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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第二百四話『指揮官と副官』

「――だから言ったではないですか!」


 リチャードの天幕へと慌ただしく運ばれてきた伝令に、副官のネイマールが吠える。尖った犬歯を口角に見せながら、もはや一切の感情を隠す気はないとでも言う様に、吐き出される声は荒々しい。


 思わず、伝令を持ってきた兵が表情に怯えを見せて立ちすくんだ。まるで自分が責められているとでも感じているようだった。


 ――大聖教軍の義勇兵が、大義の為と称し周囲の村落から略奪を行っている。


 端的に言えば、齎された報告はそれだけだ。それはネイマールが最も危惧していた内容であり、そして予見すらしていた出来事。ネイマールは口内で忌々し気に舌を打った。


 分かり切っていたことだ。義勇兵などというものに、大した意志も宗教的使命感もあるはずがない。あれはただ、日々抑圧された鬱憤を晴らさんが為、苦痛の日常を脱さんが為に槍を取った連中に過ぎない。


 そんな彼らは義勇兵などと名乗ってはいても、所詮は獣も同然。腹が空けば槍を振るって民を脅しつけ略奪を行うことなど、分かり切っていた。だというのに、此のリチャードという将は。


 ネイマールの眼に憤怒とも軽蔑ともとれる情動が姿を見せる。それは紛れもない不審の色。リチャードはその視線を受け止めながら伝令兵に二、三言葉を告げて下がらせた。


 そして、ネイマールを正面から見ながら、言う。その老齢特有のしわがれた声が妙に天幕の中に響いた。


「副官ネイマール、千人長にはもう用意をさせている。此処に残すのは最低限で良い、それ以外全部連れていけ」


 訓練と思ってな、と付け加えながらリチャードは陶器に手をやり、舌を酒に浸した。


 何処か投げやりとも思える態度に、再びネイマールの唇が火を噴こうとした。その間際、ふとネイマールの睫毛が跳ねる。


 用意を、させている。それは、一体どういう。


 指揮官の不可解な言葉に、ネイマールの勢いが一瞬削がれた。それを見てというわけでもないだろうが、リチャードは己の副官によく言い含めるようにゆっくりと、言った。


「一つの部隊で潰そうとするなよ。全部隊を満遍なく使え、新兵共に戦場がどういうものかだけ教え込んでくれればそれで良い。お前さんも実践経験は薄いんだろう、慣らしと思って好きにしてきな」


 その言葉を耳で受け止めた瞬間、ネイマールの背筋を冷たい手が這いまわる感触があった。天幕の外からは、出陣準備が完了した旨を告げる鐘が鳴っている。


 おかしい。明らかに、早すぎる。


 陣を張っているとはいえ、防衛に備えさせた部隊以外は全て大休止を取らせているはずだ。それも千人長を複数準備させるとなれば、相応の時間がかかってもおかしくない。何せ、義勇兵が略奪を成しているという報が届いたのは、それこそ今この時だ。


 だというのにどうして、こんなにすぐに、隊の準備が整うのか。嫌な予感が、ネイマールの胸中に爪を立てている。


 ネイマールは眼を大きくして、喉を無理矢理にこじ開けながら、言葉を放った。


「リチャード大隊長。貴方は、義勇兵が略奪を行うと理解していて、兵の準備を?」


 何を聞くべきであるのか、ネイマールにはよく分からなかった。ただそんな言葉だけがぽつりと、唇から漏れ出ていた。


 リチャードは陶器をテーブルに置きながら、その問いにあっさりと答えを出した。


「当たり前だろ。それ以外に、何かあるのか。良い訓練さ」


 指揮官のその言葉に、ネイマールの脳髄が痺れたように真っ白な色を浮かべた。瞼が痙攣したように震えている。


 此の指揮官は、つまり、義勇兵が村落を襲う事など全て理解していて。そうしてそれを容認して、新兵達の訓練に使うのだと、そう言った。


 そんな馬鹿な事が、あるのか。


 ネイマールの思考は未だ揺れ動き言葉をまとめきれない。それでも何かを言わねばならないという義務感に襲われる様に、彼女は声を漏らす。


「……民たちからの信用を失います」


 平時の気丈な強さを持った声とは正反対の、震えるような声でネイマールは言った。その問いかけにもまた、リチャードは迷うことなく言葉を返す。


「安心しろよ。周囲の村落には、義勇兵を名乗る紋章教の部隊が出没していると、数度言い含めている。それに義勇兵の恰好と俺達の恰好は似ても似つかん。お仲間だなどとは思われんだろうよ」


 その老将の口ぶりには、ただ当然の事を当たり前に行ったのだとでも言うような気軽さが含まれていた。むしろ何かおかしい所でもあるのかと、ネイマールに問いたげですらある。


 リチャードはしわがれた声で、奴らを戦場に連れて行っても邪魔になるだけだと分かっているだろうと、そう付け加えた。


 ネイマールは自らの唇を、強く噛む。犬歯が肉に食い込み血を溢れ出させそうだった。


 そんな事は、分かっている。義勇兵などというただ暴れまわるだけの存在を戦場に連れ込んで、戦果があがるはずもない。むしろ怯えをなして逃げ回れれば、それだけで士気に関わる恐れすらある。何処かで切り離さなければならないという意見にはネイマールとて同意だ。


 だが、それにもやり方というものがある。こんな、民を傷つけるような、やり方で。


 ネイマールが熱をも帯びた言葉を吐き出そうとした瞬間、その鼻頭を叩き潰すように、リチャードは言った。


「いいかネイマール。此れは利益を取ったやり方なんだ。戦役を行おうとするのなら、周囲の村落と良好な関係を築くのに越したことはない、勿論例外もあるが」


 リチャードの言葉を耳にしながら、ネイマールは眼を大きく見開き、顔を上げていた。今自分の顔にどんな表情が張り付いているのか、ネイマールにはどうにも分からなかった。


「義勇兵を最初から切り離してみろ、それこそいらぬ反感を買うのは目に見ている。何事も上手くつかってやるのが大事だ」


 こうすれば、村落からの好意も、新兵の訓練も、そして義勇兵共の処分も行える。良い方策だと思うんだがねと、老将は酒を喉に流し込みながら、言う。それに、訓練も行えず戦役に敗北するより、被害はずっと小さいさ、とも。


 ネイマールは、何か声を吐き出したかった。胸中でおどろおどろしく跳ねまわる感情を眼前の指揮官に投げつけてやりたかった。


 けれども、その為の言葉が見つからない。己の不甲斐なさに涙が瞳に浮かびそうだ。ネイマールにとってリチャードの言う事は何一つ気に食わない。反発して、その手を跳ねのけてやりたい。だというのにそれを行うだけの知識も経験も己にはない。


 だから、唇を震わせて一言を告げるのがネイマールには精一杯の事だった。


「リチャード大隊長」


 何だよ、とリチャードは粗雑に答えた。もう言うべきことは言ったのだと、ネイマールに視線を合わせようともしない。それで構わないとネイマールは声を振り絞る。


「私は、貴方を軽蔑します。けれども……命令に、従います」


 それしか、ネイマールには言う事が出来なかった。


 心の底から、リチャードに従うことは出来ない。だから、軽蔑する。けれども、それを正すような力は己にない。だから、従う。


 何て、無様なんだ。何て、無力なんだ。自分が正しいと思うことすら、言葉に出来ないなんて。ネイマールは自分の首を絞め殺してやりたい衝動にすら襲われながら、指揮官に背を向けて天幕を後にする。眼には光る液体が、浮かべる表情には幾つもの感情が込められていた。


 リチャードはその背を見て僅かに眼を細めながら、息を漏らす。その頭蓋の中にはもはや、義勇兵の事など入ってはいなかった。此れから送らねばならない書状の事に思考を巡らせていた。


 自治都市フィロスと、紋章教の軍中にいるであろうかつての教え子に向けた書状の事を。

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