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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第二百七話『悪漢の才覚』

 時刻は早朝、丁度陽光が昇り始めた頃。会談の舞台となったのは、自治都市フィロスの眼前に広がるサーニオ平野だった。そこが一番、公平な場だろうという事らしい。


 馬蹄が土を叩く感触が、身体を揺らす。平野の中心部へと俺が踏み入った頃には、もうその影が遠目に見え始めていた。灰色の、よく夜闇に馴染みそうな鎧を身体に纏わせ、何処か不遜さを感じさせる眼を浮かべた人間が、そこにいる。顔には見慣れた大きな傷が刻み込まれていた。


 護衛の為にとついてきていたガザリアの部隊を、軽く手を振って止まらせる。そして一騎で進み出ると、相手も同じように護衛部隊の足を止めさせて、平野の中心部へと馬蹄を進めた。此の男にしては、お行儀のよい事だ。


「少し痩せたか、爺さん」


 互いに一騎同士、声ももはや護衛の兵には届くまい。なら言葉遣いなど、気にする必要もないはずだ。俺の言葉に、ひしゃげた笑みを浮かべながら、敵将――わが師リチャードは喉を鳴らした。


「そういうてめぇは、見れる面になったな。溝浚いからは足を洗ったか」


 笑い声を含めた声に、お陰様でね、と両手を浮かしながら応じる。


 リチャード爺さんの声は久方ぶりに聞くというのに、何処も老いた風な感じはなかった。むしろ酒場で管をまいていた時よりも遥かに、精悍に思えたほどだ。まるで此処が、慣れた場所だとでも言いたげだった。


 数度、言葉を交わす。全て他愛もない事ばかり。互いに、近況報告という柄でもない。ただ少しばかり昔の話に華を咲かせた、その程度の事だった。


 それは何とも下らない、ただ時間を無駄にするだけの行為に違いあるまい。敵将同士で雑多な会話を交わしたところで有益なものが生まれるはずもない。


 けれども妙な事に、爺さんとの懐かしいやり取りは、知らず俺の気分を和らげていた。緊張した時間が続いていた近頃では、これ以上ないというほどに。おかしなものだ。相手はこれから殺し合う、敵に違いないのだが。


 平野を覆うやや背の高い草が、風に煽られたように鳴き声をあげた。


「――しかし、爺さん。あんたが大聖教の大隊長様とは、悪い酒でも飲んだのかね」


 話は、こちらから切り出した。悪い心地ではないとはいえ、延々とくだらない話を繰り返してしまえば、いずれ爺さんの間合いに引き込まれるだけだ。なら例え多少性急でも、こちらから踏み出した方が良い。


 爺さんは、何処か気易い笑みを浮かべたまま、そうだな、と一拍を置いて、言う。


「柄じゃあない。そりゃあ確かだ。だが、俺も何時までも惚けてはいられなくてな」


 その幾つもの年月を重ねた眼が一瞬、閃光を走らせたように、見えた。白い顎髭が爺さんの指に撫でられ、揺れる。


 柄ではない、その通りだ。少なくとも俺がしるリチャード爺さんは、表舞台にわざわざ足を踏み入れてくるような人間じゃあなかった。むしろ舞台の裏側から、糸を引いて笑みを浮かべている。そんな、人間だったはずだ。危ない橋を自ら渡るような事はなく、誰かを上手く利用して、そうして利益だけは浚っていく悪辣な性質。


 爺さんはしわがれた声で、だがよ、と言って言葉を続ける。


「俺より柄じゃあねぇのは、むしろてめぇだろルーギス。紋章教がどうだはまだいいが、英雄様とは、心変わりにも程がある」


 なるほど、それを言われるともはや返す言葉がない。まさしくその通りだ。貧民街の泥道を寝床にしていた頃を考えると、英雄などという肩書は遠く及びつかない。似合う似合わない、相応しい相応しくないという以前に、柄じゃあない。


 俺が表情に苦いものを浮かべたのが分かったのだろう。爺さんは大きく喉を鳴らしながら、笑った。ただ快活なだけの、含んだものがない素直な笑いだった。


「だろうよ。俺はな、柄じゃあねぇ事をすると首の辺りを虫が這いまわってるような気分になる。こうして大隊長なんてお飾りを着せられて、それで式典なんてものに引き出されてみろ。馬鹿々々しいったらないぜ」


 流石、師というだけの事はある。俺が似たのか、それとも元々同じような性質だったのかは分からないが、どうにもその辺りの感性は似た所があるらしい。


 式典の格式ばった挨拶や、言葉をふんだんに飾り付けた書状、肩書がどうだ立場がどうだ。そういったものが、俺には酷く性に合わない。そしてそれは、リチャード爺さんも同様なのだろう。


「つくづく、柄じゃあねぇ。そう思う。世界に表と裏があるなら、俺はどうにも、表を歩いている内は生きている心地がしねぇのさ。生まれ持った性質かね、空気も水も、何もかもが合わん。魚でも鳥でもそうだが、住まうべき所ってのが人間にもあるらしい」


 その、辺りで。俺は爺さんが何を言わんとしているのか、薄っすらと察しが付き始めていた。何を俺に告げ、そうして何を目的としてこの場を設けたのか。


 馬の手綱を握る手に、僅かに汗が滲む。その場で馬の蹄が軽く土を蹴り上げる音が、聞こえていた。


「ルーギス、てめぇはどうだ。今いる所が、自分の住まう所だと、心の底からそう思うか」


 随分と、遠回りな言い方だが。それが爺さんなりの気遣いというやつなのかもしれなかった。いやそれとも、いつの間にか爺さんの間合いに巻き込まれてしまっているのだろうか。そこがどうにも分からない。


 だが、爺さんの言葉に一瞬、心臓が大きな音を鳴らしたのは、事実だった。額を僅かな汗が舐める。


「そいつはまた、どういう意味かね」


 呟くようにそう言って、眼を細める。爺さんの顔に刻まれた傷が、大きく歪むのが分かった。


「とぼけるなよ、ルーギス」


 短くそう言い、言葉を切らないまま、爺さんは口を開く。


「お前も俺と同じさ。英雄なんて柄でも、表街道を歩く性質でもない。そんな事は目立ちたがりの馬鹿野郎に任せとけばいいんだ」


 リチャードの爺さんの瞳は懐かしいものを見るような、哀愁を含んだ色を浮かべていた。その口から吐きだされている言葉には、妙な実感すら籠っていた。


 昔、酒場でくだらない与太話を聞いた事がある。かつて、リチャードの爺さんは冒険者として光を浴びる舞台に立ったことがあるのだという、そんな話だ。


 爺さんはそれこそ地位も、名誉もその手につかみ取れるような大きな場へと足を踏み入れた。才覚も、運も、実力も、確かに有していたのだろう。きっと何事もないのならば、そのまま高みへと駆けあがる事すら出来たのかもしれない、そんな場所。


 けれども、爺さんはそれを、全て捨て去った。代わりに失望を胸に抱えて、裏街道に身を投げ落とした。


 それが何処まで本当なのか、何てのは知りはしない。酒場で語られるこの与太話を俺は爺さんに確かめようと思わなかったし、爺さんも語ろうとはしなかった。けれども今この時、爺さんの口から放たれる言葉が、妙な実感と重みに溢れていたのだけは、確かだ。


「なら、なんだ。俺に裏へ回って糸を引いていろとでもいう気かね。それこそ影でほくそ笑む悪人みたいに」


 爺さんの言葉が僅かばかり途切れた間を見計らい、言う。腹の中で胃が張ったような感覚が、あった。自然と眉間に皺が寄る。


「そうだとも。それしか選択はあるまい」


 返答は、短いものだった。そうしてその一言が、爺さんが俺をわざわざ呼び出した、目的だったに違いない。それが本心からのものなのか、それとも俺を騙し討つ為のものなのかは、別にしておいて。


 瞼が、数度瞬く。


「ガーライストはな、馬鹿らしい国だ。血筋だ、育ちだ、誇りだ。それだけを頭に詰め込んだ奴らが幾らでもいる。だが不思議な事に、この国で脚本を書き上げるのはその馬鹿どもだ」


 嫌だな、何とも、嫌な言葉だ。妙に、容易く耳に入り込んでくる。無理矢理脳髄に食い込んでくるような、そんな言葉だった。


「そんな脚本に乗っかる位なら、舞台の裏側で糸を引いてる方が、随分とマシだ。ずっとずっとマシだ」


 爺さんの表情が一瞬、何かを思い出したかの様に揺らめく。しかしすぐに視線をあげ、俺を真っすぐに貫いた。


 何時も何処か軽薄そうに笑みを浮かべている爺さんには珍しく、その顔からは表情が消えていた。ゆっくりと重みを伴って、しわがれた声が、サーニオ平野に響く。


「――ルーギスどうだ、俺と共に来る気はないか。お前の風聞を耳にしてからな、幾つか情報を集めた。そうして分かった事だが、お前には、才覚がある」


 お褒めの言葉とは有り難い。手をあげて喜びたい所だ。それが、こんな場じゃなければ。


「勿論冒険者としての才覚じゃあない、剣技のそれとも、とても言えまい」


 リチャード爺さんの言葉が、耳に届く。俺の眼は大きく見開かれながら、固くなっていた。影の形が少し変わり、陽光の煌きを伝えている。


「お前は、舌で人を扇動し、惹き込み、利用する事を厭わない。そうして実の所、目的以外は心底どうでもいい。己の所為で人が死のうが生きようが知ったことじゃあない。ルーギスお前はな――」


 ――紛れもない、悪漢だ。俺と同類のな。


 リチャード爺さんの声が知らぬ内、俺の心臓を鷲掴んでいた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 救世の旅にでなければその通りだったかもしれないね。英雄に焦がれてる今は違うけど。
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