第百九十一話『合同会議』
紋章教とガザリアの合同会議の進行は、すこぶる順調だったと言って良い。
ラルグド=アンは多少その表情と態度を固くしながらも何時も通りの進行を取り行っていたし、何より紋章教の代表者である聖女マティア、ガザリアの女王たるフィン=エルディスが同時に存在しているという事が、会議を円滑に機能させている。
これがもし使者同士のやり取りとでもなれば、一つの折衷案を作るのでも数日、数週間がかりになる。お互い何処を譲ってよいのか、何処までが主君に与えられた権限であるのかなどを、一々確認しあいながら行動を起こさねばならないからだ。
その確認の為に早馬を用いて使者を走らせたり、主君に対して格式ばった文書を作成する所まで考えると、俺のような人間は余りの面倒臭さにもはや眩暈を起こしそうになる。
なにせ俺のような、所謂貧民街や傭兵の集まりで作戦会議なる酒盛りを開いていた人間からすれば、集団の決定などというのはその場の流れか賭博で決まってしまうものだ。大層に事前計画だの情報収集だのを行って臨むものでは決してない。
そんな経験ゆえに、俺は何となく感心に近いものすら覚えながら、両勢力の会議を目を細めて見つめていた。知らぬ内、欠伸が喉を昇りそうになったのを無理やりにかみ殺す。
他に出席しているカリアやフィアラートは時折聞かされる内容に口を挟んだりはしているようだが、俺には余りそのような気は起らなかった。
というのも、俺が行ってきた戦いなどというのは精々が小規模な部隊同士の争いであって、勢力同士が牙を立て合うような大きな場で、俺のような存在の意見が果たして意味があるものなのかどうか、よく分からなかったからだ。
「――誰も彼もやいのやいのと囀ってはいるがよ、雇い主、あんたはあの意味が分かってるのかい」
俺と同様に、末席近くに座っていたブルーダーが小さな声でぽつりと、ばつが悪そうに話かけてきた。
ヴェスタリヌの代理という形での出席であるらしいブルーダーは、茶色の髪の毛を目元で揺らしながら、その眉間に皺を寄せ話がよく分からないと目を尖らせる。
しかし問いかけられても、俺とてかつての旅の折に積み上げた知識が少しばかりある程度だ。知識の含有量はブルーダーとそう変わるものではないと思うのだが。
「……言葉の端が正しいか、間違っているか、なんてのは別にしてくれよ」
そう前置きをしながら、目を細めて小さく声を呟かせる。これもまたブルーダーにのみ聞こえる程度の声だ。
大聖教、つまりガーライスト王国と周辺諸国の連合軍は、城壁都市ガルーアマリアを目標地として軍の編制を行っている。
本来であれば、先に傭兵都市ベルフェインや空中庭園ガザリアへと侵攻する方が容易いのだろうが、大聖教の名を冠し、旧教徒の討滅を題目に掲げる以上そうもいかないといった所だろうか。建て前というやつは、何時だって便利だが面倒なものだ。
その軍隊規模は紋章教とガザリアの合同軍を遥かに上回る。真面に食いあう様な事があれば、それこそ竜と只人の一騎打ちだ。勝てるはずもない。敵の呼吸一つに振り回され、その視線で射殺されることは目に見えている事だろう。
じゃあ、勝ちは無いってことかよ、と何処か他人事のように唇を揺らしながらブルーダーが言う。ブルーダーはふちの大きな帽子を、今は手元に抱えながら椅子に浅く座っていた。
「神様が奇跡でも起こしてくれりゃあ楽なんだがね」
勝ち目があるのかと問われれば、正直苦い顔をして表情を曇らせるしか俺には手がない。万が一、大聖教が完全な竜となって此方に降りかかるのであれば、それはもう無理だ。とてもじゃあないが勝ち目なんてものを見出せそうにない。
だからこそ、勝ち目があるとすれば竜の足元を崩すしかない。かつてベルフェインで行った演目を、もう一度繰り返すしかないのだ。
大聖教は大国であるガーライスト王国と周辺の小規模諸国を飲み込むほどの規模を有する大宗教。それほどの規模を有する大聖教が、よもや一枚岩に固まるほどの単純な構造になるはずもない。
その内部は複数、小さなものまで含めれば数えきれぬほどの派閥に分化されている。
その中でも大きなものが、世俗との関わりを良しとしその混合こそが最善だとする俗権派と、大聖教の本来の目指すべき理想を何においても求めるべきだとする理念派の二つ。
大概の貴族はこのどちらかに与しており、そうしてその仲はとても宜しいなんてもんじゃあない。最初こそは互いに高め合う関係だったのかもしれないが、今となっては足を引きあうのが慣習になっている。
それに加えて、表向きは大聖教への信仰を語りながらも、古くからの信仰を固く握りしめている貴族もいるとなれば、もう大聖教という組織はありとあらゆる獣が互いの肉を食いあっているようなもの。今は紋章教という統一の敵がいればこそ、まるで纏まっているかのような姿を見せているがその内部は惨憺の一言だ。
それこそが狙いをつけるべき竜の急所なのだと、会議進行役のアンは熱弁を振るう。
――主戦指向である理念派に対し戦術的勝利を得、非戦指向である俗権派と旧教派貴族に働きかけ戦略的勝利を得る。
何も全ての戦場、敵の全てに勝ち切ることなぞ必要はない。主戦派がその牙を振るう戦場にて全戦力をつぎ込み、たった一度の戦術的勝利を得れば、後は少しずつ相手の足元を崩していけると、アンの言葉をくみ取るように聖女マティアが言った。その眼は、何時もより何処か余裕が欠けているように見える。
言ってしまえば、それは何処か後ろ向きな手段だ。最初から全面的な勝利を放棄する、溶かした鉄を無理矢理飲み込むような、苦渋の選択。
それに例えその行動が上手くいって、此の一度は乗り切れたとしよう。しかし寒冷期が終われば、どうせまた再び主戦派が芽を吹きだす。そして今度は、同じ手段はそう通じまい。だからこれは、ただの時間稼ぎの戦略に違いない。
大聖教の内部は惨憺たるものだと、そう言ったが、此方も此方で酷いものだ。組織内部は未だ脆弱であり、軍備の増強もままならぬ。今はただ吹きさすぶ寒風に対し、身を固めて耐え忍ぶしかないと来ている。
しかし、誰よりも打算と理性を第一にするマティアが時間を稼ぐべきだと、そう語るのだ。ならば他に取るべき手段は、やはりないのだろう。そうだなせめてかつての頃、福音戦争が終わった頃合いになって大地を襲った、大災害でも今この場で起こってくれれば状況は変わるのかもしれないが。
ふと、脳裏に傷がついたかのようにぴくりと、痛みが走る。臓腑の奥底から、言い知れぬ不安のようなものが這いあがってくるのを感じた。思わず眼を細めて、指を数本、折った。逆の手が知らず首の後ろを擦る。
――おかしいな。どうにも、年数の計算が合わない。俺の記憶違いだったか。
そんな風に軽く首を傾げていると、ふと、議場全体の空気が静かに沈み込んでいるのが、分かった。
先ほどまで溌剌と議論が重ねられていたはずであるのに、今は誰もがその唇を一様に閉じ、視線を何処に向けたものかとうろつかせている。
「――ルーギス、ボクの話を聞いていたかい?」
そんな不可思議な静寂の中、エルディスが首を傾げながら、言う。
俺は知らず瞼を数度瞬かせ、何の事だとばかりに視線をそのままエルディスに返した。
正直な所、この会議の中で俺が言葉を求められたり、何かをうかがわれるという事などあろうはずもないと断じていたものだから周囲の話など殆ど耳に留めていない。
気づけば、周囲の視線が全て、俺の方へと向けられている。アンやマティア、カリアやフィアラートのものも同様に。その眼がどうにも、こちらを射抜くような性質を含んでいるのは、俺の気のせいなのだろうか。
いや、気のせいじゃあ、ないな。その視線には何処か重圧すら感じられる。
エルディスが呆れたように肩を竦めながら再び、唇を開いた。言葉を聞く寸前に、指先が痺れたような感覚があった。
「だから、大聖教との戦役では、ガザリアの騎士として部隊に加わるんだろう。此ればかりは、ボクもそれを希望するよ」
ああ、なるほどその話か。
戦術や戦略などという、複雑に絡み合った話でなくて良かった。それならもう全て、答えは決まっている。少しばかり重くなった唇を開き、喉を一度鳴らして声を整えながら、言う。
「いや、役割はもう決めている。俺は今、紋章教の傭兵のような立ち位置だろう。なら正式にその立ち位置に沿い、独立して動こうかと思っていてね」
その方が紋章教もガザリアも動揺がないだろうと、そう付け加えながら何となくエルディスへと視線を、向けた。
エルディスの表情には不思議そうな、本当に不可思議極まりないという表情が浮かんだ。一体何を言っているのだとでも、言いたげだ。その唇が、静かに揺れる。
――ルーギス、君はボクの騎士のはずだよね?
そう言った瞬間のエルディスの碧眼が、まるで鈍い光を反射したかのように煌いたのが、見えた。




