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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第九章『サーニオ会戦編』
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第二百二十二話『副官が見るもの』

 大聖教軍、指揮官天幕内に副官ネイマールの声が漏れる。その声は平静を保とうとしているものの、やはり何処か焦燥のようなものが含まれていた。


「大隊長、敵正面に据えていたフィロス都市兵が崩壊寸前と報告が入りました。もう間もなく我が軍と交戦に入るものと思われます」


 淡々とした報告を心掛けてはいたが、どこか自分の唇の端が震えているのが、ネイマールには分かった。何せ夜盗や小規模な反乱の鎮圧ならともかく、戦場らしい戦場など、これが初めてのことだ。心を崩すまいと思ってはいても、どうしても身体は竦みを覚えてしまう。


 情けない。普段はああも部下に動揺して冷静さを失うなと言い聞かせているというのに。ネイマールの眉が僅かに細まる。


 老将リチャードは、ネイマールの報告を聞いて軽く頷き、言う。


「思ったより早いが、まぁ良い。弓兵に準備をさせとけ、フィロスが崩れた瞬間、突出してくる馬鹿を狙う」


 多少フィロス兵を巻き込んでもそれはそれで構わないと、リチャードは言う。


 ネイマールは軽く眉を顰めさせながら、それでも尚顎を引いて頷いた。此の老将に反論しようとしても、己の弁舌では未だ敵わないことは、此処数日でよく理解していた。経験も知識も、己にはまるで足りない。


 そんなネイマールを見てだろうか、リチャードの皺が刻み込まれた頬がくしゃりと歪んだ。


「ネイマール。不服や懐疑があるなら口に出せ。しまい込んでなかったことにするのは小利口だが、賢くはならねぇからな」


 それに今なら少しは時間があると、灰色の具足を身につけながらリチャードは言った。


 胸中を見透かされたような言葉に、思わずネイマールの唇が怯む。正直な所、この老将の命令でわけの分からぬ所は幾らでもあった。それら全て伺ってしまうというのも、考え無しの馬鹿がする事だ。


 ネイマールは指をもぞつかせ、思考を頭の中でかき回しながら、口を開く。


「……では、一つだけ。内通者ロゾーを、どうしてあのように使ったのでしょう?」


 ロゾー。家名まで知ることはなかったが、大聖教が抱き込んだ内通者の名がそれだった。軽薄で舌が立つだけの男だが、フィロス民会に顔がきき、扇動者の才を持つ男。


 それに、彼は腰の軽い男だが、頭は悪くなかった。フィロスの立ち位置を熟知しており、大聖教に抱き込まれる方が得策だと理解していたのだろう。金とある程度の地位を約束する事で、易々と内通者の肩書を持った。彼は此方の言う事であれば、何処までも聞き入れるだろう。


 であるからこそ、リチャードが彼に与えた指示がネイマールには不可解だった。


 ――統治者フィロス=トレイトの言に反駁し、彼女を孤立させる事。


 何とも、不思議で不可解な指示だ。フィロス=トレイトは、その内心はともかくとして、此方が何をしなくとも大聖教への協力を申し出ただろう。であればこそ、ロゾーにも彼女へ協力させれば、より多くのフィロス兵を此の会戦へと注ぎ込めたはずだ。


 だというのに、どうしてフィロス=トレイトへの不審を掲げさせ、態々出兵できる都市兵の数を減らしたのか、その部分がどうにも分からない。勿論、フィロスの都市兵を用いる気はなかっただとか、方針の転換があったという可能性もあるが。


 ネイマールの言葉を聞いてリチャードは、それか、と軽く声を漏らし顎下の髭を撫でた。どう説明したものかと言葉を練っている様だった。


 数瞬の後、全てを話すと長くなるんだがな、とそう前置きしてからリチャードは唇を開く。


「そもそもロゾーの野郎は、別にフィロスを大聖教に巻き取る為のものじゃなくてな。まぁ、精々紋章教につかれるのを防げればそれで良かった」


 どうせ紋章教からも金を貰ってやがっただろうしなと、リチャードは続けた。


「それに、フィロス=トレイトの嬢ちゃんが例え民会の反発を買ってでも、派兵を決定できる人間だろうことは分かってた。あれは、そういう政治判断が出来る血筋の人間だからな。フィロスの都市兵も、最低限いれば十分。いやむしろそちらの方が良かった」

 

 リチャードが放つ言葉をゆっくりと咀嚼しながら、ネイマールは瞼を固める。渡された言葉が、どう結びつくのかを考えていた。


 つまりロゾーを内通者として利用したのは、別に此の会戦が為でなく他の目的の為という事だろうか。そうして例えその為にロゾーを活動させようが、フィロスの都市兵が最低限動員される事は予見していた、と。


 ネイマールの眉が、顰められる。何だろう、奇妙な違和感があった。ロゾーを別の目的があって抱き込んでいたのは、まぁいい。だが話を聞いているとどうにも、紋章教との会戦よりも、そちらの目的の方を重視させているような、気が。


「では、大隊長。その、もう一つの目的というのは」


 ネイマールの素直な疑問が、天幕の中に響く。大した頓着もなく唇から飛び出た言葉だったが、リチャードが一瞬唇を歪めていたのがネイマールには見えた。どうにも、少し楽し気に。


「何だと思う?」


 顎を軽く引きながら、やはり此の老人は嫌いだとネイマールは頬をひくつかせた。


 聞いてよいというから声を発したというのに、其処からまるでこちらを推し量るかの様に言葉を返してくる。本当に、リチャードなる人間と己とは根本的な部分で反りが合う事がないのだろうと、ネイマールは眼を細めた。


 統治者フィロス=トレイトを孤立させる目的。単純に考えれば、彼女の行動を縛り付ける為だろうか。考えを飛躍させれば、彼女を統治者の座から引きずり下ろす為というのもある。


 普通に考えれば領主が領民に反駁を受けた程度でどうにかなる、なんて事は有り得ないことだが。あのフィロスという都市は普通ではない。民会なぞというわけのわからない非文明的な機構が存在している都市だ。となると、そういう考え方も有りなのだろうか。


 その旨を掻い摘んでリチャードに返答すると、彼は大仰に頷いて、言った。


「よく分かってるじゃあねぇか。そう、その通り。ロゾーの奴に指示した事と、俺のもう一つの目的ってぇのはな」


 老人のしわがれた声が天幕に響き渡る。それは酷く冷たいもので、首筋に氷でも押し付けられたかのような感触が、ネイマールにはあった。


 ――フィロス=トレイトを始末させる事でな。どうにも、奴の血筋が此処に居座り続けるとよろしくないと、判断された方がいる。


 その判断をくだしたのが誰かとは、リチャードは言わなかった。言葉に出すべきものではないと、そういう事なのだろう。


 貴族の血筋問題。もしくは家督の継承紛争。それ自体はよくあることであり、家内の問題を未然に防ぐため、継承者以外の血筋を抑え込んでおくというのも、無い話ではない。

 

 そういえばフィロス=トレイトは養子であったという情報は、ネイマールの耳にも入ってきていた。では、彼女が何らかの継承紛争に関与することを防ぐため、会戦の傍ら老将軍はロゾーを用いていた、とそういう事か。


 ――そんな事が、本当にあるのか?


 言っては何だが、この会戦は、そのような片手間で行われるほど重要度の低いものではない。教皇猊下直々の言葉があって行われているもの。つまり大聖教の神が望まれているのに等しい事だ。


 それよりも、更に重要度が高い血筋などというのは、もはや。


 ネイマールは眦を下げ、心に浮かび上がった一つの選択肢を、無理矢理沈め込めた。その浮かび上がった選択肢が息吹をあげようとするのを、必死に押し殺し、両手で絞め殺そうとしていた。考えてはいけない。今考えた所で結論が出るものでもないし、むしろ己の上官が言わなかった意味を察するべきだ。


 ネイマールが表情を固めたのを見て、何かを理解したのかもしれない。リチャードは己のマントを肩に担ぎ、立ち上がって言う。


「ま。今は考えるな。種は撒いた。後は、紋章教の奴らを噛み潰してからで良い」


 天幕の外が、にわかに騒がしさを増していた。恐らくは、もう大聖教軍と、紋章教軍とがその牙をかみ合わせ始めたのだろう。ネイマールも、固まらせた表情を整え唇を閉めた。


 リチャードは具足を鳴らしながら、天幕の外へと足を進める。


「ネイマール、よく見とけよ。敵が少数なのは恰好がつかんが、戦場を手で捏ねる方法ってのを教えてやる」


 本当は奴に叩き込んでやるつもりだったんだがなと、そう続けるリチャードの声は、彼には珍しいほどに真面な声だった。何時ものからかったような、何処か軽薄さを帯びるそんな声では、なかった。


 思わず、ネイマールの瞼が瞬き、背筋に緊張が這う。


「いいな、よく見ておけ」


 それだけを告げて、リチャードは黒色の剣を腰に携え、戦場へと足を伸ばす。


 フィロス都市兵が演じた前哨戦は終わりを告げた。大聖教軍と紋章教とが、互いに直接牙を立て合う時が、すぐ間近に迫っていることを、ネイマールの肌が感じていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 悪辣が服着て歩いてる存在でも人だからもしあの時かつての弟子が手を取ってたら本当に教えてたのかな
[一言] めっちゃ面白いのにネイマールって名前が出てくる度にブラジル代表FWの顔が頭に出てきて笑う。
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