第二百二十話『手に握るは覚悟の柄』
紫電の如き煌きが、戦場に一本の線を描く。その線が敵兵の首を嫌な音とともにへし折り、眼を白剥かせた。
それと同時に右腕が軋む音が、鳴る。無理やりの躍動がゆえだろうか、筋の数本が千切れた感触があった。
それでもなお呼吸を置かぬまま、返すように刃を立てる。幾ら刃を振りあげても、斬り落とす敵に困ることはなかった。まるで押し寄せる波を相手にするかの如く、敵兵は蛮声をあげて此方に駆けてくる。
勘弁してほしい。俺には贅沢すぎるほどの歓待ぶりだ。
一瞬吐息をもらしながら、再び紫を走らせる。刃を受けた鉄の兜が頂点から割け、轟音を響かせて、割れる。
身体は奇怪なほどに好調だった。剣を振るう腕はまるで己のものとは思えぬほど繊細な軌道を描き、そして力強い。それこそかつての頃であれば振るえなかったであろう一閃が、腕を振るう度眼前に刻まれていく。
どういう事か、此れは。高揚が、心臓を力強く打っていく。目の前の事が果たして本当に俺の成し得ている事なのかと、懐疑すら覚えるほどだ。
何といえば良いのか。今までどう足掻こうと成し得なかった事に指が、掛かったような。そんな感覚が確かにあった。心臓が再び強く、鳴る。
だが、それでも敵陣は未だ遠い。
馬の手綱を引き締めながら、前方を見やる。未だ敵の本陣は見えず、ただ敵が群れをなすばかり。敵兵が重なりつつも槍を構えこちらの様子をうかがっているのは、突撃の切れ間を探っているのだろう。
勢いよく剣を振るった後の隙間、突撃を繰り返し、僅かに馬が蹄を止めた切れ間。それはどんな人間にも必ず訪れるものだ。その隙に槍で肉を抉らんと、敵兵は盾と槍を構え此方の様子をうかがっている。
余り良い状況じゃあ、ないな。
どれほど好調であろうとも動き続ければ、当然に息が切れる、内臓は締め付けられたかのように痛みを訴えている所だった。馬に乗っているとはいえ、戦場を駆けるというのはそれだけで体力と精神力を摩耗していく。敵兵が堪え切れなくなるまで突撃を繰り返し続けるなんてのは到底無理な話だ。
それこそカリアのような全身が肝で出来たような人間でもなければ当然に。あれは紛れもなく別格だ。
だから、本来は周囲からの補助が得られるよう、小部隊での突出なんてのはすべきじゃあないのだろう。
「落ちてないだろうな、フィアラート」
視界の端で揺れる黒髪を見ながら、そう言った。微笑を零したような声が、背後から聞こえてくる。どうやら、無事であったらしい。吐息が、漏れる。
「勿論。何よ、私のことをそんなに面倒がかかる女だと思っていたのかしら」
言葉は不満げだったが、声はそうでもない。フィアラートなりの冗句なのだろう。それが、合図だった。
俺の肩を抱くようにして、フィアラートの手が伸びる。その指先は紛れもない、魔力の色を帯びていた。凝縮された魔力の塊が波打つこともなく、ただフィアラートの手に鎮座している。膨れ上がる前の一瞬の静寂が、其処にあった。
周囲の敵兵の、息を呑む音が聞こえた。此方に駆け込んできていたはずの足がたたらを踏む。その少女のか細い指先が、脅威に見えでもしたのだろうか。
フィアラートの静かな声が、戦場を揺蕩わせた。
「――天蓋は、此処に――崩れ去った」
言葉と同時に指先が、振るわれた。
瞬間。世界が、捻じ曲がる。有り得ぬほどの暴風が、忽然とそこに表れたかの様に戦場を駆け抜けていく。木々を跳ね飛ばし、人を飲み込み、鳥をも地に叩き伏せるその暴風。明確な自然の暴威が、そこにあった。
だがその暴威は不思議な事に、味方には一切立ち寄る気配を見せず、敵兵のみをそのまま飲み込んでいく。重装備を着込んだはずの人間が、紙のように弾き飛ばされ、中空に投げ出される。落下すればそれだけで絶命は免れ得ないだろうし、上手く敵兵に当たってくれれば儲けものだ。
かつて見た頃から変わりない脅威、まさしく戦場魔術といった所だろうか。その仕組みは俺も良く分からないが。昔少しばかり、世界の境界線を捻じ曲げて、何処か他の場所と繋いでいるのだと聞いたような覚えがある。
正直そんな馬鹿らしいことがと思っていたが、間近で見せられるとどうにも信じざるを得なくなってくる。
どう考えても、本来少しばかり身の助けを行うだけの魔術とはものが違った。
「敵を全部、此れでなぎ倒してくれれば楽なんだがねぇ」
その余りの光景に、苦笑を滲ませて、言う。俺が懸命に剣を奮って敵兵の首を数個落とす事など、この魔術を見ると無意味にすら思えてきた。
その言葉が聞こえたのだろうか。俺の背中に身体を預けながら、フィアラートが言った。
「無理よ、無理。そんな真似、魔力も、そして体力も持たないわ。だから――ん、少し休ませて」
「おう、存分にお休みになさってくださいな」
より深く、体重が俺の背中へと掛けられる。フィアラートの細い腕が、俺の腹部へと巻きつけられた。その声は、随分と息切れしているように感じる。
最初突撃を行う際、そして今。二度の魔術行使で随分と体力を浪費したらしい。それも仕方があるまい、戦場規模の魔術など、本来魔術の領域を超えている。それこそかつての頃でも、このような魔術を行使できる人間なぞフィアラートの他に聞いた覚えがない。
体力の限界を考えると、フィアラートを頼りに出来るのも後数度と言った所だろう。無駄な真似はさせられない。
なら精々、お姫様がお休みの間に、俺は駒を前へと進めておくとしよう。
フィアラートの魔術を前にして、敵の重装歩兵はもはや恐慌すら起こしかけている。被害を受けたのは精々数部隊でも、戦友がなす術もなく中空に投げ出され、そして強かに地面へとたたきつけられるその光景は、目に焼き付いたはずだ。
すぅと、大きく息を、吸った。宝剣を天に翳し、陽光を煌かせる。
「敵は崩れた、好機は今此処、此の時だ。勝鬨を忘れるなよ――突、撃ィッ!」
大声を、戦場に震わせる。部隊の兵が、呼応するように蛮声を響かせて敵兵へと雪崩を打って飛び掛かっていった。
我ながら何とも柄じゃあない。人を率いる言葉など、人を死地に追い込む言葉など。
それでも、尚。此れが必要だというのなら、誰が為に剣を振るわねばならぬというのなら、俺は自ら柄を握ろう。誰に咎を負わせるでもなく、柄を握る資格がないと己を嘲るのでもなく。
何せ俺は其の立ち姿にこそ――何よりも心を焦がしていたはずなのだから。
部隊の兵を率いながら、フィロス都市兵団の深くへと切り込む。もはや盾と槍を持っただけの木偶に成り下がった彼ら。フィアラートの魔術を前にしては、戦う意志も大いに挫けたことだろう。戦意を持ってこちらに掛かってくる兵は僅かだ。
そうして、一度挫けた意志という奴は、同じ戦場の中で都合よく立ち直るなんてことは、ない。後一つなにか切っ掛けがあれば、フィロスの都市兵は悉くが逃げ去るだろう。
眼を揺らし、周囲を見渡す。何処に、いる。隊長格の人間は、何処に。戦場の混乱の中視界を必死に動かしていく。今、敵兵は混乱している。しかし味方とて突撃を行った際に二、三名は死んだ。軽微な被害とも言えるが、ただでさえ小部隊を率いている、此の儘同じように突撃を繰り返していてはとても持つまい。
幾度も躍動を繰り返していた眼が、ある地点を見た際に、見開かれる。
――いた、あれだ。あの鳥の尾羽がついた兜。
その兜を被った者の周辺は、他よりも兵の統率が取れている。指揮官の声が届いている証拠だ。
認識したと同時、馬を駆けさせる。フィアラートと俺の二人を乗せた馬の駆け足は、俊足とはとても言えない。それでも、混乱した兵をまとめ上げる為、馬の足を止めてしまったあの隊長殿に迫るには、十分だ。
場に飛び込むように、馬から身を乗り出す。紫電の煌きが、宙を薙いだ。