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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第二百九話『師弟であった者』

 フィアラートが巻き起こした魔力の旋風が、空を裂き鏃を飲みこんで行く。その様はまるで空間そのものが大口を開け、放たれた矢を飲み込んでいくかの如くだった。人の生き血を吸い上げる為の凶器が、ただの棒きれへと変えられて地に叩き付けられていく。


 どうやら、上手くいったらしい。軽く唇から吐息を漏らしながら、固くなった肩を降ろす。それは紛れもない、安堵の息だった。


 カリア、そして後方に控えるフィアラートには、事前に起こりうるであろう事態を言い含めておいた。そうして、実際に事が起こった際には手を借りたいとも。何とも、俺らしくない言葉ではあると思ったが。まぁ、たまには良いだろうさ。


 何せ、相手はあのリチャード爺さんだ。爺さんが、よもや敵指揮官の地位にある人間を呼び出して、何ら企てを持たないはずがない。それはもはや、罠を仕掛けてくるかもしれぬという、懐疑心程度の軽いものではない。仕掛けてくるに違いないという一種の信用だ。勿論、伏兵が放つものが鏃であるのか、それとも剣をもって襲い掛かってくるのかまではわからなかったが。


 どのような話を持ち掛けるにしろ、敵指揮官の首を落とすという事には、至上の価値がある。成功すればそれだけで敵軍の士気は波にのまれたように崩壊するであろうし、指揮官が一人いなくなれば、それだけで戦場で取りうる選択肢が減る。下手をすれば勝機そのものが姿を失いかねない。


 敵指揮官を暗殺し、兵を減らさぬままに勝利と利益を図る。爺さんが何とも、好きそうな事だ。正々堂々などという言葉は、爺さんにとって冷笑の対象であるに違いない。


 そうして爺さんにとって、そうであるという事は、俺にとっても同様であるという事だ。


 魔力旋風が、放たれた矢のことごとくを地に伏せさせながら、嘶く。俺は真っすぐに視線の先、敵将リチャードまで続く道を、見据えていた。手綱を強く、引く。


「カリア、悪いが伏兵は任せる」


 視界の端で明滅する銀光に、それだけを告げて、馬を、駆ける。


 もとより俺とリチャード爺さんとの間にあった空間は、僅か馬数頭分。例え暗殺に失敗したことを察した伏兵共が、その手元で剣を抜き放ち斬りかかってきたとしても、間に合う距離ではない。


 何より、懐剣として控えさせていたカリアの銀閃を超えてこれる奴が、いるはずがない。


 腰元につるされた宝剣を、握り、そのまま空間を走らせる。馬の駆ける勢いにのせるように、そのまま一筋で敵将リチャードの首もとへと、至れるように。


 刃が首筋に向けられた瞬間、爺さんが、歪んだような笑みを浮かべていたのが、分かった。


 ——ギィ、ィン。


 紫電が空間に線を描き、それを黒剣が噛み止める。鉄同士が接合し、互いに身を削り合う火花が、散った。


 勢いのままに振り落とされた宝剣を、爺さんが予期していたとでもいうかの如く、分厚い黒剣にて受け止める。その身はすでに老齢の域であるだろうに、黒剣を支える力は揺るぐ姿さえ見せようとしない。逆にこちらが力を僅かでも抜けば、そのまま跳ね飛ばしてやろうとでも言いたげだ。


「爺さん、もう良い歳だろう。隠居でもして楽する事を覚えたらどうかね」


 剣を噛み合わせ、離れさせ、そして数度、打ち合う。一合、二合、三合。数を重ねて尚、俺の斬撃を振り落とす黒剣はその勢いを失おうとしない。


 爺さんが、まるで酷くおかしなものを見ているとでもいうように、楽し気にいった。


「糞餓鬼が誰に能書きを垂れてやがる。てめぇみたいなのがいる内は、隠居なんて考えにも入りゃしねぇ」

 

 そうして、四合目。


 爺さんの心臓を抉りぬかんと放った一振りは、その軌道に合わせて置かれたであろう黒剣に跳ね除けられ、爺さんの肩口を軽く抉っただけで、終わった。血の赤い色が、平野の緑色に混じる。


 なるほど、爺さんも血が全く流れていないような、人間離れした存在ではないわけだ。なら、殺せないということは、あるまい。


 奇妙な気分だった。慣れぬ馬上戦、紛れもなく技量は相手の方が上であり、下手を打てばその瞬間こちらの首が落ちる事は間違いないだろう。もはや指揮官同士、戦役を代弁して剣を振るっているようなもの。


 だというのに、妙に胸中は充足している。かつて、超えられずにいたままの師と剣を合わせ、その威を競っているという高揚からだろうか。それともまた別の何かが、この胸の奥底から沸いて出てきているのだろうか。


 不思議だ、本当に不思議な事に、今日この時は悪い気分ではない。むしろ、今まで感じたことのない喜びすらも、あった。


 更に、一合を重ねる。


 紫電が吸い込まれるようにリチャード爺さんの脇腹へと軌道を描き、黒剣が当然のようにそれを迎え撃つ。先ほどから、一切の変わりがないその光景。しかし今数度続けたそれに、変化があった。先ほどまでまるで揺れる所を知らなかった黒剣が、僅かにぶれる。眼が、瞬いた。


 そのまま押し込んでしまうなどという楽は出来そうにない。それでも、後数合、剣を重ねれば、此の硬直した攻防をどちらかに傾けさせる事ができるはずだという、確かな直感があった。


 叶うならば、可能であるならば。それが選べるのであれば、何と心地よいことだろう。しかしそれも、もはや叶うまい。もしかすると此の合数すら、リチャード爺さんに計算されていた可能性すらある。


 耳朶を、平野を震わせるほどの声が、打った。


「——大隊長殿をお助けしろ。弓は使うな! 剣持つ者は振るい、槍持つものは貫けェッ!」


 敵軍の護衛隊が、もはや間近に迫っていた。これ以上リチャード爺さんに時間を稼がれれば、俺はあの護衛隊全員に取り囲まれ、肉を無残に抉られる未来を選び取る事になる。


 互いに噛み合ったままの剣を離し、肩で息をしながら、唇を揺らす。瞬間、右腕に裂けるような痛みがあった。見れば、一筋の裂傷が出来ている。合を重ねる中で、いつの間にか爺さんに斬り付けられていたらしい。時間を稼ぐため、迎撃にのみ意識を傾けていただろうに、相変わらずいやらしい攻撃が得意な爺さんだ。


「ありゃ爺さんの女か。良い女じゃあないか」


 護衛隊がたどり着くまでの僅かな、間。顔に跳ねていた鉄片を手で除きながら、護衛隊を率いる将官らしき女を指して、言う。


「馬鹿言え、孫娘でも通じる歳だ。それにありゃ固すぎる。もう少し柔らかくなっても良いと思うがねぇ」


 爺さんは軽い口調でそう言いながら、やれやれとでも言いたげに、肩を竦めた。そうして黒剣を片手で揺らしたまま、お前の女の方が、良い女に見えるがねと、言った。


 自然と眉を上げて、瞼を瞬かせる。俺の女。一体、誰が。困惑に眼を歪めると、爺さんの視線が俺のすぐ傍を指していた。


「——ルーギス、伏兵の首は刎ね落とした。もはや立つ者はあるまい。退くぞ、お前の手で馬に乗せろ」


 カリアがその銀髪に血の色を混ぜ合わせながら、言う。手で口元の返り血を拭う様子は何処か妖しい魅力すら漂わせていた。


 カリアの言葉に対し、爺さんが勘弁してくれとばかりに首を撫でた。


 伏兵、特に弓兵を育てるのには膨大な金と時間がかかる。ただ命令のままに突撃を繰り返すだけの兵ではなく、自分の頭で考えることを覚えこまさねばならないし、なにより真面に弓を引かせるだけでも、そう易々とできるものじゃあない。


 正直に言えば、残念なことに紋章教には十分な戦力や伏兵に使えるほどの弓兵はいない。精々がガザリアからの援軍に僅かばかり弓を使えるものが含まれていることくらいだろう。それでも、部隊として運用するには困難な面が多い。もしそれが可能であるならば、リチャード爺さんのように伏兵として潜ませておくことも出来たのだろうが。


 カリアの手を引いて馬の前側へ乗せ、軽く手綱を握る。この僅かばかりの雑談は、何とも楽しい時間ではあったが、それももう終わりらしい。馬蹄の音が耳をつんざくほどに大きくなってきていた。


 もう、このような時間が俺とリチャード爺さんの間に訪れることは、二度とないのだろうと、そう思った。僅かに視界が、ぼやける。


「じゃあな爺さん。戦場で会えるかは分らんが、首を良い酒で洗っておいてくれ」


 俺の最後の言葉に、リチャード爺さんは、頰を崩しながら、言う。顔に刻み込まれた深い皺と大きな傷が、歪んだ。


「ルーギス、精々あがけ。安心しろ、最後は——それこそ正義と勇者の名の下に、首を刎ねてやる」


また、似合わない言葉だ。正義だの、勇者だの。唇を波打たせて返事をすると、カリアが言葉を、漏らした。


「リチャード=パーミリス、か。貴様には聞きたいことは幾つかあったのだが、そうだな」


 それは呟くような、爺さんに向けてというよりは、むしろ俺に向けてはなったような言葉だった。その表情が、まるで悪戯でも思いついた猫のように、崩れる。


「どうやら、こいつの女癖が悪いのは師から譲り受けたようだ、迷惑にもほどがある」


 そんな風に唇をつりあげながら言うカリアに、爺さんは喉を鳴らして笑った。何とも楽しそうに、実に真っすぐな笑い声で。


 そうしてひとしきり笑った後、背を向けて、爺さんが何事かを言ったのが聞こえた。


 だが、その言葉は余りに小さく、俺の耳を僅かに打った後、風に揺られて消えて行ってしまった。


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