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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第二百十話『聖女の告解』

 自らに宛がわれた天幕の中、椅子に深く腰をおろし、空を仰ぐ。といっても見えるのは、天幕の布切れだけだが。


 椅子に腰を降ろした途端、足腰の細部に痛みがあるのに気付いた。恐らく久方ぶり、いや此の身体ではそれこそ初めて馬上戦を行った所為だろう。腕の筋もおかしな方向にねじ曲がったのか、多少の痛みを脳髄に伝えていた。だが、どれもこれも致命的なものではあるまい。


 爺さん、いや敵将リチャードから与えられた右腕の傷も、浅いものだ。毒の反応が感じられない所を見るに、此れが原因で片腕が使えなくなる、なんて事はないだろう。フィアラートは随分と念入りに包帯を巻いてくれたが。


 つまる所、多少の傷はあれど、無事戻ってこれた。一歩間違えれば、死んでいたであろうあの会談から。


 深く、空気を吸い上げ、そして吐く。それを数度、繰り返した。未だ冷たいままの空気が肺を満たし、高揚した身体を覚ましていく。


 胸中にはさまざまな感情が入り乱れていたが、今その表面に浮き上がっているのは、ただの一つだけ。少なくとも、無事を祝うようなものではなかったのは、確かだ。


 ――仕留めきれなかった、か。


 悔やみに近いその言葉が、胸の中で大きく脈動する。


 勿論、半ば覚悟はしていた。リチャードという人間はそう簡単に殺しきれるほど、単純な生き方を抱えている存在じゃあない。むしろ逆に首を刎ねられなかった分、幸運ですらあったのだろう。


 次はもうこのような事は、あるまい。互いに剣を交わし合いながら、多少の傷を付け合うだけなんて事は、此れが最後だ。次に刃を互いに触れさせ合った時には、明確な決着がついている。そんな直感が、あった。


 おかしな事だ。戦場の中に入ってしまえば、互いに何処で死ぬか分からない。雑兵の槍にかかるかもしれないし、遠隔から放たれた弓矢や魔法に心臓を抉り取られるかもしれない。むしろそちらの可能性の方が随分と高いだろう。


 けれども、胸の中、脳髄の奥底に言いようのない感覚が渦巻いている。何処かで再び、リチャードとは剣を交わすだろう。そうしてその時は、決着がつく。そんな確かな直感が、あった。


 頬に出来た小さな傷が染みるような痛みを、与えていた。


「――入りますよ、ルーギス。未だ寝てはいませんね」


 天を仰ぎながら、何をするでもなく椅子に座り込んでいた俺に、その声が届いた。透明感があり、それでいてよく耳に残る、聖女マティアの声。


 何時もは身体に付けている礼装を外している所を見るに、寝る間際といった所だろうか。与えられる印象が、随分と柔らかく見えた。


「悪いな、敵将の首を落とせなかった」


 成果をあげられなかった事に、何となくいたたまれないような気持ちになって、マティアから視線を外して、そう言った。


 もしここで、リチャードの首を落とせていれば、兵の損耗は防げただろう。上手くいけばそれだけで、混乱をきたした大聖教の軍を飲み込めたかもしれない。指揮官の存在というのは、それだけ強大だ。少なくとも、こちら側の死ぬ人間の数は、確実に減らせただろう。


 それを思うと、本当に惜しい事をした。


 マティアは俺の声を受けて一瞬押し黙り、そうして大きなため息を、漏らした。そうして表情を歪める。それはまるで出来の悪い相手にどうやって言葉を伝えたものかと、思案しているような様子だった。


 何だそれは、どういう意味だ。


「貴方は本当に、英雄の身となり得ても尚そのような事を言うのですね、ルーギス」


 ため息の後、表情に緩やかな線を描きながら、マティアが近くの椅子に座った。その声は妙に、優しげな色を伴っている。呆れたという風でも、今までの様に怒りを帯びているという風でもない。


 マティアは言葉を途切れさせぬように、続けて唇を、開く。


「構いません。果敢に敵将へと斬りかかる姿はそれだけで兵の士気を上げます。それにカリアさんとフィアラートさん、彼女らの士気も。知らないかもしれませんが、貴方に頼られるという事を、喜びにする者も多いのですよ」


 そういうものかと問うと、そういうものですと、オウム返しにマティアは返した。そうして、それ以上にと、マティアは唇を波打たせる。淀むことのない言葉と、強くこちらを見つめる視線が、俺を貫いていた。


「今回何より、大事であったのは、敵将の首を討つ事ではありません、貴方が無事に帰陣する事です。そういう意味では、これ以上の結果はないでしょう」


 そう言いながら、此方を真っすぐに捉えるマティアの瞳が、僅かに乱れを見せていた。何時もは冷徹とも言えるような輝きが其処に灯っているというのに、今日ばかりはその灯りが風に吹かれたように揺らめいている。


 何とも、マティアにしては珍しい挙動だった。打算と理性を友としている常の彼女の姿から比較すると、ある意味でなんとも人間らしい、姿だ。


 もしかすると、今回の会談、マティアには大いに想う所があったのだろうか。


 実際、会談においてマティアに負担をかけたのは間違いがない。何せ軍使からの書状に対し、会談を行う事を承諾したのは俺一人の意思であるし、マティアに相談らしい相談もしていなかった。


 その事に対して、マティアが相応の感情を抱いていたとしても、何らおかしい事ではない。


「まぁ、何だ……会談を独断で決めたのは、悪かった」


「ええ、本当に」


 俺が気まずそうにゆっくりと言葉をマティアに投げかけると、間髪を入れずにマティアの声が俺の喉に突き刺さる。マティアの瞳は未だ何処か揺れ動いているものがあるものの、やはり明確に此方を捉え、そうして睨み付けていた。


 その視線は憤怒の色よりも、不満の色の方が強い。不味い。相当にため込んでいるな、此れは。


「無茶はしないとの約定も、貴方はすぐ反故にしてしまう。ルーギス、貴方にとって約束や契約というものが何処まで意味を成すのか疑問で仕方がありません」


 そんな、何処か拗ねた風な言い方でマティアは唇を跳ねさせ、そしてテーブルの上で俺の手を、取った。両手で俺の右手を摩るように、そうして観察するようにまじまじと視線を向ける。


 マティアの手は妙に白く、小さな手だった。俺の手と比べれば数回りは大きさが違うのではなかろうか。こうして間近で比較すると、まるで全く別の存在の手であるかのように思えてしまう。


 マティアが俺の手を見つめたまま、言う。彼女にしては珍しい、僅かに情動が乗った言葉だった。


「ルーギス。正直に言えば私は今回の戦役、とても冷静ではありません」


 ですから、貴方には余り無茶をしてほしくないのです、とマティアは唇を動かす。それは何とも唐突に吐き出された、聖女の告白だった。


 冷静で、ない。あのマティアが。予想外の言葉に一瞬、背筋を何か気色わるいものが這いまわった感触を覚える。本来あり得ないことを告げられたような、そんな気分だった。


「ガルーアマリアを陥落させた時も、空中都市ガザリアへと踏み入った時も、そうしてそれ以前も。このような事はありませんでした。胸が、ざわめきを抑え込めません。頭が時折、真っ白に明滅するのです」


 マティアの小さな指が、俺の手を強く握りしめた。顔を伏せてしまっている彼女の表情を見て取ることは出来ないが、空中を震わせるその声は、得体の知れぬものに怯えている様子すら、ある。


 なるほど、冷静でない、か。よく考えれば、それは当然と言えるのかもしれない。


 何せ今回は今までととても数が違う。万単位の兵士が蠢き、そうして知らぬ所で命を落としていく。そんな戦場の中で、今まで通りの正気を保てる奴の方が少ないだろう、聖女マティアと言えど、多少冷静さを欠いてもおかしいわけではない。


 そのような事を言葉に砕いて告げると、マティアは否定するように小さく首を振って、言う。


「勿論それも、あるでしょう。ですが、一番の要因はそれではない、違うのです」


 その声は、どうにも弱弱しく、まるでマティアのものではないかのようだった。少なくとも、聖女としての彼女の言葉では、ない。


「例えばですが、ルーギス――貴方は、心の底から何かを憎いと、そう思った事はありますか」


 告げられたそれは、聖女の言葉などではなく、ただマティアという一人の少女が何とか振り絞り、唇から漏れださせた嗚咽のようですら、あった。

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