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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第九章『サーニオ会戦編』
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第二百二十四話『軍靴は止まず』

「酷い有様ですね。ボルヴァート朝の魔術師か、もしくは伝承に聞くエルフの呪いでしょうか」


 リチャードは灰色の鎧に老骨を忍ばせながら、副官ネイマールの言った言葉に眉を顰めて返す。その眼が形を歪めながら、戦場を見渡した。


 視界の先はネイマールの言葉の通り、酷い有様だ。此方は曲がりなりにも訓練を受けた兵、紋章教の兵は素人に過ぎないというのに、前線はほぼ拮抗していた。左右翼の前進が遅滞しているのは想定の内だが、中央部に関しては思わず閉口する。


 それもこれも、あの大魔術が要因だ。大規模な旋風を突如巻き起こしてみせたり、濁流を戦場に落とし込んだりと、余りに規格から外れている。あんなものを間近で見せられれば、兵の足は竦んで当然だ。


 ルーギスとのやり取りで、紋章教に魔術を扱う人間がいるらしきことは分かっていた。だから、魔に惑わされある程度兵が崩れるかもしれぬことは予期していたものの、此れは想定以上だ。


 弓矢を払う程度であればともかく、あそこまで大規模に戦場を揺るがす魔術を用いれる人間は聞いた覚えがない。それとも己が知らぬだけで、魔術の大家ボルヴァート朝には、ああいった人間がそこらを歩き回っているのだろうか。そんな想像を脳裏に浮かべ、リチャードは唇を歪めるようにして笑った。


 ぞっとしない話だ。もしそんな事が有り得るならば、ガーライスト王国はすでにボルヴァート朝に滅ばされていることだろう。魔術だけでは純粋な国力と兵数を上回れぬからこそ、ボルヴァート朝は未だ東方の雄に収まっているのだ。


 ならば、やはりあの大魔術は所詮個人の膨大な力量に依ったもの。そんな人間、多くて二人、恐らくは一人。リチャードの乾いた爪先に力が込められた。


「余り兵の事をいうなよ、ネイマール。兵の醜態は将の醜態――おう、頃合いだ。順に中央の兵は退かせろ。無様で構わんが、極力尻を向けて逃げ出すような事はさせるな」


 あの大魔術、もはや数度も放てまいと、リチャードは目を細ませる。後精々一度か二度、もしくはもう放てなくなっているかもしれない。


 幾ら脅威であろうと、所詮は人が扱うもの。ならばそう恐れすぎるものではない。上手く兵を入れ替えつつ攻め立ててやれば、噛みつかれている前衛ですら逆襲が可能だろう。


 だが、悲しいかな。流石に新兵にそこまでの運用を求めるのは酷が過ぎる。退きつつ、一部の兵を入れ替えて戦い続けるなんてことは新兵にとって夢物語に近い運用だ。故に取れる手段は二つ、前に進ませるか、退かせるかといった程度。


 僅かとはいえ崩れた兵を前へ前へと進ませれば、本格的に敵に全てを呑み込まれかねない。一部の解れから、全軍が崩壊するなんて事は珍しくもないことだ。


 ならば、こちらが考えた通りに崩させてやるほうが、ずっと良い。


「しかし俺も下手だねぇ、ルーギスの野郎に偉そうな事いえねぇな、こりゃあ」


 此れでも昔は、部下や仲間の命を落とさせず、それでいて勝利を得る、それが誇りだった。それが今では兵を殺しておいて自分は高みの見物と来ている。良いご身分になったものだ。リチャードは皮肉げに言葉を漏らし、馬に乗る前に、酒を唇へ含ませた。


 此れから散々に喉を涸らさねばならない、最後に少しくらい喉を潤しても構わないだろう。


「大隊長……敵は、来るでしょうか」


 先に馬の手綱を引いていたネイマールが懸念する、というよりただ不安に駆られて言葉を漏らした。ネイマールの歯は、上手く重なっていない。がちりと、歯がずれる音がリチャードにすら聞こえてきそうだった。  


 リチャードは来るさと、軽くネイマールに応えた。


 彼女、ネイマール=グロリアはリチャードが思うに、その性根が生真面目すぎるきらいがあった。失敗を恐れ、物事を真面目に捉えすぎる。実に、地方貴族らしい性分といえばその通りだ。なるほど政界にはまるで向かないことだろう。余りに固すぎる。


 しかし、その固さに応じるように、彼女は粘りをも有していた。異物に遭遇しても容易く折れはしない、そして例え折れたとして、それでも矜持を失いはしない粘り強さ。その素材に経験を混ぜ込んでやれば、指揮官として目覚ましい成長を遂げるかもしれないと、リチャードは思う。兵というものは強く、それでいて動揺しない指揮官をこそ愛するものだ。ネイマール=グロリアという人間には、その素養が十分に備わっている。


 後は、どれだけのものを学べるか。ただそれだけだ。まぁその教師役が己のような悪辣だというのだから、彼女も不幸なものだ。リチャードは何処か諧謔染みた笑みを浮かべ、馬に腰を落とす。


「敵は、必ず来る。もしかすると、前線の一人か二人、そうだなルーギスの野郎辺りは感づくかもしれんが」


 幾ら魔術に煽られ前線が崩れ去ったとはいえ、此方の数は紋章教の倍以上。その数差だけで兵というものは精神的な安定を得るものだ。例え敵の正体が知れなくても、まだ後ろに味方はいるのだという心理が、心臓を奮い立たせてくれる。


 だというのに、その兵が軽快な足取りで次から次へと後退していけば、如何にも不自然極まりない。左右翼は耐えしのいだまま、中央部だけずるりずるりと引き下がっていく様は異様だろう。


 果たして戦場で、そう事が上手く運ぶだろうか。きっと、あの教え子は考えるだろう。後ろ向きなあいつのこと、そういう感性は鋭いはずだ。


 リチャードは、歯を見せて言う。


「それでも尚、止まらないし、止まれねぇんだ。聞けよ、この蛮声の響きを。見ろ、あの密集した兵の塊を」


 紋章教は、数で劣るがゆえ各個撃破される事を何より恐れている。兵が散らばり、その結果多数の敵兵に皆殺しにされるなどというのは馬鹿らしいにもほどがある。それは正常な思考だ。だからこそ、彼らは密集陣形を敷いた。


 兵を可能な限り固まらせ、その上で敵とぶつかり合わせる。数の優位が大聖教にある以上、固まらせたところでいずれは崩れ去るだろうが、幾分か時間は稼げる。少なくともすぐさま崩壊するということはない。その稼いだ時間で、前衛の突出した部隊が敵本陣を突く。考えとしてはそんな所だろう。ある意味で理に適った戦術ではある。


 だが、その戦術には当然に不利な点も存在する。


 密集すればするほどに、兵の視界は塞がり、耳は蛮声に潰され、何時しか前に進む以外の事が出来なくなる。しかも、敵の前衛が退いているなら尚更だ。


 恐らく、最前線にて突出した部隊の中にはルーギスの奴がいるはずだ。それで、此方の思惑に気付いたとして、兵を退かせることができるだろうか。


 出来るわけがない。


 後ろには、前へ前へと迫りくる味方の兵がいるのだ。そんな中に、後退の命令なぞ届き切るはずがない。なにせ下手に足を止めれば味方に踏み潰される。例え誘い込まれていると分かっていても、もはや退くことは敵わない。


 軽装かつ、最初からある程度後退を想定させて陣を組んでいた大聖教とは状況がまるで違う。


「いいか、ネイマール。戦場を手で捏ねるってぇのはな、敵にさも自分の意志で行動していると思わせながら、最後にはてめぇの思惑通りに動かして見せる、ただそれだけだ。それが出来れば十分さ」


 リチャードが今までに見せたことのないような表情を見せて、言った。ネイマールは思わず己の上官の顔を見つめ直し、そして息を呑む。何処だったか、このような表情を何処かで見た覚えがネイマールにはあったが、それがどうにも今は思い出せなかった。


 大聖教軍中央の兵がゆっくり、ゆっくりと、時に崩れながら後退を続けていく。その姿に魅了されたかの如く、紋章教の兵は突撃を繰り返した。


 蛮声が鳴り響く、兵の足音が中空を揺らす。誰もそれを止めぬし、止められなかった。空の頂点にあったはずの太陽が、その身を僅かに傾けている。

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