第百九十二話『歴史の記録』
空中庭園ガザリアに所属するエルフの記録官、ライショーは必死に眼前で交わされる会話を記録皮紙に書き留めていた。
先ほどから額を冷たい汗が伝っているが、それを拭う暇すらない。紋章教の人間と、ガザリアの高官達が息つく間すらいらぬというほどに、次から次へと言葉を繰り出しているのである。会議が終盤に差し掛かるころには、ライショーの指先は感覚が失われているほどだった。
しかし議事録を取るという仕事は地味極まりないが、勢力と勢力の会議には必ず必要となる役割だ。何せ言葉の全てが後々の取引材料となりかねない。それを後々になって言った、言わないの水掛け論になるのは余りに無駄が過ぎる。そうならない為にも、会話の全てを記録皮紙に書き込んでおく必要がある。
記録皮紙とは文字の示す通り、書き入れた内容を一切の淀みなく歴史へと記録する為のもの。例え大火や荒波に襲われようとも、その記録は失われず後世へと言葉を伝える。
大きな会議ともなればそれこそ、一言一句とて失わぬよう、全てを書き記さねばならない。
それ故、ライショーのような速記文字を扱える記録官は、大会議が重なればその指先と脳内を熱で茹らせるのが常だった。
しかしライショー自身、記録官という役割を負担には思っていても悪い仕事だとは思っていない。此の仕事は特段危険を被ることもなければ、己の特技を生かせ且つ報酬も悪くない貴重な仕事だ。
しかも今回は、フィン=エルディスが参加する会議の記録官としての任命まで受けている。光栄でもあり、そうして己の栄達にも良い影響があるに違いない。
此処で高官、あわよくばフィン=エルディスの覚えが目出度ければ、高位記録官への出世も十分に見込める。
そうなれば、記録官という地味な仕事上、どうしても認められていなかった恋人との結婚もようやく認められるようになるかもしれない。高位記録官、ないし高位文官という立場はライショーが故郷とするような田舎村では十分に箔が付き、周囲から羨望の目線を浴びせられる職業だ。
その都合の良い未来を想像すれば、今の苦行も苦行でなくなる。痺れる指先を何とか動かしながら、ライショーは眼前の記録皮紙に速記文字を書き上げていく。
そしてもう議題も出揃い、議論も尽くされ、ようやく役目も終わりかと思った時だった。その言葉がフィン=エルディスの口から漏らされたのは。
「大聖教との戦役では、ガザリアの騎士として部隊に加わるんだろう。此ればかりは、ボクもそれを希望するよ」
声が投げかけられた先は、議場の末席に座り込んでいた騎士ルーギス。
ライショーは彼の人となりを詳しくは知らず、精々伝え聞いた程度でしかない。しかし彼こそが人間の身でありながらフィン=エルディスを塔の牢獄から救い上げ、果てにはガザリアと紋章教の同盟を結ばせた功績者であるとは聞いている。
そうして、どうやらフィン=エルディスが人間である彼に随分と入れ込んでいる様子である事も。流石にフィンの床事情にまで踏み入る気なぞライショーにあるはずもないが、何にしろ騎士ルーギスはそれだけの偉人なのだろうとは理解していた。
その彼がどうして議場の末席に座っているのかはよく分からないが、謙虚な人物であるという事だろうか。そういえば、この会議の記録でも彼の言葉を記録した覚えはない。
ライショーは速記文字で騎士ルーギスと名前を記録し、そして次にはフィン=エルディスの問いかけに対して肯定の意を示す言葉を書き入れていた。
何せフィン=エルディス、人間の世界で言えば女王が、希望すると、そう言ったのだ。それは婉曲的ではあるが、殆ど命令に他ならない。どう言葉を尽くすにしろ、最終的には肯定の意が返されるに違いなかろう。
此のような書きぶりは、決してライショーが早合点をしたというようなものではなく、記録官達の間ではある程度知れ渡っている常識でもある。それに答えが決まっている様な問答は先読みをして記録をせねば、とても幾重もの言葉が飛び交う会議の中で、全ての言葉を記録をする事なぞ出来ようはずもない。
ゆえにこそ、ライショーは当然の判断をしたはずだった。
――いや、役割はもう決めている。独立して動こうかと思っていてね。
ただルーギスなる人間の騎士が、当然の判断をくださなかった、だけで。
インクがぽたりと、記録皮紙の上に零れ落ちたのが、ライショーには見えた。
◇◆◇◆
「……先ほどの言葉、私にも意味が分かりかねます。今一度、貴方の口からその意味をお聞かせ願えますか」
それは、聖女マティアの声。何処か震えるようで、それでいて俺を鋭く突きさすような声だった。腹の前辺りで腕を組みながら、彼女は此方を見据えている。
不味い。読み違えた。あのような公の場であれば、言葉一つさらりと受け流してくれると思っていたのだが。
ある程度の議題を消化した会議は、一先ずの休息を迎えた。議場に押し詰められていた紋章教とガザリア、両勢力の高官達は今や会議後の後始末を行っている所だろう。
だから今此処にいるのは俺と、数名、だけだ。だというのに、妙に視線が、痛い。まるで肌が焼けるようにひりついた。
「何をするわけじゃあないさ。ただ俺みたいなのが何処ぞの部隊に入り込んでも、ものの役に立つはずがないだろう。なら少しばかり羽を伸ばした方が良いってことでね」
言葉以上の意味は、本当になかった。
紋章教の軍には紋章教の、ガザリアの軍にはガザリアの軍規というものがある。それを身に付けていない俺が入り込んだ所で、無駄な乱れを生むだけだ。
軍という組織は、一つでも足並みが乱れればそれが全体の動揺に繋がりかねない。それも大聖教との戦役となれば、その動揺が敗北の素材となっても何らおかしい事ではないだろう。
であればこそ、そのような要素は極力取り除いておくべきだ。
そう言った事をもう一度、言葉をかみ砕いて唇から零れさせる。ただそれだけだというのに妙に喉が渇いた。首筋を冷たい汗が舐めていく。
「――なるほど、じゃあ組織としては、ガザリアに属するという事で問題はないんだね。ただ別個の部隊として動きたい。君の要望はそれだろう」
ガザリアの女王、エルディスが相変わらず耳の中を擽るような声で、言った。その頬は緩やかな笑みを浮かべ、そうして一歩、こちらへと近づいた。
「良いよ、ボクは騎士にそれ位の我儘は許そう。ボク直属の近衛騎士になると良い。其の立場なら君も十分に活躍が――」
その、僅かに粘度を含ませた声が、言葉を全て言い終わる前に、黒い髪の毛がその後ろを食い取った。
「――エルフの女王に失敬だとは思うけれど、待って欲しいわね。そもそもの話、以前はぐらかされたままじゃない、その誰が誰の騎士だとかそういう話。そこから噛み砕かないと、纏まる話も纏まらないと思うのよね」
フィアラートのよく響く声が、エルディスの声を噛み切った。
その声自体はエルディスを含む周囲に向けられたものなのだが、黒い瞳だけは変わらず、俺を貫いている。だから、俺にはその瞳がまるで煙でもあげそうなほどに熱を有しているのが、分かった。
駄目だ。思いのほか駄目だ、此れは。俺の胸奥で焦燥が爪を立て、身体の中をひっかきまわっているのが分かる。
別段、俺にやましい所があるというわけじゃあない。ないのだが、間違いなく何か過ちは犯した。周囲から与えられる絶え間ない視線と言葉が、それを俺に嫌でも理解させる。
「簡単な話だよ。ボクは彼を騎士に任じた、彼はそれを受け取った。喜んで姫君、とね」
エルディスが語るその言葉が部屋の中を響き渡った後、空気がまるで軋みをあげたような感触が、あった。
喉が痛いほどに、乾ききっている。指先を痺れさせながら、先ほどからじぃと無言を貫き通しているカリアへと視線を向けた。救いを求めるというわけではないが、少しばかりは助け船でも出してはくれないかと、そう思ったのだ。
俺の視線を受けて、銀髪が跳ねる。そして軽く小首を傾げながらその唇を波打たせた。
「……ルーギス、貴様。色んな女と約束をするのがよほど好きらしいな、ええ?」
それで一体誰との約束を守ってくれるのだろうな。カリアが頬を崩して、笑みすら浮かべながらそう言った。
頬が、痙攣したように、ひくつく。
何せカリアの表情ときたら、紛れもなく優し気な笑みすら浮かべているというのに、その銀眼は石のように、固い。そんな、何とも形容しかねる歪な顔つきでカリアは俺を見据えている。
「丁度良い機会かと思います。紋章教にとっても、ガザリアにとっても。彼の存在は大きなもの。であればこそ、その契約と立場は明確にしておくべきかと」
マティアが再び、こちらに鋭い眼を向けながら、言う。その表情、視線、口調に至るまでの一切が情動を無理矢理抑えつけているとでもいうかのように、震えていた。
マティアの言葉に頷くようにして、エルディスが唇を開く。
「――記録官ライショー。入りなさい」
どんっ、と閉じられた扉の奥、廊下の側からひどく頭でも打ったかのような音が、響いてくる。そしてその後、恐る恐るという感じで、エルフの男が一人、入ってきた。その瞳には明らかにこの現場への怯えが混じっている。
当然だろう、俺もだ。
「新たな記録皮紙を用いることを赦します。全て、魔力を練りこめたインクを用いなさい。今此処から述べる言葉を、全て、一言の違いもなく記録に残すように」
そうして、再び議場に声が、飛び交った。それこそ先ほどまで開かれていた合同会議と比肩するほどの熱を灯して。




