第百九十八話『漏れ出でた産声』
それはガルーアマリアという都を舞台にした、盛大な宴だった。
日々を労働に費やし、ただ少ない日銭を稼ぐだけのものですら、今日この時ばかりは酒を片手に笑みを浮かべる。それは男も、女も変わりはない。
ただ祝い、ただ歌う。それが純粋に許される場。それが、今日の宴だった。
儀礼、式典、同盟合議。呼び名はきっと様々だろう。だが何にしろ此の日、紋章教とガザリアの同盟を祝福し、永遠の友であり続ける事を願う為の宴が開かれる事は確かだ。
未来への不安は、ある。何せ圧倒的な勢力を誇る大聖教と諸国家が、我らに牙を向けているのだ。ひょっとすると、今日共に祝いあった者が、明日にはその命を落としている事だってあるだろう。戦場はすぐ傍らまでその身を寄せている。
だからこそ、今日は笑おう。冷たい風が吹きすさぶ明日を憂うのではなく、今を祝おう。
生きるとは、過去に対し嗚咽を漏らすことではなく、未来を見つめて恐怖に戦くことでもない、ただ今此の時を歩むことを言うのだから。
そんな誰かが抱いた気持ちに共感するように、ガルーアマリア全体が、活気に満ち溢れた吐息を漏らしていた。
式典が開かれたのは、その活気の中心地である一つの広場。
その広場には式典に必要となる種々の建設物と、そして一際大きな儀礼台が備えられていた。
儀礼台は積み上げられた白石の上に造り上げられ、その上部に存在するものが周囲からよく見えるようになっている。乱れなく並び立てられた白石が陽光に照らされ、見る者に荘厳な雰囲気を与えていた。
儀礼台の上に座するのは、紛れもない紋章教とガザリアの代表者達。
即ち、聖女マティアと、ガザリアの女王フィン=エルディス。互いの友好を示すように、彼女らは隣り合い、僅かに言葉を交わして笑みを浮かべている。
それが彼女らが元々織り込んでいたものなのか、それとも自然に交わされた会話なのかは分からない。だが市民の誰もが、その光景を見て、こう思う。
紋章教とガザリア、人間とエルフは紛れもなく、今この時をもって手をとりあったのだ。その絆はきっと鉄鎖の如く。紛れもない友好の印が、此処にあるのだと、皆が、思った。
もっとも実の所は、そうでもないだろう。人間とエルフ、種族の壁というものは思いのほか、深い。互いの慣習も、文化も、言葉すらも一部は重なり合わない。
もしかするといずれその道を違える事も、あるやもしれない。
けれども、今日ばかりはガルーアマリアの市民達も、ガザリアのエルフ達も、互いの友好を確かめ合った。それを事実のものにしようと、語り合った。
それが儚いものに終わるのか、それとも永遠のものになるのかは、未だ分からない。
「本日、此の時をもって、我らの絆は史上に刻まれる事でしょう」
聖女マティアのよく響く声が、空を覆った。儀礼台を囲む市民達が、波打つようにざわめき、その声に応える。もはやそれは歓声なのか、それともただの膨大な音の塊に過ぎぬのかもよくわからぬほど。それだけの音が、儀礼台の周囲を、漂っていた。
「エルフと人間、此処に種族の垣根はなく、我らは我らを害する全てに、誇りをもって立ち向かう事を誓おう」
ガザリアの女王フィン=エルディスの声が風に揺られ、揺蕩う。聖女マティアに対する反応と変わらぬ、むしろより強いとすら思える反応が、ガルーアマリア全体を包み込んだ。
市民達は誰もが歓声を漏らし、身体全体で喜びを示しながらも、彼女らの声を少しでも聞き洩らさぬようにと、耳を立てる。
一つ、また一つ言葉が刻まれ。ガルーアマリアが振動し、また声が響き渡る。それが数度繰り返された後、聖女マティアの傍仕え役であり、式典の進行役であったラルグド=アンが、場を見計らったかのように口を開いた。
「では、此れより紋章の儀を執り行います――ルーギス、前へ」
その言葉と同時だっただろうか。儀礼台に備えられた階段から続くようにして作られた一つの道の上、その彼が、姿を見せた。
名を、ルーギス。
市民の中には彼を知り、声をあげるものもいれば、一体だれなのだと訝しがる顔もある。その中、一本の開けられた道を、彼は歩く。
その装いは何時ものどこか粗雑さが見える服装ではなく、深緑を基調にした軍服に近い装いだった。腰元に備えた宝剣が陽光を反射しながら、鈍い音を立てる。
彼の歩き方は、余り儀礼的なものとは言い難い。むしろその動きは自然体に近く、ゆらりゆらりとどこか揺れ動いている。だが、市民は勿論、アンや儀礼台の上に座する者達ですら、それを咎めるようなことはしなかった。
誰もがただ彼が道を歩き終わり、儀礼台へと上がっていくのを静かに、待っている。最初こそざわついていた市民達も次第に彼の様子だけを見守るようになり、最後には静寂が周囲を支配する中、ルーギスが歩く音と宝剣が揺られる音のみが、響き渡った。
ルーギスは儀礼台を昇り終えると、そのまま聖女マティアと女王フィン=エルディスの前に、傅く。白を基調にした儀礼台の上、深緑の装いが、よく映えた。
進行役であるアンの口から、事前に決められた口上が述べられる。ルーギスの功績を、それが如何に果敢であり成しがたい実であるのかを、周囲に染みわたらせるように。そしてそれら全てがまるで彼一人で成し得たことであるかのように、告げる。
ルーギスとしては、恐らくその胸中に無茶苦茶をいうものだ、とでもいう感慨が芽生えていることだろう。しかし何、儀式などというものは大概は大袈裟に行われるものだ。
紋章の儀とは、只人を、英雄として変生させる儀式。本来人に過ぎぬ誰かを、紋章教の神の名を借りて、何者かへともう一度生み落とす、そんな儀式だ。
周囲に響き渡っていたアンの言葉が、終わる。示し合わせたように聖女マティアが一歩前へと、出た。
「――只人ルーギス。貴方に英雄として、再び此の世に生まれ落ちる意志はありますか」
傅いた恰好のまま、僅かに視線を上げてルーギスは応える。髪の毛が、風に揺られた。
「――ええ、あると信じましょう」
その答えに、僅かに聖女マティアは頬を緩めた。決して、周囲から読み取られぬ程度にではあるが。もとより定めていた受け答えと違うではないか、と、ルーギスに対し笑みを零している。
だがそれも、構わない。何にしろ、ルーギスは受け取った。紋章教の麾下となる事を。紋章教の英雄となる事を、確かに言葉に出して、了承した。それだけでマティアの心は、溶ける想いだ。それこそ決して、表情には出せないが。
「では我らが偉神オウフルの名において、ルーギスよ、今より貴方は英雄となる。神は貴方の列席を歓迎されるでしょう!」
マティアの空気を貫くような言葉に、観衆が、沸き立つ。
それは、まるで炎が噴きあがるような歓声だった。観衆そのものが一つの生物であるかのように、躍動する。
今彼らの眼前で、一人の英雄が生まれた。
英雄。全てを救いあげるもの。運命の寵愛を受けたもの。歴史を塗り替えるもの。それが今、目の前に。誰もの心が、高揚する。今、己らこそが歴史の生き証人となるのだという、胸奥のざわめきがあった。
ルーギスはその歓声の中一人、僅かばかり目を細めていた。その胸の奥にどのような情動が渦巻いているのかは、それこそ神すらも知り得ない。
ゆえに明確であるのは、ただ一つ。今此処に彼、ルーギスの物語がようやく、その産声をあげたという事だけ。
周囲の騒音がようやく少しの落ち着きを見せた頃だっただろうか。マティアは見計らったかのように再び声を、漏らす。
「――ルーギス。いえ英雄ルーギス。新たなる貴方の誕生を祝福しましょう」
妙に滑らかで、それでいて情動が存分に込められたマティアの声が、ルーギスの肩を撫でる。
「そうして、英雄として生まれ出でた貴方に、二つ目の名を――紋章を、与えましょう」
聖女の唇が、風に揺蕩う様に、揺れた。