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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第百九十九話『英雄の光景』

 儀礼台周辺に集まった市民達の声が漏れる度、その声が空気を盛大に震わせ、俺の肌をひりつかせる。人の声とは集まればこうも質量を持つものなのだと、俺はこの時初めて知る事になった。


「そうして、英雄として生まれ出でた貴方に、二つ目の名を――紋章を、与えましょう」


 儀礼台の上で傅いたままの俺に、マティアがそう言葉を告げる。


 瞬間、また声が質量となって世界を震わせた。市民達の声はまさしく空間を割らんばかりであり、ありとあらゆる喜びの感情に満ちている。


 だが、反面俺はといえば、頭を垂れたまま眼を見開き、頬をひくつかせていた。


 待て、マティア。俺はそんな事を聞いた覚えも、了解した覚えもない。


 ――此の世の真理は探究の中にあり、紋章がそれを指し示す。


 其れは紋章教徒が語る決まり文句の一つ。紋章教が知識と文字に対する狂的なまでの執着を見せる根源は、神が残したと言われる紋章にある。


 かつて存在したと言われる運ぶ神オウフルは、人々に真理の紋章を与えた。人々はその紋章によって知恵を得、理性を育み、そして文化を築いた。誰もが神の与えた紋章を崇拝し、そして紋章に与えられた知識と文字を尊んだ。


 だが時の流れと共に知識は擦り切れ、文化は滅びゆき、そうして崇拝は形骸化する。


 流れゆく時の中で、神に与えられたはずの紋章の意味を、何時しか誰もが理解できなくなってしまった。ゆえにこそ、人々は未だ争いを続け、己の欲の為にしか生きられなくなってしまったのだと、彼ら、紋章教徒は語る。


 紋章教徒の目指す所は、神より与えられた紋章が示す真理を今一度人間の手に取り戻し、此の世に秩序を取り戻すこと、であるらしい。


 そんな経歴からだろうか、彼らにとって紋章とは、かけがえのない意味を持つ。


 それこそ、紋章の映し絵を踏みつけただけで、処刑されたものがいるとすら伝え聞いたことがある。まぁ、それはあくまで伝聞でしかないが、それ位彼らが紋章というものを大事にしているのは事実のはずだ。


 だからこそ、紋章教徒にとって固有の紋章を与えられるという事は、至上の名誉。それこそ教団の中でも類まれなる功績を掲げた者や、マティアのように聖女の地位を得ているような人間に与えられるものであるはず。


 それがどうまわりまわって、俺に与えるなんていう話になるんだ。


 そもそも俺は紋章教徒ですらない。第一、お前らが崇拝している紋章の形だって俺はよく知らんぞ。そんな俺に紋章なんて大層なもんを与えてしまえば、紋章教徒の中にだってある種の軋轢が生まれたっておかしくない。


 それに俺が今日の式典で聞いていたものと言えば、英雄としての肩書を形ばかりでも構わない、受け取って欲しいのだと言われただけだ。紋章だの何だのという話は、欠片ほども聞いてはいない。


 胸中に動揺を浮かばせながら、数度瞼を瞬かせ、僅かに頭をあげてマティアの方を見やる。何かお前、言い間違えでもしてるんじゃあないのかと、疑いの色を含めた視線で。


 マティアは俺の視線に気づいたのだろう。視線を受け取った後、ゆっくりと頷きながら丁寧にその表情に笑みを浮かべた。まるでそれこそ、此れで全ては上手くいくのだと、安堵しきったような表情だ。


 その表情を俺の眼が映した途端、胸奥にふと、一つの疑念が声をあげた。


 ――こいつ、もしかして俺を嵌めたんじゃあないだろうな。


 背筋を何か冷たいものが這って行くのが、わかった。


 助けを求めるように、今度はマティアの傍らに立つラルグド=アンへと視線を向ける。アンはどちらかと言えば、紋章教の中でも穏健派の人間だ。


 人と人の協調を第一に考える彼女であればこそ、紋章教全体に荒波を立てかねない今回のマティアの言動に対して、何か一つ二つ行動を起こしてくれるのではないかと、そう、思った。


「英雄ルーギス、聖女より貴方に新たなる名が与えられます。どうか、左手をお出しください」


 視線を向けた途端、アンは唇をつりあげて笑みを浮かべつつ、俺にそう言い放った。何一つ、疑問なぞないというような表情で。


 なるほど、そうか。お前も共犯か、アン。


 俺の胸中がもはや纏まり切らぬほどの混乱を覚える中、粛々と式典が進められる。どうすべきか、この場で畏れ多いとでも言って断るべきか。


 いや駄目だ。この市民、兵、商人。ありとあらゆる人間が見守る中、そんな事が出来るものか。


 この式典は紋章教とガザリアが団結し、全ての意志が一致している事を内外に示す為のもの。その中で足並みを乱すような事があれば、その影響がどれほどのものになるか想像も出来ない。まして、聖女の儀式を台無しにしたなどという事になれば、この場で暴徒に襲われたっておかしくないだろう。


 群衆の声が、僅かに潜まり始めている。俺は唇を波打たせながら、言われるがままゆっくりと左手を眼前の聖女、マティアへと差し出した。


 マティアは随分と丁寧な手つきで俺の手に触れ、そして何等かの紋章が刻まれた指輪を、俺の指に通す。まるで壊れ物にでも触れているかのような、丁重なふるまいだった。


 そして再び、周囲一帯にマティアの声が、響く。


「英雄ルーギス、貴方に与える二つ名と、紋章は――黄金。聖女マティアは、貴方が此の名に相応しい真価を持ち、そうしてこの名に恥じぬ高潔さを持つ人物であると、信じます」


 黄金。そりゃあまた、間違いにも程がある。俺は人の目さえないのであれば、その場で盛大にため息でもついてしまいたかった。


 精々俺に与えられるものといえば、詐欺師の黄金か金の鍍金といった所だろうに。黄金だなどと、大外れにもほどがある。


 本当にそんな二つ名、紋章が相応しい人間は、それこそ、そうだ、ヘルト=スタンレーのような、太陽の如き英雄の事を、言うのだ。


 そんな思いがあったからだろうか。きっと本来なら恍惚とするであろうマティアの文句も、俺にはどう受け取っていいものか分からない。果たして素直に受け止めてしまっていいものか、迷う。


 ああ、それこそ他人なら、幾らでも騙すことができるだろう。美麗な言葉を並び立て、良い気にさせて情動を湧きたたせる。そんな事、俺だってよくやった事だ。だが事自分となると、そう簡単に物事は運ばない。


 何せ人間は自分自身に対してだけは、決して嘘というやつがつけないのだから。


 幾ら己の胸の裡に対して嘘言を吐き、本音に蓋をしてやっても、いつの間にか悪魔か何かの指がその蓋を開いてしまっている。


 そんな、何時もの様にぐるりぐるりと思考を回している中、ふと頭の上から言葉が降りて来た。


「――ルーギス。目線を上げなさい」


 それは、先ほどまでのものとは違う。周囲に響き渡らせる為のものではない、何時も通りのマティアの声だった。声につられるようにして、顔を上げる。マティアの顔には相変わらず、何処か慈愛を含んだような笑みが、浮かんでいた。


 その唇がゆっくりと、開く。


「貴方が考えていることは、おおよそ理解しているつもりです。称号が自分に相応しい、相応しくない。そんな事は、きっと貴方だけでなく。誰もが思うことでしょう。それこそ私だって」


 それは、まるで俺が胸中で考えていた事をそのまま掬い取ったかのような言葉で。俺は思わず言葉を返すのも忘れて、マティアの眼を見つめていた。


「勿論、己の内面と語り合うことが悪とは言いません、ですが、全ての真実が内側にあるわけではないでしょう。たまには、外を見つめてみるのも良いものですよ」


 そう、言って。マティアは俺の手を取ったまま、身体を立ち上がらせる。


 俺の左手にはマティアが差し出した指輪がはめ込まれていた。そこに刻まれた紋章は、彼らが崇拝する紋章の形とは、また別。黄金の意を指し示すであろう紋章が、刻まれていた。


 マティアに促されるまま立ち上がり、群衆の側を、振り向く。


 ――其処には音が、あった。それこそまさに、世界を震わせるような音が。


 肌が、ひりつく。人々の視線が、声が、質量を伴って俺へと突き刺さる。それこそ痛みを覚えてしまうほど。俺はこんな経験をするのは、初めてだ。だがその光景にだけは、不思議と見覚えがあった。


 そう、確かに見た覚えがある。


 その視線や声は、かつての旅路で俺には一度たりとも与えられず、だけれども、旅路を共に行く彼らには与えられたもの。そして俺が、心の底から憧れていた、それ。


 英雄と、そう呼ばれた者達が受け止めていた視界が、確かにそこにあった。


「人の眼は、時に唇よりも雄弁に真実を語るもの。どうでしょう、ルーギス。貴方に向けられた眼は」


 そんな傍らで語られたマティアの言葉が、耳朶を優しく撫でる。それに何と答えるのが一番であるのか、俺には分からない。


 ただ不思議な事に、あれほど凝り固まっていた疑心は知らぬ内に胸中から消え去っており、今はただ身体中を震わせるような奇妙な動悸だけが、あった。

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