第二百話『エルフの眼』
「――よろしかったのですか、エルディス様」
エルディスは己の侍女ヴァレットが発した言葉に長い耳を跳ねさせつつ、用意されたベッドへとゆっくり腰を掛けた。
ベッドの感触は奇妙と思うほどに柔らかく、身体を埋めさせればどこまでも沈み込んでしまいそうだ。国賓を迎える為紋章教も随分と気を張ったらしいと、エルディスの目が細まる。
かつて交易都市ガルーアマリアの中でも最高位に属していた者達が所有していた館が、ガザリアの女王フィン=エルディスへと与えられた客館だった。
「良い悪い、というのはどういう意味だい、ヴァレット」
エルディスは大きな窓からガルーアマリアの夜景を見通しながら、言葉を漏らす。その声色は部下に話しかけるというよりも、まるで友人に語り掛けるかのような様子だった。
ガザリアと紋章教の友好を示す式典は随分と前に幕を下ろしたというのに、未だガルーアマリアの街並みは明るさを衰えようとしない。まるで誰もが今日という良き日の余韻を忘れぬように、この一日が終わってしまうことを憂うように、未だその灯りを消そうとはしなかった。
エルディスは、人間のこのような情緒的な営みが、決して嫌いではない。むしろ羨ましくすら思う。過ぎ行く時を惜しむという感覚は、長命であるエルフには薄い感情だ。エルディスとて、ガザリアの幽閉塔で彼と過ごした時間がなければ、そのような感情の存在を知る事すらなかったかもしれない。
碧眼を潤ませるようにしてガルーアマリアの光景に見惚れるエルディスの耳を、再びヴァレットの声が打つ。
「ですから勿論、ルーギス様の事です。あれではまるで、ルーギス様は紋章教のものだと主張されたようなものではないですか。エルディス様も、あの場でルーギス様はガザリアに属するお方なのだと声を響かせておけば――」
どこか憤怒の色すら声に纏わせながら眼を歪めるこの侍女の姿に、思わずエルディスは笑みを零してしまいそうだった。
ヴァレットという少女は時折、他者の事をまるで我が事のように憤る節がある。それこそ自らと全く関係のない事柄にだってその唇をゆがめてしまうのだ。その癖が、今日も顔を見せたらしい。
別に君が怒ることはないだろうにと思いながらも、エルディスはベッドに腰を掛けたまま瞼に昼間の光景を浮かばせる。
――己の騎士が紋章教の英雄と認められ、そうして黄金という称号まで与えられた、あの光景を。
反面、ガザリアは半ばその行為を受容しただけのようなもの。この部分だけを切り取るのであれば、確かに侍女が眼を揺らめかせる気持ちも分からないでもない。
それでも、女王たるエルディスに対して、何か行動を起こすべきだったなどというエルフは早々いるものでもないが。だがヴァレットのそんな一面が何処か喜ばしいと思うからこそ、エルディスはこの人間らしい情緒を持つエルフに、己の侍女の役目を与えていた。
「正直、何も思わなかった、といえば嘘を吐くことになるね」
それは、当然の事だ、ヴァレットに言われるまでもない。
昼間の式典の中で、幾度己の中に醜悪そのものとも言える感情が浮かび上がった事か。幾度己の造り上げた表情が崩れそうになった事か。
本音を言うならばあの場でフィンという肩書を引き裂いてでも、ルーギスを抱きしめ己のものにしてしまいたかった。
だが、己はガザリアの女王。よもやあの観衆の前でそのような行動を取るわけにはいくまい。
それに己の真に望む所は、名ではなく実。華そのものでなく、地中に潜む根の方だ。
言わば今日の式典は華々しく咲き誇る花弁のようなもの。それは、口惜しいが彼らにくれてやろう。だから己は、実と根が欲しい。エルフとは、元来そういう生き物だ。
気を長くもち、じっくりと、ゆっくりと時間をかけて狙った獲物を手の中に収め込む。その為には多少の苦渋や辛苦も、歯で噛んで味わおう。それが必要な行為であると信じればこそ。
だからこそエルディスは、今までルーギスにある種の我儘を赦してきたし、今日のような振る舞いも目こぼしをしよう。
ああだが勿論、頂けるものであれば根も実も、花弁も名も全てこの手に収めてしまいたいが。まぁそれは、いずれの事で良い。その為の種は、もう撒いている。
ゆらゆらと唇を波打たせながらそう語るエルディスに、ヴァレットはむぅと眉根を上げながら言葉を返す。
「私はそういったエルフ特有の気の長さが性に合いません。そうやって長い目で見ている内に、欲しいものを誰かに取られてしまい、獲物は背を見せて逃げてしまうかもしれませんよ」
本当に、ヴァレットの言葉はどこまでもエルフらしくない物言いだ。エルディスは思わず笑みを浮かべながら、碧眼を細めて言葉を、放った。
「――逃がさないよ、絶対に。逃がすはずがないじゃないか」
エルディスは、相変わらずその表情に笑みを浮かべていた。優し気な、本当に友に語り掛けるかのような、そんな表情。
けれどもその碧眼だけは、別だ。先ほどまでの優美さすら感じる雰囲気など吹き飛んでいる。
今では煌々とした光を灯しながらも、まるで心臓を食い破ってしまうかの様な獰猛さが、明確に瞳に刻まれていた。
憤怒に依るものであろう、何処か朱の色すら帯びていたヴァレットの顔が、途端に色を失っていく。彼女は主の此の眼が、何を指し示すものか、よく知っていた。
「ルーギスはね、かつて僕を逃げられないようにしてやろうと、そう言ったんだ」
それは、かつて塔の中で交わされた、それこそエルディスとルーギスしか知らぬ、蜜のように甘い記憶。あの頃を思い出すだけで、エルディスの胸は恍惚の表情に蕩けてゆく。
ああ、あの頃が永遠に続いてしまえば良かったのに。そんな馬鹿げた事すら考えてしまうほど、塔の中で彼と二人で過ごした日々のなんと心地よかったことか。その中でルーギスは確かに、言ったのだ、エルディスを逃がさず、己から離さないと。
「だから僕も、彼を逃がさない事に決めた――私が決めたという事が、どういう意味を成すか分かりますね、ヴァレット」
エルディスの漏らした言葉は、もはや先ほどのような気さくな声色ではない。優し気な、友に語り掛けるような口調でもない。
紛れもないガザリアの女王としての、何処か冷徹さすら含んだ、声。
ヴァレットは少しばかり肌を震わせながら、それでも尚女王の侍女として、恭しくその頭を垂れた。
「――はい、フィン=エルディス。貴女様の決定は、我らエルフ、我らガザリアの総意に違いありません」
ヴァレットのやや固さを見せる声を前にしてエルディスは碧眼を大きく開き、頷いた。
そうして次には自ら空気を和らげるように肩を軽く竦める。もう、その碧眼は何時も通りの様子に戻っていた。
エルディスはそう言えばと、軽い雑談でもするかのように唇を開く。
「ルーギスはどうやら、ちゃんと贈り物を受け取ってくれたんだね。本当に、あの姿を見れただけで此の式典には価値があったよ」
主の柔らかな言葉に応じるようにヴァレットは軽く頷いた。
「はい。此の日の為に造り上げたルーギス様専用の軍服と装飾品です。お気に召して頂けたかと」
侍女の言葉に頷きながら、エルディスは昼間ルーギスが身に着けていた深緑の軍服と、そして幾ばくかの装飾品を眼に浮かべた。小さな唇が、嬉しそうに波打つ。
その表情は純粋に贈り物を受け取って貰えた喜びを表現しているというのには、やや、相応しくない。それよりもむしろ――まるで己の企みが至極上手くいったとでも言いたげな、妖艶な色を含んだ笑みだった。