第二百十七話『槍持つ手に信仰を』
ゴッ、ゴッ、と、軍という人の群体が動き出す時特有の足音が、サーニオ平野の空気を揺らす。その地響きとも思えそうな音は、平野の西側、大聖教陣地から響き渡ってきていた。
「あの白帽子を被った奴らか、フィロスの都市兵様ってのはよ」
目を細め、遠くを見やるようにして、言う。サーニオ平野の彼方に兵の群れが見えていた。一歩、また一歩とゆっくりとではあるが着実に、此方に向かってきているのが分かる。
フィロス兵の盾と槍を構えて陣形を組むその姿は、軽装を主とする大聖教軍の兵装とは異なったもの。重装歩兵というやつだろう。恐らくは、突撃を繰り返す兵に対抗し、都市を守るために選び取った姿が、あれなのだろう。
自治都市フィロスの都市兵力、数は目算でおおよそ千弱と言った所だろうか。それが今大聖教軍の槍となって、此方へと突き付けられている。そうしてその後ろには大聖教の、雲霞の如き二万の軍勢。
何とも、俺のような精々数百同士がぶつかり合うような戦ばかり経験してきた人間にとっては、見つめているだけで眩暈を起こしそうな姿だ。地平の彼方にまでも兵というやつが続いているんじゃあないかと思ってしまう。
思わず小声で嘆くように言葉を漏らすと、傍らでカリアが馬の手綱を引きながら、言う。
「風見鶏フィロスの連中が、我らと奴ら、どちらに巻かれるかなぞ自明だっただろうに。落胆するほどの事でもない」
どうしてこいつは、こうも平時通りに言葉を漏らせるのだろうと、感心すら覚える。思わず、唇を固くしてカリアの方を振り返る。
銀眼が、馬上で煌々と光を輝かせていた。まるで此れから起こるであろうことを、待ち望んでいるかのようだ。
流石、戦場慣れしている、という奴だろうか。騎士殿はそういう面でいえば他の連中とは格が違う。今回の戦役でも大いに頼りにさせてもらおう。
カリアの語る事は、的を射ている。自治都市フィロスは、風見鶏と揶揄されるほどに今まで強者に縋りつき自治を勝ち取ってきた都市だ。それが今になって、急に風向きを変えることがあるものか。竜と蜥蜴がいれば、当然に竜に味方するだろうさ。
勿論、マティアもある程度の手は打っていたのだろう。だがそれでも、やはり純粋な力には敵い難い。恐らくは紋章教においても大部分の人間は、此の未来、フィロス兵が大聖教に加担する光景を瞼に浮かべていた事だろう。
その浮かべていた予測が、ただ現実のものになっただけ、悪夢がそのまま地面に降り去ってきただけだ。
――それでも尚、やるしかないのだ。足掻いて手を伸ばすしか、ないのだ。
指で手綱を引き締め、馬首を返しながら思考を巡らせる。あの軍勢に向かってどう対抗するか、それは此処数日の間、いやそれこそ此の戦場に至るまでの間幾度も自らに問いかけたもの。そうして、未だ明確な答えを出す事の出来ぬ問い。
道筋は幾重も頭に浮かべた、これぞという考えも思いつきはした。けれども、それが本当に上手くいくものであるのか、数の差という膨大な雪崩に飲み込まれてしまう程度の謀り事に過ぎないのではないかと問われると、どうにも結論は出そうにない。
此の大規模な戦役ではそれこそ全てが、俺にとっても、マティアにとっても、そうして紋章教にとっても、初めての事ばかり。
奇襲をかけるにしろ、あの大軍勢の腹を少し突いてやった程度で、意味はあるのだろうか。ただ弾き飛ばされ、無駄に兵を費やすだけではないのか。
そうならぬように奇襲の兵を増やせば気づかれる可能性が高まり、そうして逆に本隊の兵が少なくもなる。
暗闇の中で手をもがかせているような感覚とでも言えばいいのか。手を伸ばしてはいるものの、何が良い結果を齎し、何が意味を成すのか。それがまるで分かりはしない。経験則すら、物の役に立つとはとても思えないのだ。
あの大軍勢は、もう半日もあれば紋章教の陣地を眼下に臨むことだろう。もう、悩んでいる時間はない。
「カリア。勝てそうか、俺達は」
フィロス都市兵と大聖教の連合軍から眼を背けるように馬を嘶かせ、紋章教陣地に向かって馬の脚を駆けさせる。その問いかけは何とも、意味がないものだった。ただ安寧を得たいが為に問いかけたような、不様な問いかけだ。
カリアはおかしそうに唇をつりあげながら、俺の胸中を見透かしたように、言う。
「貴様が勝てというのなら、私は力を尽くしてやろう。言えるのはそれだけだな」
そりゃあ何よりだと、吐息を漏らしながら笑みを浮かべる。もう、陣地ではマティアや将官達が兵を並べ終えている頃合いだろう。
最後にふと、後ろを振り返る。
ゴッ、ゴッ、という戦場の足音が、ゆっくりと此方に向け近づいてきているのが、分かった。
◇◆◇◆
将官、そうして主だった隊長格の人間を集め、聖女マティアが固くなった声を響かせる。
「フィロスへの書状は此方に返らぬまま、そうして内部の協力者からも連絡はありませんか」
マティアの眼、その下には深い隈が姿を見せている。それを見て取るだけで恐らくは眠っている暇すらそうないのだという事がよく、分かった。
マティアは本来そのような姿を見せる事を好まない。皆を導くもの、組織の上に立つ者が疲弊した姿を見せる事は、それだけ組織の底を見せる事になってしまう。
そんな姿、見せたいものであるはずがない。それでも、この時ばかりはそうならざるを得なかった。だから今、兵達の士気を下げぬ為マティアは将官と隊長格の人間にのみ、言葉を掛けている。
自治都市フィロスが、大聖教軍の鐙へと腰を座らせた。その光景をマティアは予測していなかったなどと、口が裂けても言えるはずがない。むしろ最も可能性が高い未来であったと言えるだろう。そうして、同時に最悪の未来でもある。
ゆえに、それを避け得る為、マティアは取り得る手段はとったつもりだった。フィロスの都市に内通者を送り込み、せめて大聖教に協力する事がないようにと含み込んだ。光る物を握らせて、せめて送り込める兵を少なくするようにと手を打った。
勿論、フィロスという都市そのものを紋章教が抱き込めればこれ以上の事はないが。そんな事は、起こりえない。神とて、そんな都合の良いことは許しはしないだろう。だから、それ以外の道で己は最善を尽くしたはずだ。
マティアは、疲労から痛みすら覚えそうになる眼を一瞬、瞼を閉じて休ませる。深い呼吸を一度、吐いた。
「皆、聞いている事でしょう。自治都市フィロスは大聖教の手を取り、我らの手を跳ねのけました。もはや我らは、我らの手で槍を持ち、敵を貫くしか道はありません」
それは酷く、固く、そしてマティアにしては低い声だった。一言一句を噛みしめるように、将官達、隊長たちは耳を澄まし聖女の声を耳に宿す。
なにせ、此れがもしかすると、最期になるかもしれない。己が耳で聖女の声を聴けるのは。紋章教徒の将は勿論、ガザリアの将たちもまた、一言も言葉を発する事はなくマティアの声に耳を傾けた。
此処にいる皆の背筋を、形のない緊張という名の手が撫でていく。
「兵達に伝えなさい。一言たりとも、漏らす事なく」
マティアは、宣告でも行うかのように、言った。
「此れは聖戦などではありません。我らの神は、自ら頭蓋を懊悩に揺らし、自らの意を持って決めることを望まれた。つまり此の戦は我らの意志に違いない。では、何故我らは槍持ち、大地を赤く染め上げる事を選んだのか」
声が、震えるのがマティアには分かった。それはあってはならない事だ。紋章教徒の聖女として、無様この上ないことだ。
一つずつ、声の位をあげるように、マティアは告げる。
「それは我らの背後にある同胞たちが為。我らが父母、我らが兄弟姉妹、我らが子孫の為。彼らがただ生きる事が出来る日々の為に、我らは槍を持った――思い出せ、同胞たちよ。何故我らが、此処にいるのかを」
聖女と、そう呼ばれた人間の眼に、信仰の色が宿る。それは、ある種狂的とすら言える色合い。それがマティアの声に乗り、姿に乗り、将官の、隊長の眼に伝染していく。
此れが、己に出来る最後の事。そうして下手をすれば、取り得る最期の手段だろう。マティアは心の奥底で薄く、己を嗤った。