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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第百九十五話『式典の前』

 紋章教とガザリアの合同会議は殆どは恙無く、一部では悍ましい炎をまき散らしながらも、終了自体は無事に迎える事が出来た。


 もともと紋章教にしろガザリアにしろ、大聖教に対して力を重ね合う事には何ら異論もあるはずもなく、むざむざと降伏をし、大聖教に腹を見せるような事もまた有り得ない。


 ならば後は、方針を定め導くだけ。勿論双方、会議の内容に含む所や思惑はあれど、少なくとも大枠としては問題なく終わったのだと、ラルグド=アンは理解している。


 ゆえにこそ、残る懸念は後一つだけ。


「聖女マティア――英雄殿、ルーギス様の処遇はどうなされるおつもりです」


 記録皮紙の束を執務室の机に乗せながら、アンは唇を舐めた。


 結局の所、会議の中でそれは明言されなかった。ただルーギスに対して、幾つかの取り決めと、契約が交わされたのみ。勿論マティアにしろエルディスにしろ、何等かの思惑を持ってその部分には切り込まなかったのであろうが。


 マティアは自らの執務椅子に深く座り、眼をゆっくりと開きながら、言った。


「英雄にするのですよ、勿論。もはや論ずる余地は欠片ほどもありません」


 マティアは鋭い口調で断言した。その言葉に、ほんのりとアンの頬が朱に染まる。それは何処か、胸が高揚したような面持ちだった。


 今までアンは英雄殿、勇者殿などとルーギスの事を呼んではいたものの、実際の所ルーギスが本当にそのような地位を得ていたわけではない。


 紋章教にしろガザリアにしろ、正式にルーギスに対して英雄、もしくは大騎士のような称号を与えていたわけではないのだ。


 何せそのような話を欠片でも持ち出せば、ルーギス自身が何処か困惑のようなものを見せだし、そしてのらりくらりとした様子でそれらを避けてしまう。上昇願望がないというわけでもないだろうに、いざ栄達の光を浴びせられると、狐のような警戒心を見せて遠ざかっていくのだ、ルーギスという人間は。


 それも、出会った時と比べて少しばかりは弱まってきたようにも思えたのだがと、アンは唇を指でなでる。


「ルーギスはガルーアマリア奪還戦で私を救いました。そうしてガザリアも。加えて、今回は傭兵都市ベルフェインを陥落せしめる大功。英雄と呼ぶには、十二分でしょう」


 此れであれば、例え反対派がいても押しつぶせる。実際にそのように言いはしなかったが、聖女マティアの胸中にはきっとそんな言葉も浮かんでいるのだろうと、アンは思った。


 紋章教内にはルーギスという人間を大いに賞賛する声もあれば、逆に疎ましそうに罵る声も当然に存在する。なにせ、ルーギスの行動は突飛が過ぎる。常人ではとても理解が及ばぬ選択や行動に対し、彼は何を悩むことがあるのかとばかりに手を伸ばしてしまう。


 アンとてルーギスの奔放さに辟易した回数は数え切れぬほど。であればこそ、彼の存在を望ましいものではなく、むしろ危険因子だと考える人間がいた所で、何らおかしくはない。


 だが、そんな彼らを押しのけてでもルーギスを英雄にするのだと、マティアは言った。


「今日の会議において、彼の考えはよく、理解しました。下手を打てば、蝶の如く彼はふらりふらりと何処ぞに逃げ去ってしまうことでしょう――そして私は、下手を打つ気はありません。その為に今日、彼から約束を奪い取ったのですから」


 その会議とは、紋章教とガザリアの合同会議を指しているのではないだろうなと、アンは眼前に積み上げられた記録皮紙を見つめ思わず頬を歪める。表情を直すように、指で頬を抑えた。


 あの数時間は、アンが今まで体験した中で最も苛烈で、最も熱を帯び、そして誰もが真剣さを一切失わぬ、そんな望ましい会議の姿そのものだった。


 聖女マティア、フィン=エルディス、カリア=バードニックに、フィアラート=ラ=ボルゴグラード。まさしく凡庸とはかけ離れた彼女らが造り上げた言葉の積み上がりが、此の記録皮紙には全て記録されている。ある意味で、壮観だ。


 ――最も、その目的がただ一人の英雄を手に収めんが為というのは、何処か魔性の意味を帯びるが。


 しかもその大元にあるものが、打算や功利などではなく、燃え焦がれるほどの情動だというのだから、全く救いようがない。聖女マティアに至っては、今まで見たこともない顔つきに、聞いたこともない声を響かせていた。時にその眦に緑色の火すら灯して。


 本来の己であれば、きっと聖女を軽蔑すべきなのだろうと、アンは思う。


 何せ己が信望し、そして此の方こそが聖女であると崇拝したのは、打算と理性をその頭蓋の中へ抱えたマティアなのだ。胸に浮かび上がった情動のままに声を漏らし、表情を変えるような不様な存在では決して、ない。


 そうだ、だから己は聖女マティアを侮蔑するべきだとは、思う。それが恐らく正しい事なのだとアンは理解している。


 だけれども、どうしてだろう。どうにもそんな気持ちに、なれないのだ。


 勿論今の今まで尊敬し、長きを共に過ごしてきた聖女をそう簡単に見放す事など出来はしないというのもあるだろう。そのような人間らしい義理や情けというものが己の中で息を吹いている。そういった思いも確かに、あるとは思う。


 だが本質はもっと、別だ。別の所にある。アンは歪に震えそうになる頬を再び、指で抑える。


 あの会議中、もはや進退窮まったとでも言うが如く言葉を詰まらせる英雄殿に、槍の如く鋭い視線と熱のこもった言葉を浴びせかける、彼女ら。


 その言葉が一つ放たれる度に空気が軋みをあげ、空間が嗚咽を漏らしたのを、アンはよく覚えている。


 しかしその中でふと、アンは困り果てたようなルーギスの表情を見て、胸が、騒いでしまった。そのような状況であれば、今まではただ己も困ったように笑みを浮かべるだけだった、はずなのに。あの時確かに、アンは、思ったのだ。


 ――ああ、英雄殿を追い詰めるのは、何て楽しいのだろうと、そう、思ってしまった。


 だから、アンはマティアを軽蔑する気にも、侮蔑する気にもならなかった。それよりももっと熱く、それでいてどこか粘度の高い情動が胸を、埋め尽くしていた。


 また、頬が揺れる。アンは指を添えて表情を、直した。


「恐らくは、ガザリアの側も同じようなことを考えていることでしょう。アン、明後日の式典までに用意を整えてください。そこで彼に英雄の肩書と――彼に相応しい紋章を授けます」


 紋章の内容は、私が考えましょう。そう唇を波打たせながら、聖女マティアは執務机に向かってしまった。


 紋章を、与える。


 なるほど、聖女らしい考えだとアンは心の中で呟いた。本当に、ルーギスを英雄の座に付かせる事を反対する者らに対して、一切の考慮は行わぬ方針であるらしい。


 式典とは、合同会議後の予定に含まれていた、紋章教とガザリアの決起集会のようなもの。互いの永遠の友好と勝利を願うものでもある。


 そしてそれは、今日行われた会議のような、内々のものではもはや、ない。紛れもなく公的な、紋章教とガザリアの歴史に刻む内容になる。その中でマティアは、ルーギスを英雄に仕立て上げると、そういうのだ。反対派やフィン=エルディスの胸中を想像すると、それだけで背筋が粟だつ。


 だがまぁ、それも構わない。実の所、アンの胸中に至っても、もはやガザリアにルーギスを引き渡すのが最善であるという考えは色を失い始めていた。


 それは果たして、聖女マティアの意を汲んだからこその考えであるのか、それとももっと別の、もはや愚かしいと言えるほどの感情に沿ってのものであるのかは、アン自身にも、よく分からなかった。

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― 新着の感想 ―
全部ルーギスのせいだね
[一言] 見て!アンちゃんがルーギス君の下の世話(尻拭い)で苦労してるよ かわいそうでカワイイね ルーギス君が苦労をかけ続けるからアンちゃんは病んでしまいました。 ぜ〜んぶルーギス君のせいです。 あ…
[一言] アン、お前もか… でもくっそ苦労してたからなぁ…
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