第百九十六話『揺れる天秤』
「私はね、背中を見せて道を戻ってしまうことだって、一つの選択だとそう思うの」
手元で賭け札を広げながら、フィアラートは呟くように、言った。何だ、そんなに手札が悪いのか。言っておくが降りるなら早めに降りてくれ。そうすればこっちだって無駄な駆け引きをしなくてすむ。何せどうにも、俺の手札もよろしくないのだ。
「兄ぃ、姉御はなんの話をしてらっしゃるんで」
知らんとばかりに、ウッドに向けて首を振る。
ウッド、かつてガルーアマリア貧民窟の住人にして、俺を兄貴分などと呼んでくれた彼は、今は妹と共に壁の内部に居を構えている。所々床板が軋む部屋を見るに、流石にすぐさま立派な住居をとはいかなかったようだが、それでも貧民窟に比べれば十分良質と言えるだろう。
俺は砦の中に自室を持つようになってからも、時折、ウッドの住処を訪れるようにしていた。
砦の中の人間は、殺気立っているとまでは言わないが、何処か肌がひりつくような雰囲気を常にその身に纏わせているのだ。それが悪いというわけではない。むしろ砦を守る人間が常に緊張感を持って生活を成しているというのは喜ぶべき事なのだろう。しかし、そればかりでは余りに息が詰まる。
そんな窮屈な砦の中に比べ、ウッドや彼の妹セレアルのように、穏やかな性根を持つ人間と接するのは、殊更、気が落ち着く。まるで骨の髄まで休まるような気分になるのだ。
だからこそ、俺は土産を適当に身繕っては此処に来るようにしてたのだが。今日は一人、闖入者がいた。テーブルを挟んで俺の眼前に座している女、フィアラート=ラ=ボルゴグラードだ。
「決まっているじゃない、貴方の事よ、ルーギス。貴方の、これからの事。はい、三役」
フィアラートはそう言いながら丸いテーブルの上に手札を開く。俺は思わず眉を顰めつつ、軽く首を傾げるようにして、言った。
「嵌められた、一役だ。それでなんだ、この前の私刑の事を言ってんのか」
此処にはいないカリアの真似をするように唇を尖らせ、土産にと持ってきたチーズをフィアラートの前へ投げ置く。
これでもう俺は賭けるものがなくなった。別段、ウッドとセレアルにくれてやるつもりで来たのだから、問題はないと言えばないのだが。賭けで巻き上げられたとなると多少はひねくれもする。
「私刑だなんて人聞きが悪いわね。全ては正当に行われたし、それに結局は物事を単純にしただけでしょう?」
そう言ってフィアラートは唇をにぃとつりあげる。それは加害者の言い分だろうに、被害者の言い分も少しばかりは考慮して欲しいものだ。
真っすぐにこちらを見据える黒い瞳は、妙に煌々と輝きを有していた。その輝きがまた黒い髪の毛と合わさってよく映え、思わず視線が奪われる。フィアラートはかつての旅の頃から、時折このように、西方の人間がしない表情や、瞳の輝きを見せることがあった。
それはもしかすると、東部の人間が持つと言われる、一種の妖的な魅力というものなのかもしれない。
鼻孔を、僅かにワインの甘い匂いが撫でた。
「でも、はっきりしたでしょう。紋章教にしろ、ガザリアにしろ、もう貴方を手放す気なんて僅か程もない。今は良いわ、紋章教もガザリアもその手を合わせているから。でもいずれ必ず、さぁお前はどっち側だ、って言われる日が来るでしょうね」
まぁ、求めているのは両勢力がというより、その頭目がというべきかしら。そんな風に言いながら、フィアラートは目を細めた。その黒瞳に浮かぶ情動は何処か楽し気なような、それでいて苛立ちを含んでいる様な、何とも表現しかねる様子だった。
「ならよぉ、最後は、ルーギスの兄ぃ次第ってわけだぁ」
ウッドはその厚い唇を開き、炒った豆を音を立てながら砕いた。
フィアラートが土産に持ってきた鶏肉もあるだろうに、どうにもウッドはその豆が気に入ったらしい。いや、彼の事だから脂のついた鶏肉だの柔らかいパンだのは、妹の為に置いているのかもしれなかった。
フィアラートはまとめ上げた黒髪を僅かに跳ねさせ、何処か遠くでも見るように瞳を更に、細めた。俺はテーブルの上に広げられた炒り豆を一つ、口に含ませる。塩が塗りたくられているだろうに、まるで味がしなかった。ただ、僅かに舌が痺れる感触があるだけだ。
「それで、ルーギス。貴方はどうするのかしら。きっと誰もかれも、貴方に決断を求めるでしょう、覚悟を求めることでしょう。それが貴方の責務だってね」
俺はフィアラートの言葉に、唇を開くことができなかった。ただ陶器に注がれたワインで少し、唇を濡らしていた。これも、随分と味が薄い。
隣ではウッドが、瞳を丸くしながらフィアラートの言葉を聞いている。
「贅沢な悩みかもね、今貴方はさぁ何処に自分の名前を書き込むのか、って脚本を広げられているようなものだもの」
フィアラートの黒い、何処か妖しい雰囲気すら漂わせそうな瞳が、俺を真っすぐに見据えていた。黒瞳の中に、俺の姿が映り込んでいる。その瞳が発する圧力にどうも耐え切れなくなって。俺は知らず唇を開き、どうだかね、と、殆どその場しのぎのような言葉を漏らしていた。
別に、フィアラートは俺を追い詰めようとしてそんな言葉を発しているのではないと、理解はしている。俺を突き放す為に舌を捏ね回しているわけでもないだろう。だけれども、どうにも、フィアラートの言葉が耳朶を打つたび、胸の奥底が固くなっていくような感触があった。
「だが、まぁ。もう、逃げるような無様は晒さないさ。逃げたって、その先には結局――」
結局、かつての旅の頃と同じく、何もこの手の中に収められぬ未来が残っているだけだ。胸を焼け焦がし、諦念という焦げ跡だけ残る、そんな果てが待っているだけだ。
ああ、それだけは、御免だ。きっと今の俺を突き動かしている何より大きな情動は、それなのだろう。あの辛酸そのものとでもいうべき過去が、俺の足を無理矢理に動かしているのだ。
そう、とフィアラートは大仰に肩を竦め、ぐいとこちらに顔を近づけながら、言う。
「――なら、前に進んでいるつもりで、ただ目的もなく逃げる事から逃げているだけ、なんて馬鹿らしい事にならないよう気を付けてね、ルーギス」
フィアラートの端正な顔つきが、俺のすぐ傍にあった。思わず眼を見開き、背筋を後ろにそらす。心がどこか痺れるような、跳ね上がるような感覚が、あった。きっと今の俺の顔は歪んだようにひくついているに違いない。
反面、間近にあるフィアラートの表情は何処か余裕すら含んでいる様子だ。おかしい。少なくとも、この時代においてのやり取りでは、フィアラートが俺の言葉に動揺する事の方が、多かったと思うのだが。
喉を唾が舐めていく音が、鳴った。間近で漏らされたフィアラートの声が、脳に響く。
「私はねカリアやマティア、エルディスのように、貴方に強くあれだなんてとても言えない。それが、どれだけ困難で、どれだけ貴方の身を引きちぎる行為であるか、よく分かっているから」
それは、淡々とした声だった。情動が込められていないわけではない、言い聞かせるような声でも決してない。ただありのままの事実を告げるような、そんな声。
「人はそう簡単に強くなんかなれない。平凡である事だって、どれだけ大変な事か。少なくとも私はそうだったし、弱い己を強く見せようと思えば、魂が削り取られる結果に終わる事も分かっているつもり」
強い光を放つ黒眼が、僅かに、翳りを見せる。流石にその言葉の奥にある過去そのものまでは読み取れないが、その意味くらいは、俺程度にも理解が及んだ。
彼女にこんな言葉を吐かせてしまったことは、何とも、情けないと思うべきだろうか、それとも有難いと思うべきだろうか。それとも、無様だとでも思おうか。
駄目だ。やはり唇は開けそうにない。今少しでも喉を鳴らしてしまえば、感情の奔流が波となって漏れ出てしまうだろうから。
「何だか、纏まりがつかないわね、ごめんなさい。とにかく」
少し恥ずかしそうに唇を小さくしながら、フィアラートは言葉を続ける。
「私は、貴方がどんな判断をしようと、味方のつもり。だからまぁ、安心しなさい、それだけよ。それに、もし貴方が強くある事を、英雄である事を望むのなら――私は必ず貴方を黄金にしてみせる」
何と、美しい。俺に向けられた黒い瞳は、紛れもなく、美しかった。間近にあるその瞳は、俺の視線全てをからめとってしまう。
きっと俺はそこで言葉を返すべきなのだと思う。感謝でも謝罪でも、なんでもよい。言葉を返す、べきだ。だがやはり胸がどうにも詰まってしまって、喉は全くと言ってよいほど、音を漏らしてはくれなかった。
だから、次にフィアラートが耳元で囁いた言葉に対しても、俺は何も答えずに、聞いていた。
――それにもし、貴方が逃げ出してしまいたいのなら、安心しなさい。何時だって、貴方が逃げるべき場所は、私が作ってあげるから。
フィアラートの唇から漏れ出たその音色は、何処までも甘く、耳の奥を蕩けさせた。




