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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第二百三話『二つの知らせ』

 自治都市の統治者フィロスの指が、二度机の上を叩き、乾いた音を鳴らした。


 事務官はその仕草を緊張した面持ちで見つめながら、自然と眼を伏せて視線を下へと向ける。この部屋、フィロスの執務室を訪れた者は、誰もが一様に同じ態度を取る。


 それは、フィロスへの敬意ではなく、独特の礼儀作法というわけでもない。ただただ、純粋な恐怖故だ。


 自治都市フィロスの統治者、フィロス=トレイト。


 トレイトとは、代々此の都市を治めて来た者達の家名。都市の名であるフィロスと、統治者の証であるトレイトの家名。代々の者達が、この二つの名を受け継いできた。


 その名を持つ彼女に対して市民がどこかしら、支配者への畏怖を感じるのは当然の事。だが、今代のフィロスに対して与えられる視線は、それよりももっと、何か悍ましいものを忌避するような雰囲気が混ざっている。


 理由は、その出自と経歴にあった。今代フィロスは元来、統治者であるトレイト家の実子ではなく、養子に過ぎない。それも殆ど外には出されぬような、腫物扱いをされていた。市民の殆どは、彼女がフィロスになる以前、その存在を噂程度にしか知らなかったほどだ。


 本来、彼女に家督など回ってくるはずがない。彼女には十人を数えるほどの兄姉がいたし、本来フィロスの名を継ぐはずであった長兄は、平凡な人間ではあったが何か大きな問題を抱えていたわけでもない。周囲の人間が支えていけば上手く都市を統治できる程度の才は有していた。


 だから、彼女が統治者となる事など誰も考えはしなかったし、いずれは何処かに政略結婚でもさせられるのだと、その程度の認識でしか、なかった。


 ――彼女が成人の年齢を迎えた日、彼女以外のトレイト家の人間が変死を遂げるまでは。


 それは余りに不気味だった。家督を狙っての謀殺とみるならば、確かにそれは上級階級の間では日常茶飯。


 だが、謀殺というものはあくまで人知れず、誰が行ったのかなど分からぬように行うもの。だというのに、彼女はまるで見せしめだとでもいうように、己以外の全てを殺して見せた。


 そして、何より市民達が恐れたのは。そんな異常が眼を開いていたにも関わらず、領主に仕える古参の従者達は何の意義も唱えぬまま、唯一残った彼女をフィロスとして承認してしまった事だ。


 一切の動揺もなく、全ては決められていた事だったとでもいうように。その変死事件の翌日には、当然の如く今代のフィロス=トレイトは統治者としての鞭を振るっていた。


 だからこそ、彼女に仕え、彼女に接する者達の胸には常に恐怖が巣くっている。いずれ、己も同じように突如として死を遂げるのではないか。そうしてその死は何ら意味を成すことなく、明日には忘れ去られることになるのではないか、と。


「決めたわ」


 フィロスが、数度机を指で叩いた後、言った。


 事務官がようやくといった様子で固い身体を起こすと、フィロスの右眼で鈍く輝く眼鏡がよく見て取れた。


 フィロスの右眼は生まれつきのものだろうか、弱視であるらしく全体的に白色が強い。その珍しい眼色と、矯正の為に取り付けられた片目用の眼鏡もまた、市民達にフィロスが敬遠される要因の一つでもあった。


 その白眼に睨み付けられると、どうにも人間に見られているという気がしなくなる。相手が血が通った存在であると、まるで思われなくなってしまうのだ。事務官の握られた手の内に、じんわりと汗が滲む。喉が酷く乾いていた。


 そんな事務官の心境など知らぬとばかりに、淡々と、フィロスは告げる。


「――大聖教軍の将に使者を出しなさい。書面の内容は私が書きあげます、以上」


 事務官はその言葉を耳に受け止め、思わず口を開いた。それは何かを考えてというよりも、むしろ反射的に出てしまったという、そんな言葉。


「フィロス様が自ら、ペンを取られるのですか?」


 その言葉を発した途端、事務官の顔にはしまったとでも言うような表情が浮かんだ。


 今代のフィロスは、自分の行う事に他者が口を挟むことを殊更に嫌う傾向がある。このような言葉を放っては、またいらぬ叱責を受けるやもしれぬと、事務官の眼が歪んだ。


 しかし、事務官の言葉も当然といえば当然のもの。


 領主直々にペンを取り羊皮紙にインクを走らせるなどというのは、自らより上の身分にある者に対してのみ。それこそ上位貴族や、王族に対して行うものだ。


 それがどうして、一軍の将に対して態々直筆の手紙を記すのか。それは本来、事務官の仕事だ。領主は精々、内容を言い含めるくらいのもの。


 恐る恐ると言った様子で、事務官はフィロスの様子を覗き見る。その白い片眼が、何の感情も浮かべず其処にあった。


「ええ、大聖教の軍と言っても、要はガーライスト王国の軍でしょう。陸の一大国で、自治都市フィロスも元はガーライストの領地。なら礼儀を通さないとね」


 それ以外に意味はないのだと言いたげに、フィロスは机に向かいペンを取る。もうそれ以上の言葉を発する気はないのだろうと察して、事務官は一礼をし執務室を出た。


 確かに、フィロスの言う内容は一種の理が通っている。間違いではない。


 だがやはり、何処か納得のいかぬ感情のしこりのようなものが、事務官の胸中には残り続けていた。



 ◇◆◇◆



 大聖教の先遣隊を率いる老将、リチャードは天幕にて腰を落ち着けながら、二つの知らせを待っていた。皺が刻まれた頬が僅かに影を浮かべている。


 もう数日も行軍を続ければ、戦場に相応しい平野に出る。紋章教の軍勢もどきを粉砕するならば、数で勝る以上そこで留まるのが最適であるはずだ。だがリチャードは、その知らせを待つためだけに平野から少しばかり離れた街道近くに陣を張っていた。


 天幕の中で僅かな酒を唇につけていると、軍人特有の静かな足音が、耳朶を打つ。どうやら、知らせの一つはたどり着いたようだ。


「リチャード大隊長。自治都市フィロスから使者が参りました。大隊長に書面をと」


 副官ネイマールの相変わらず冷たさを感じる声に、リチャードは喉を鳴らしつつ、羊皮紙を受け取る。


 文面は、随分と淡泊なものだった。少なくともリチャードにとっては、変に礼儀が纏わりついた文面よりは好感が持てる書きぶりだ。


 内容は、想像していたものからそう外れはしない。大聖教の軍を歓迎はするが、協力については会談を行いたいと、此方の要求を何とか躱そうとでもしたげな内容。


 何、問題はない。むしろ、ガーライスト王国と自治都市フィロスの過去を考えれば取り付く島もなく反発される恐れだってあった。この程度の内容なら十分許容の範囲内だ。


 むしろ領主が直々に文面を記したことを示す印まで押されている事は、予想以上。白い顎髭が揺らめき、リチャードの眼が細まる。


「隊長格じゃあ、舐められると思っていたんだがな」


 リチャードは手元で酒瓶を遊ばせながら、顔に刻まれた皺を深める。その表情は、さて此の書面をどう受け取ったものかと考え込んでいるかのようだった。傍らでは副官のネイマールが、僅かに眉を歪めて瞼を瞬かせていた。


 ガーライスト王国の軍事機構は、上位と下位、大きく二つの組織に分けられる。


 上位の組織に属するのは、上流貴族の人間達がその身を置く軍隊。彼らには護国官や執行官の称号を名乗ることが赦され、相応の権限と、国家が育て上げた精鋭を率いるだけの地位を与えられる。


 対して下位組織に属するのが、下級貴族やもしくは庶民出身の人間が所属する部隊だ。此の下位組織に属する者は、例え多大な功績をあげようと、英雄の如き輝きを放とうと、隊長格以上に任じられることはない。


 率いる事が出来る兵も、国家の精鋭ではなく新兵部隊や半分は傭兵のような者達。


 同様に騎士団もまた、その品格次第で上位組織か下位組織のどちらかに分類される。


 軍内部に上位下位の分け隔てが明確に存在する所為だろう、どうしても率いる者が隊長格というだけで、交渉相手に侮られるという事は多く存在する。


 軍の指揮官たる将相手といえど、それが官格であるのか隊長格であるのかで、扱いは大きく変わるというわけだ。それは隊長格の中でも上位に属する大隊長という肩書でも変わりはない。


 だが、フィロスの領主はどういうわけかその隊長相手に、直筆の手紙をよこしている。 此れはまた、どう受け取ったものか。手紙を閉じながら、リチャードは眼を細めて言葉を口の中で練った。


「副官殿、書記を呼んでおいてくれ。すぐに書面を一通、いや……二通書かせよう。もう、奴らも近いはずだからな」


 ネイマールはその言葉を耳にして、心底うんざりだとでも言いたげに、大きく溜息を吐く。リチャードに対してもう遠慮するという事はないらしい。纏めあげた髪の毛が、心なし苛立ったように跳ねている。


「……私は貴方の小間使いではないのですが、リチャード、大隊長」


 ネイマールの眼は細まり、ゆっくりと声が漏れる。言葉遣いそのものは丁寧であるものの、その声色はまるで言葉の一つ一つに、底知れぬ憤激を込めているとでも言いたげだった。


「だがお前さんは副官だ、ネイマール。副官は長の言葉を聞くもんだろう。何、憂さ晴らしならさせてやるさ」


 ネイマールの様子をやはり何処か面白そうに見つめながら、リチャードは言う。その耳には、先ほどのネイマールの足音とは正反対の、何処か騒がしい足音が聞こえてきていた。


 どうやら、待っていた二つ目の知らせも、ようやくたどり着いたようだった。リチャードの眼が愉快そうに、歪んだ。

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