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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第九章『サーニオ会戦編』
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第二百二十六話『二つの決意』

 ――後一度だ、一度だけで良い。魔術を頼めるか。


 その低い声を耳にして、フィアラート=ラ=ボルゴグラードは思わず睫毛を波打たせた。反射的に、彼女の理性が言葉を漏らす。


 無理、不可能、無茶。


 ただの、普通に扱われる魔術であれば問題はない。魔力も十分に持つだろう。だが先ほどからフィアラートが流れ出させている戦場魔術、それに用いるだけの魔力は、身体の何処を探しても残ってはいない。


 心臓がその動悸を早くして、痛みを告げる。否、それどころか臓腑全体が、締め付けられるかのようにじくじくと嗚咽を漏らしている。少しでも気を抜けば、悶絶の声を響かせてしまいそうだ。


 確かな直感があった。魔術師として、魔力を扱うものとしての直感。今休みなく、もう一度戦場魔術を扱えば、内臓や肉体だけでない、此の魂に消しようのない瑕疵が残る。


 己の魂はすでに無傷ではない。ベルフェインにて一度、もはや取り返しのつかない傷痕を残した。そこにもう一度傷をつけるというのは、罅の上を槌で叩き付けるようなもの。


 その結果何が起こりどうなるのかなどというのは、考えるまでもない。ただ砕けるだけ。


 フィアラートの喉を一つの吐息が滑る。瞼を数度だけ、瞬かせた。唇を快活に開く。痛みに呻くような声は決して漏らさぬようにしながら、舌を揺らす。


「ええ、勿論。全力でいいんでしょう?」


 なるべく笑みを浮かべるようにして、言う。前を向いたままのルーギスに、感づかれることはなかっただろうか、声が裏返りはしなかっただろうか。そんな不安だけが胸中には居残っていた。


 今此の状態で、戦場魔術など用いれば絶命は免れない。それこそ魂だって砕け散る。そんな事は、当然に理解していた。


 恐ろしい。死に対する根源的な恐怖がフィアラートの喉を閉める。それどころか魂が砕かれれば、もはや此の世界からもその存在を失われてしまう。ただ死を胸に迎え入れるのとはまるで違う、存在そのものが失われるという恐怖。油断すれば指は震え、魔力は散り、瞳は涙すら零しそうになる。


 だと、いうのに。それでも構わないと、思ってしまった。フィアラートは一瞬、自嘲の笑みすら頬に浮かべる。かつてボルゴグラード家で言われていた通り、やはり私は何処かおかしいのだ、と。


 命は尊い。それこそ金銭、名誉、尊厳、情愛、矜持、それら全てよりも遥かに重いもののはずだ。それを今、己は投げ出そうとしてしまっている。彼の為に。


 端からみれば、気を逸したものの行動に違いない。馬鹿らしい生き方だと嘲弄すらされるかもしれなかった。それほどに此の感情がおかしなものだと、自覚している。けれども、それでもそんな愚かな決断をしてしまうのは。


 ――簡単な、ことだ。彼は、ルーギスは己の憧れなのだ。


 己と同じ才を持たぬ鉛の身でありながら、黄金の煌きを見せてくれた。何もない己に対し、手を差し伸べてくれた。そして、己を頼りにしてくれた。


 ああ、ただそれだけだ。それだけの事が、どれほど私の胸を焼き焦がしたか。他の誰にもわかるまい。分からせてなるものか。此の感情だけは、私だけのものだ。例え彼に生涯、追いつくことが出来なかったとしても、この感情と想いだけは捨てさせない。


 それに、だ。此処で、彼の勝利の礎となって命を落としたのならば。ルーギスは、何だかんだと理由をつけながらも、きっと私を覚えていてくれるだろう。彼の人生に傷をつけることができるのならば、それはそれで、大いに素晴らしい選択だ。


 戦場の熱に浮かされたのか、それとも情愛の火照りに動かされたのか。そんな事は分からない。だがその決断は、紛れもなくフィアラート=ラ=ボルゴグラードが己の胸で下した決断だった。瞳からは涙が零れようとしている、それが何の感情を持つのか、彼女にも分からなかった。


 ルーギスの唇から声が、漏れた。


「結構。なら、矢払いの魔術だけ自分にかけて、本陣の支援に向かってくれ。馬は貸してやる」


 その言葉を聞いて、思わずフィアラートは唇を――おおいに歪めた。自分の身体から与えられる痛みが原因でなく、眉間に皺が寄る。


 唇が自然と開かれた。


「絶対に嫌だけど。私を使い勝手の良い使い魔か何かと、勘違いしてないかしら」


 己の唇から漏れ出た声が酷く剣呑なものになったのを、フィアラートは理解していた。それは自分の中に生まれていた一つの決意というやつが、ルーギスの手であっさりと取り払われた事に対する反感であり。同時に、また彼の悪癖が顔を出したのだと、理解した為だった。


 絶対に、彼は何か危ういことをしようとしている。フィアラートの目の前でルーギスの背中が僅かに、揺れ動いた。


「何、敵本陣に向けて最期の突撃に入る。そんな時にお前を後ろに乗せておけんだろう、危ないしな。それに……お前もう限界だろ、フィアラート」


 声を聴いて分かったと、そう言うルーギスの言葉に思わずフィアラートは顔を固くする。そんなに、身体が限界を迎えていることを、声に出してしまっていたのだろうかと、唇を反射的に閉じてしまった。


 己がついていくことが、彼の危険につながるのだと。そう、言われてしまうと。反論が出来なくなる。確かに、もはや戦場魔術が用いれぬ己が馬の後ろに乗っていた所で、ただ重荷になるだけ。それはよく理解している。しかし、


「でも、それなら貴方が馬に乗っていけばいいでしょう」


 己に馬を貸す必要などないはずではないか。きっと、何か危ういことをするに違いない。だから私を遠ざけようとしているのだ。フィアラートはそんな懸念を声に含ませて、言う。


「敵本陣に入ろうもんなら、馬にのってる指揮官が狙い撃ちにされる。敵も必死だ。なら徒歩の方がまだ生きやすいさ。俺も死にたいわけじゃあないからよ」


 そういって、ルーギスは馬を降りてしまう。思わずその背を掴もうとフィアラートは指を伸ばしたが、背を掴むほどの力も、今の彼女には残っていない。


 駄目だ。此処で行かせてしまっては駄目に決まっている。ルーギスがこんな事を言い出す時は、決まって良くないことを行う時なのだ。


 止めるべきだと、フィアラートの魂が語り掛ける。本能が、指を伸ばしてその背を追ってしまう。


「――安心しろよ、不安ならそこで見てな、フィアラート。英雄にはその姿を見て、後で語ってくれる人間が必要だからな」


 その伸ばした手を、取って、頬を崩しながらそう言った彼。それ、だけで。喉が声を殺してしまった。胸が締め付けられたかのように動悸を強め、頬を熱くする。


 ルーギスの言葉に込められているものが、何であるのかを、フィアラートは理解してしまった。今己の手に触れている彼の指が、もはや震え一つないことが分かってしまった。


 駄目、なのに。分かっているのに。きっと自分は後悔する。此処で彼の言葉を受け入れたことを後悔するに決まっているのに。


 此れが、カリアであれば即断で拒絶したに違いない。此れがマティアであれば、檄を飛ばしたに違いない。


 だがフィアラートは黒い眼を潤ませたまま、言った。


「ルーギス。逃げても、いいのよ。英雄になんてならなくても、いいの。そんな、貴方ばかりが何もかも背負わなくたって、私は一緒にいるから」


 本当に、ルーギスにだけ聞こえる声で、そう呟いた。ルーギスは、一瞬その眼を見開いて、少しばかり唇を崩しながら応える。


「ありがとよ、最高の一言だフィアラート。何、すぐ帰ってくるさ。それこそ一息もしないほどにな」

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ルーギス最高だ…格好良すぎるぜ…
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