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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第百九十四話『何かの奴隷』

 ガチャリ、ガチャリと軍靴が、馬の蹄が音を奏で合う中、一つの言葉が響いた。


「リチャード大隊長、未だ彼らが離れようとしませんが」


 そう呼びかける副官ネイマールの声に、リチャードは鬱陶しげに目を細めながら首を振り返らせる。しかしすぐにそのまま、前を向いてしまった。


 ネイマールは大隊長の行いに表情を曇らせつつ、自らも後ろをそっと振り返る。視線はすぐ後ろについて回る部隊の兵などではなく、そのずっと後ろ。最後尾だ。


 そこには、明らかに大聖教に派遣された騎士や兵の類ではない、人間の群れがあった。男も女も、老いも若いも関係がないとでもいうように、ありとあらゆる種類の人間がゆらゆらと揺れながら街道を歩いている。


「義勇兵とかいう輩だ、好きにさせとけ」


 馬の顎を軽く振らせながら、リチャードがそう告げる。ネイマールはその言葉に、思わず頭の隅が固く、そして重くなった感触を抱いた。


 好きにさせておけ、ではないだろう。


 彼女、ネイマール=グロリアの唇が知らず波を打った。鋭い眼がより一層細くなり、大隊長の背中を貫いていく。


 義勇兵と言えば聞こえは良い。確かに彼らとて今はその胸に宿した使命感だの宗教的熱意だのに浮かされている事だろう。自らを正義の使者だとでも思っているのかも知れない。


 だがやがて時間が経ち、腹が減り、その意志が萎えてくれば、彼らはあっという間にただの武器を持った暴徒に過ぎなくなる。


 それも当然だ。自ら義勇兵を志願するような農民、貧民という存在は、規律などという言葉とは程遠い存在なのだから。理性など持たず、どちらかといえばよっぽど獣に近い存在なのだとネイマールは理解している。


 ネイマールが生まれ育ったグロリア家は都にて官職に就くような名家ではなく、一地方の雄に過ぎない。それゆえ時には田舎貴族と揶揄される事もあるものの、だからこそネイマールは庶民という存在をよく知っている。


 教養もなく、品性もなく、口を開けば嘘をつき、強かに弱者を演じる。一度でも上手い目を見れば、すぐ図にのって増長する。それが、彼らだ。時に貴族の館に火をもくべようとする獣の如き存在だ。


 そんな彼らが武器を持ち、義勇兵など名乗った所で信頼などおけるわけがない。必ずいずれはその武器を周囲の村落に向け、治安を乱すだけの荒れ犬になる事だろう。


 それを、好きにさせておけ、などと。何を言っているのだ。


 ネイマールは一つに纏めた髪の毛を風に靡かせながらも、訝し気にリチャードの背中に何度も視線をやった。唇が、むずがゆい。


「どうした副官殿。前で槍構えてる奴らより、後ろの馬鹿が気になるようじゃあ、戦場は向いてねぇぜ」


 リチャードのしわがれた声がどこか愉快そうに、ネイマールを揶揄うような色を伴って放たれる。


 その言葉にネイマールは殊更に眉をつりあげながら、唇を開いた。どうやら彼女は上官や目上の人間の前にあって尚、気勢がそがれるような性質ではないらしい。その声の調子は弱弱しいものなどでなく、何処か強みを増してすらいた。


「むしろ背後を万全にせずして戦場など出向けないでしょう。大隊長殿は慎重さが足りないのでは」


 そもそもからして、ネイマールはこの老将軍が気に入らぬのだ。何処かしらの後押しがあったとは聞いているが、こんな出自の知れぬ男の下に、下級貴族とはいえ己が据え置かれることが気に食わないし、納得がいかない。


 老将軍リチャード。彼は所作の節々を見ても、とても高貴な生まれにある人間とは思えない上、放つ言葉も粗暴そのもの。どうしてこんな人間が、大隊長などに選任されているのかがネイマールには不思議でならなかった。戦術や戦略という文字を、この男は知っているのだろうか。


「おいおい、ひでぇ面してるな副官殿。まるで親の仇でも見たってぇ面だぜ」


 いつの間にか、リチャードはこちらを振り向いてその白いあごひげを撫でていた。歯を見せて笑う仕草には、やはり品性があるとは思われない。


 ネイマールは余計に視線を強めながら、リチャードから顔をそむけた。


 勿論己の態度が上官に向けるのにふさわしいものではない事は理解しているし、礼節を欠くものであることも理解はしている。


 だがどうしても、ネイマールには目の前の老将に敬意を示す、などという事ができなかった。


「――怖かねぇからだよ」


 その唐突に放たれた声に、えっ、と思わずネイマールは生返事を唇から漏らした。もう、リチャードは前を向いていた。その表情は、うかがい知れない。しかし声が酷く低く、そして冷たかったのが、分かった。


「不様なもんだぜ、見ろよ。正義がどうだ、神がどうだ。あんなのはな、正義の奴隷だ。奴隷を怖がるやつが何処にいんだよ」


 知らずネイマールの肩が跳ねた。よもや今の言葉を兵に聞かれてなぞいないだろうなと、咄嗟に後ろを振り向く。兵達は、不思議そうにこちらを見つめるだけだった。


 今、リチャードが呟いた言葉は、危ない言葉だ。聞きようによっては唯一の神への侮辱ととられかねない様な、そんな言葉。


 ネイマールのような俗権派貴族であればまだいいだろう。しかし兵達は紛れもなく、己の中の信仰心を糧として戦場に立とうとしている者達。そんな彼らに今の言葉を聞かれでもしたら。ろくな事にならないのは間違いがない。


「……大隊長、少しはお言葉に気を付けられた方が良いと思いますが」


 諫める様な、しかし何処か苛立ちを含んだネイマールの声を耳に受けて、リチャードは首を鳴らしながら、嗤った。


「別におかしな事をいった覚えはないがね。まぁ、お前さんも俺の副官なら精々、何かの奴隷にはならねぇように気をつけな」


 そう言ったまま、リチャードはもう振り返ろうとも、言葉を発しようともしなかった。


 ネイマールはどうにもその言葉が気に入らなくて何とか言葉を返してやろうかと思ったが、それはそれでやはり此の老将軍に乗せられている気がして、気にくわなかった。だからただ奥歯を僅かに噛みながら、馬に揺られていった。


 果たしてこんな人間の下で、魔女が率い、悪徳の権化が剣を振るう紋章教を切り裂くことが出来るのだろうかと、尽きぬ不安を抱えながら。

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