮を溢れさせたまま、右手で宝剣を振り上げ、言った。


 もう、リチャード=パーミリスには黒剣を振り切るだけの余力はないはずだ。如何に強靭な肉体を保っているとはいえ、彼が老齢であることには違いがない。戦場で剣を振り回すだけでも体力はそぎ落とされるはず。


 それに、腹を裂いた。力を込めれば込めるほどに、身が割れるような痛みが走るはずだ。もう、動くことすら独力では出来まい。ゆえに、その頭を宝剣で叩けば全てが終わる。


 だというのに、その老獪は疲弊した様子など微塵も見せず、せせら笑うようにして、言った。


「カ、ハハ……お前も、あいつも、どうして俺の下に着く奴は馬鹿ばかりなんだ。美学の欠片もありゃしねぇ」


 腹を手で抑えながら、吐き出すように言われたその言葉。一瞬、その言葉が意味する所を考えて、瞼を歪めた。


 次の、瞬間。周囲から失われていた蛮声が、敵本陣より轟きをあげていた。紛れもない、纏まった兵の塊が、突撃を開始する合図。軍という存在の脈動そのものだ。しかもその声は妙に生気に満ち溢れている。新たな兵が、戦場で槍を掲げたに違いない。


 今この時に、新たに産声をあげる兵なんてのは、本軍であるはずがない。

 

 伏兵だ。今この時、大聖教軍を指揮しているのが誰かなんてのは知らないが、その誰かは、伏兵の顔を上げさせることを選択した。恐らくその目的は、リチャード=パーミリスの窮地を救う為。


 しかし、馬鹿な。そんな事が可能だろうか。


 俺とリチャード=パーミリスとの攻防は、それこそ瞬く間だったはず。その状況を瞬時に察知するだけでなく、その場面に対し、伏兵を即時投入できるような判断をくだせる人間がそういるとは思えない。


 目の前の老将軍以外に、そんな風に兵を扱える人物が、いるのだろうか。それを考えると、正直な所ただ偶然伏兵を投入した人間がいた、くらいに思った方がよさそうだが。


 その伏兵の怒声に反応してだろう。俺と、リチャード=パーミリスとの一瞬の攻防に、息を飲んでいた周囲の兵達が時を取り戻す。


 だが、今はまだ将軍を傷つけられた動揺が兵全体に残っている。再びその腰は弱さを取り戻していた。此方は目的を果たした。今なら、本軍と合流する事も出来る。


 黒剣を手にしながらも身を屈めたままの師を前にして、目を細めた。一瞬、思考をぐるりと頭の中で回し、唇を歪めて、言う。


「今回は俺の勝ちでいいかね、爺さん――」


 まるで、かつて酒場で交わしたような口ぶりで、そう語り掛ける。声が妙に戦場の中を通っていったのが、分かった。


「――譲ってやるよクソガキ」


 そう、言って。傷が痛むだろうに、リチャード、いや爺さんは腰元の酒を俺に投げつけた。そいつはどうもと、肩を軽くあげて応え、声を響かせる。


 ――目的は果たした。本軍と合流を行う。生き残るぞ。

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