第百九十三話『虚ろな熱狂』
ガーライスト王国首都の大街道を、兵が突き進む。大勢の兵がまるで一つの波にでもなったかのように街道を舐めていった。
誰もが堂々と胸を張り、足を高くあげ、意気揚々と大地を踏みつけていく。兵達を市民の歓声が包み込み、人々の発する熱が兵士の胸を昂らせる。
熱狂が、ガーライストを飲み込んでいた。
民、商人、貴族諸侯、聖職者に至るまで。誰もがその鼓動を早くし、血を炎の如く燃え立たせる。固く握った拳を振り上げ、聖戦へと向かう兵士に向け歓声を響かせる。まるでこの時ばかりは、普段彼らを無情に分かつ階級という名の巨壁がなくなったとでもいうように。誰もが、熱狂をあげていた。
そうして、誰もが口々にこう、叫ぶ。
――ガルーアマリアを奪還せよ、再びあの地を、我らに。
城壁都市、あるいは交易都市ガルーアマリア。東西における交易の中心地であるかの土地は、まさしく金塊を産み続ける鶏の如し。所有するものに紛れもない富貴と栄華を与えてくれる、神の寵愛を受けし都。
それを何処ぞの誰とも知らぬ奴らが、奪い去ったのだと、民は語る。異教徒が我らの土地を踏みつけにしていったのだと、憎悪の叫びをあげる。
そして、誰もがこう、言った。ああ、だからこそ我らの暮らしはこれほどまでに苦しいのだ。
だからこそ我らは軋む身体に鞭を打ち、精神を締め付けながら暮らさねばならぬのだ。異教徒が我らの栄光をまんまと奪い去ったのだ。我らの不遇は、我らの不運は、我らの境遇は全て異教徒の手によるものなのだ。
我らは寛容にも彼ら異教徒の事を受け入れた。その未来と救いを約束さえした。だが結果彼らはナイフを我らに突き付けた。もはや彼奴らは忘恩の徒、人の姿をした獣。
民は唸りをあげる。再び我らの手にガルーアマリアを。あの黄金の土地を。裏切りの獣に血を。
「大聖教、教皇猊下よりのお言葉である――」
兵達が大広場でその足を止め、ようやく声が収まりはじめた頃。大聖教司祭の轟くような声が大通りにこだまする。
広場に備え付けられた壇上にあるその姿は、司祭と聞いて想像する姿からは二回りほど大きな背格好、何とも筋肉質な男だった。その声は低く、人に説法をするにはどうにも似合わない。
だがだからこそ、広場の中によく響いた。民衆の熱狂が、広場の中、息を止めた。
「――ガルーアマリアはまさしく我らにとって、黄金の木の実である。我らが唯一の神より授けられしものである。それが今、不当な者の手の内にある」
暫くの間、決まり口上のような言葉が羅列される。恐らく此処に集まった者の大半がその詳細な意味など理解していない。だがその言葉が、己たちの中にある情動を確かに後押ししてくれるものであることは、皆、理解をしていた。
民衆の漏らす音が、重なった。それは喉を鳴らす音であったし、心臓が跳ね上がる音でもあった。
「何と、悍ましい事か。何と、憂うべきことか。我らは神よりの授かりものを今、獣の胃の中に譲り渡してしまっている!」
声が、周囲の雰囲気にあてられたかのように、大きく躍動していく。民衆が声に同調し、反応を示す程に、司祭は更なる熱を言葉に込めた。
「――皆、その手を掲げよ! 正しきものを正しき所有者の手の中へ! これは偉業である。神に仕える戦いである!」
此の偉業に参加した者は、救済が約束されるであろう。死した後に永遠の幸福が与えられる事であろう。
そう、司祭の声が轟いた瞬間。都市が、揺れた。
熱狂の渦が空気を引き裂く。誰もがその手を掲げ、まるで何か求めるかの如く天に向けて掌を開く。
それは、まさしく大きな渦だった。人々の情動が叫びとなり、ガーライスト首都を呑みつくしていく。
その熱狂の中に収まっている民草は、何も本来首都に居住する市民だけではない。都市周辺の農村から、貴重な鉄製の農具を売りに出してまで足を伸ばしてきたものも、何時もは夜闇に紛れて花を売るものも。今この時ばかりは、その渦の中に自ら身を投じていった。
それは、宗教的な情熱からだろうか。
確かに紋章教徒は大聖教に対して牙を向いた。今もこちらの喉首に狙いをつけているに違いない。そう思うならば確かに彼らは大いなる敵だ。
だが、違う。本来そんな事はどうでも良い。
では交易都市ガルーアマリアの利潤が失われたことが赦せぬのか。
そんなはずがない。第一ガルーアマリアが大聖教の手中にあった所で、富貴に舌鼓を打ち黄金を手に出来るのは上流階級の人間だけ。民草がどうしてその恩恵をあずかれようか。精々、口に入る麦の数粒でも増えれば上出来だろう。
だから、本当は意味なんてない。ガルーアマリアが陥落した事に憤怒しようと、紋章教徒に対して敵愾心を灼熱の如く燃え立たせようと、何の意味も、彼らにはない。
彼らに意味があるのは、平静では忌避される憤怒や憎悪という感情がこの時ばかりは、正当であると認められること。他者から奪い、他者を踏みつけにすることが神の名の下に免罪されること。
ああ、今まで、踏みつけられてきた。唾を吐きかけられてきた。奪われてきた。尊厳を泥に塗れさせられた。それでもなお、耐えねばならなかった。
奥歯を噛み割りそうなほどに噛みしめて、爪に血を滲ませた。そうしなければ生きてなどいけなかった。何時かは救いが与えられるのだと無為に手を重ねるだけの日々が、あった。
だが、それももう終わり。此処に確かな救いがあるのだという。神の為に戦い、神の為に奪い、神の為に命を落とす。
これ以上のことが、あるだろうか。
もう良いのだ。もう耐えなくて良い。日常的な、それこそ自ら喉を締め上げたくなるほどの抑圧に耐える必要などもうない。明日、腹を満たす為のパンを心配する必要も、寒冷期を襤褸に覆われただけの恰好で凍える必要もないのだ。
救いは、此処にあるのだから。
もう、誰もがその渦から外れようとはしない。民衆は皆その非日常的な熱狂の中で自らの正義に陶酔する。
彼らはもう限界だった。覆しがたい身分の差が、日々生きていくことすらままならぬただ貧乏を繰り返すだけの生活が。
一日仕事が得られなければ、それだけで子が死んで行く。一握りのパンの為に命が奪い合われる。そんな馬鹿らしい生活がもう彼らには耐えきれなかった。その情動の噴き出し口が、今、此処にあるのだ。
何と心地よい陶酔か。己は正義の中にあると勘違いをしながら掌を振るえる。そうしてその先に救いまで待っているのだというのだから、もはや否定する意味はない。
その、虚ろな宗教的熱狂が、ガーライストの首都を埋め尽くしていく。貧しいものほど剣を取った。明日の心配をせぬ為に。そうして誰もがこう語った。
――全ては神の御心のままに。
大聖教の第一陣が、熱狂を伴ってガーライストより進軍を行った。




