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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第九章『サーニオ会戦編』
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第二百三十話『大悪』

 兵と、血と、骨の渦の中。一歩前へと進むごと、味方の兵が命をあっさりと落としていく。更に一歩進む、傍らの兵の喉が弾け飛ぶ。もう一歩、前へ。もう一歩前へ。その度に、誰かが死んで行く。此処はそんな最低の地獄だった。


 だから、だろうか。老獪そのものを張り付けたような顔が、此方へと近づいてくる姿を見て、俺は心底胸を撫でおろしていた。


 どうやら俺は間違ってはいなかったようだ。少なくとも、俺の行動は爺さんの思惑の外にあった。


 なにせ、全てがあの爺さんの手の中で回っているというのなら、爺さんは決して表に顔を見せようとはしない。それどころか此方の手の届かない何処かで、顔の皺を深めるだけのはずだ。


 それが今、戦場の前線に姿を見せた。つまりそれは戦場の光景が、あの爺さんの手の中から零れ始めているという証左だ。素晴らしい。


 血で僅かに汚れた視界の中、唇を開く。肺が動転したかのように跳ねたのが、分かった。


「よぉ、爺さん。首は良い酒で洗ったか」


「馬鹿を言え。俺が酒で洗うのは胃の中だけだ」


 馬蹄を鳴らし、大聖教軍の兵を割りながら爺さん――敵将リチャードは姿を現した。灰色の鎧が夕暮れの中、いやによく映えている。


 正直な事を言えば最後まで姿を見せやしないんじゃないかと、そう思っていたが。何とか、引きずりだせた。後は、この壁を超えていくだけだ。軋む脚を僅かに開きながら、目を細める。


「押し通るぞ――リチャード。あんたの薫陶に、何時までも跪いているわけにはいかなくてな」


 そう、何時までも爺さんの教えに縋りついているだけじゃあ、俺は何時までたっても変われやしない。地べたを這いつくばり、誰かを羨んでいることしかできなかった、あの頃から。


 なら、超えねばなるまい。それしか道はもうないのだ。


 宝剣を肩に乗せるように構え、右足を前へと出す。未だ敵は馬上。此方の剣は易々とは届かない。だがそれならそれで、やりようというものがある。


 リチャードは、此処で殺さねばならない。将の首が刎ね飛べば、それだけで兵の士気というものは大きく削がれる。上手くいけば伏兵だってその機能を失うかもしれない。紋章教が勝ち筋を見出すのなら、伏兵は勿論の事、リチャードの心臓を止める必要がある。


 周囲の大聖教兵達が未だ弱腰で槍を構えたままである今この時が、リチャードを殺しきる最大の機会であるはずだ。


 膝に力を籠め、吐息を整える。後ろ足が引きちぎれるような鈍い痛みが、あった。その痛みに声が漏れそうになるのを何とか抑えながら、じぃと目玉を凝らし、飛び掛かる時を、計った。


 リチャードの皺が、影を帯びながら深く、深く刻まれる。その表情はなにか憂いすら孕んでいる様だった。


「もう、道は交わらんか。ルーギス――」


 その、リチャードが漏らした声は何時もの軽い、何処か諧謔味を帯びた声ではない。その荘厳さすら感じる声は、将軍としての、そうして大聖教に任じられた者としての、声なのだろう。俺が初めて聞く声と、口調だった。


 周囲に、張り詰めた空気があるのが分かる。ならばもはや仕方がないと、そう言って、リチャードは言葉を続ける。


「――大罪人ルーギス。大聖堂より任じられし十二代勇者、リチャード=パーミリスの名の下に、貴様を大悪と断ずる。もはや貴様の罪は拭われることすらない」


 リチャードはその重苦しい声を、周囲一帯に響かせて、言った。


「兵よ。正義と、神の教えは我が剣の下にある。恐れることなく悪を討ち、我らが絶対正義を証明せよ!」


 眼が、歪む。不味いな、良い展開じゃあない。むしろ、悪い。


 リチャードの大音声の号令に、大聖教の兵達がその瞳の中、信仰の熱を取り戻してしまった。槍や戦斧を構える手が、先ほどまでのように弱腰ではない。強い意志を帯びている。


 後、一言。リチャードの命令が下れば、間違いなく大聖教の兵共は此方に命を捨ててでも飛び掛かってくることだろう。今彼らが未だその足を地に根付かせているのは、ただ後退を命じられているからというだけ。


 深い、とても深い吐息を一つ、漏らした。今周囲の兵に勢いをもって槍を突き上げられれば、突出した突撃部隊数十名は瞬く間に死ぬ。当然のようにだ。そうして、勿論俺自身も。


 宝剣を握る両手に力を、ぎゅぅと込めた。小さな声で、周囲の兵に語り掛けるように、言う。


「命を預ける。五秒だけ、俺に時間をくれ」


 それは、彼らに死ねといっているようなもの。その身を呈して、時間を稼いでくれといっているようなものだ。何とも身勝手で、自己嫌悪すら生まれそうな言葉。例え今背中から味方に槍を突き刺されても、俺は何ら不思議に思わない。当然のことだとすら思うだろう。


 だけれども、まるで俺の言葉にそのまま飲み込まれたかのように、彼らは、頷いて槍と剣を構えた。誰もかれも、その身に傷や汚れを背負っており、無事なものなど俺を含めて誰もいなかった。


 不思議なものだ。どうしてこうも皆、自分の命を投げ捨てられるのだろうか。俺も含めて、どうにもわけがわからない。


 静かに呼吸を整えた。敵兵が此方に飛び掛かるその直前を、狙う。リチャードの唇が、大きく開いた。


「せめてもの救いだ。此処で人間のまま死ね、ルーギス――全兵、大悪ルーギスの首を取れ」


 兵の、咆哮と蛮声。響き渡る戦場音楽。その中に飛び込むように、脚を跳ねさせた。俺の眼はただただ、己の師、リチャードの姿を捉えていた。



 ◇◆◇◆



 紋章教本陣の大天幕の中、聖女マティアは必至に指先の震えを押し殺しながら、唇を開いた。その眼の先には、もはや疲弊のあまり膝をつきそうになっている伝令兵の姿。


「ご苦労でした。貴方は存分に休息を取りなさい。前線に戻る事は許しません――誰か、彼に水と口に入れるものを」


 そう言いながら、未だ眼に戦場の狂気を宿した少年兵に休息を命じる。放っておけば、その痙攣した手先を抱えたまま、また戦場へと戻っていってしまいそうだったから。


 少年兵と、傍仕えの兵達が大天幕から離れたのを見て、ようやくマティアはその歯を大きく鳴らす。背骨に炎でもねじ込まれたかと思うほどの情動が、マティアの全身を熱している。


 ――ええ、分かっていましたよ。貴方はそういう人ですから。


 少年兵が持ち込んできた情報は、簡単に前線の状況を説明し、そうしてルーギスが今から何をするかという事を、伝えたもの。本当にただ、状況を伝えるだけのもので此方に何を求めるでも、どうしろと言うようなものでもない。それが余計に、マティアの腹の底を燃え立たせる。


 危難の時だというのならば、助けの一つでも請えばいいだろうに。ルーギスの態度は自分で何とかしてみると言わんばかり。少しは、頼ることを覚えたと言ったばかりだろうに。それとも、此れしか取り得る手段がなかったとでもいうのだろうか。


 マティアの胸に浮かんできているのは、腹立たしい、憤慨などという感情ではない。ただただ、口惜しさと自省が唇に滲み出るだけ。


 彼、ルーギスの性質を考えれば、最前線に宛がった時に何が起こりうるかというのはよく理解していた。もし危難の事が起これば、きっと彼は命すらも投げ出してしまうだろう。そんな危険性があることは、当然分かっていた。


 にも拘わらず、彼を前線に置かねばならなかった事実への口惜しさがマティアの眼を歪ませる。もし己が聖女として成熟し、存分に力を振るえていたならば、彼に過大な負担を与えることもなかっただろうに。自分がもっと上手い策を練れていたならば、彼を危険の中に放り込む必要などなかったはずなのに。


 ああ、口惜しい。此れも何もかも、己の力不足が招いたことだ。口惜しいにもほどがある。


 そうして、それ以上にマティアの心臓焼くのは、一つの自省の念。


 ――それに、どうやら私はまだ彼を、甘やかしていたらしい。一人で死地に臨むような勝手を、許してしまうだなんて。


 マティアはルーギスが戦場に向かうにつけて、細かく指示と言いつけをしておいた。特に、決して命を失われる様な行動は取らず、無謀と断じたのであれば兵を退くことすら選択として胸に置いておくこと、というのは何度も言い含めたはず。その眼を見つめ手を取りながら、何度も何度も。


 それでも尚、彼は己との約束を破った。マティアの胸中にはルーギスの安否を案じる焦燥と同時、言いようのない熱が燻ぶっている。それはどうにも、マティア自身にすら処理が出来そうになかった。

 

「――アン。やはり私も戦場へ出ます。馬を此処へ」


 戦場に身を出すべきでないと、散々周囲からの反抗を受け、大天幕の中に身を押し込めていた紋章教の心臓、聖女マティア。


 彼女のよく耳に残る声が、紋章教陣地へと響き渡った。

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