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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第百八十七話『ある一つの芽生え』

 ――ルーギス様。貴方は会議に出席される必要はありません。


 ラルグド=アンの低い声が、部屋の中を舐める。軽く眉を歪めながら、その言葉を聞いていた。同時、その言葉の意味する所を頭の奥底で考え始めていた。


 それはお前なんぞが会議に出たところで何ら収穫はないのだから、このまま謹慎を続けていろという、何とも辛辣なお言葉という事だろうか。いや確かに、俺が態々足を運ばせた所で何か意味があるかといえば恐らくは無い気はするのだが。


 だが、アンの性格を考えると余りそのような意味合いとは受け取りづらい。元々彼女は協調を第一とし、場を乱さない事に注力する、いわば調整役のような存在だ。強い言葉を使う所なぞそう見た覚えがない。だからこそ、今彼女が用いた言葉の意味が俺には分かりかねた。


 唇をゆっくりと開きつつ、言葉を探しながら喉を鳴らす。


「そりゃあ、またどうして。別に会議に出たところで、余り意味がないと言えばその通りだがよ」


 じぃと、アンの瞳を見据えながら真意を問う。彼女の小柄さもあって、丁度見下ろすような形になった。その返答に、彼女は一瞬、口ごもる。言うべきか言うまいか迷っているような、伝えるにしてもなんと伝えるべきか分からなくなっているような、表情。


 珍しい。人一倍聡明といって差し支えないアンの、そのような表情を見るのは初めてだ。一度椅子に座りなおして、肩を竦めながら彼女の言葉を待った。その小さな唇が、跳ねる。



 ◇◆◇◆



「……ルーギス様、思い至りませんか。貴方は未だ紋章教からすれば、客人。いわば部外者なのです」


 アンは、自らの舌が滑り落ちるような感触を覚える。言葉を発した瞬間、ルーギスの反応を恐れて胃の上あたりが締め付けられる痛みを感じた。ちらりとルーギスの方に視線を上向けると、なるほど、とでも言うように顎のあたりを指で撫でている。


 ああ、嫌だ。どうして自分がこんな役回りを果たさねばならないのか。歯はがたがたと震えを見せるし、背筋には何か普通ではない汗が流れ落ちている。嫌だ、本当に嫌だ。


「今まではなし崩し的に作戦行動に従して頂く形になっていましたが。今回の会議は紋章教としての方針を定めるもの。御情報はお伝えいたしますが、参加頂く必要はございません」


 それこそ、正式に紋章教に与して頂けるのであれば別ですが。と、その部分を強調するように付け加えながら唇を閉じた。再びルーギスの反応を見守る。アンの臓腑は冷気を籠らせたかのように固く、まるで石のようになってしまっていた。


 事の発端は、エルフの女王、フィン=エルディスへと魔術を用い会議への参加を呼び掛けた時だ。大聖教の侵攻に対し、協力を頂きたいと、そう告げた時。フィン=エルディスは問題はないと告げながらも、こう唇を動かした。


 ――勿論問題はないよ、ボクらは同盟国なのだから、協力を約束しよう。でも、本格的な戦争を始めるというのなら。そろそろ預けている騎士ルーギスをボクの所へ返してくれないかな。


 その時思わず、頬が変な風に固まってしまったのをアンはよく覚えている。


 そう、確かにそうだ。今の英雄殿、ルーギスの立場は非常にあやふやで不明瞭なまま。紋章教からすれば、ルーギスは未だ客人に他ならない。そう、信徒ですらないただの、客人だ。精々が協力者という立ち位置だろうか。


 城壁都市ガルーアマリア陥落の切っ掛けを作り、今回は傭兵都市ベルフェインという巨人の足元を崩した。その功績を持って尚、彼は正式な地位を得ようとしない。アンが密かに働きかけた事は、幾度もあった。客人からせめて客将、出来れば紋章騎士としての称号を得てくれまいかと。


 だが、全て空回りに終わった。


 幾ら誘いを掛けようと、まるで何かに縛り付けられる事を否とでもするかのように、ルーギスは苦笑いだけを浮かべて断ってしまう。己にはそのような価値はないのだと断じて。


 そうしてその彼が今正式に得ている地位が、フィン=エルディスの直属騎士というものだけ。勿論ガザリアとて正式な儀礼と契約を果たしたわけではないだろうが、ガザリア内戦の折に口頭でとはいえ約定を交したと聞いている。


 不味い。それは駄目だ。今のままではフィン=エルディスの言葉の通り、ルーギスの正式な所有権はガザリアに帰することになってしまう。だけれども、もはや紋章教という組織の中で彼が大きな象徴となっているのも、事実だ。


 ただ紋章教拡大の役者として活躍したというだけではない。ルーギスが失われれば、それは即ちそのままカリア=バードニック、フィアラート=ラ=ボルゴグラードの喪失にも繋がりかねない。


 そして、更には。此れはアン自身信じたくない、そして考えたくもない事だが。己が信奉する聖女マティアすらも、ルーギスに対しある種特別な感情のようなものを向けかけているのは、間違いがない。


 不味い、非常に不味い事態だ。


 今招集されている会議には、同盟者としてフィン=エルディスも出席する。そこにルーギスを何の約定もないままに参加させてしまえば、当然にフィン=エルディスは彼の存在を求めるだろう。それだけは、防がなくてはならない。己は紋章教徒。紋章教の事を第一に、そして聖女マティアをそれと同列に考えてきた。今も、この後も、それを変える気はない。紋章教の為、聖女マティアの為、なんとしても彼を引き留める。


 一瞬の沈黙の後、アンは唇を無理やりに動かして言葉を発する。喉が、酷く乾いているのを感じていた。


「いかがでしょう、ルーギス様。宜しければこの機会に、聖女マティアよりの宣託を受けられては。そうすれば紛れもない――」


「――いいや。それは止めておこう。何せ俺は紋章教の信者というわけでもない。だってのに聖女の宣託なんざ受けちゃあ、神様だってお怒りになるだろうさ」


 いつも通りの、苦笑いを浮かべながら、ルーギスは言った。本当になんでもないように、事もなげに。それで別に構わないのだと、言い放った。

 

 此の、人は。


 アンは自らの眼が何かの塊となったのを感じた。ルーギスの言葉を耳にして頬が、唇が、手先が、まるで石となったかのように動こうとしない。代りにその胸の奥底がぽぉ、と何かの灯りをあげた音を、聞いた。


 ああ、ああ。今まで私が貴方の行いの後始末が為に、どれだけ胸中を騒がせ、どれほど自らの精神と身体を鑢にかけて削り上げたのかわかっているのか。今だって眼の下には見事な隈が出来あがっている、それを化粧で隠す暇もなくこうして部屋を訪れているというのに。


 誰の、誰の所為だと。貴方の身勝手な行動の事後処理を私がどれだけ行っていることか。そう、確かに英雄殿は類稀なる功をあげている。だがその背後で尽力を捧げたのは己ではないか。奉仕を行ったのは己ではないか。


 だというのに、彼は全く私を顧みようとしない。少しくらい、私の思う通りに動いてくれても良いではないか。少しくらい、助かっただとか、偉いだとか、褒めの言葉をくれても良いではないか。


 わかっている。わかっているとも、これが醜い情動で、そして八つ当たりでしかない事など。胸の中では羞恥と自己嫌悪が互いに食い合い、そしてぐるぐると円を描いている。


 それでも、そうだとしても、納得がいかない。瞳の端に涙に近いものがあふれ出しそうになりながら、アンはゆっくりと唇を、開いた。


「……一から全て、ご説明致します。全てをお聞きの上で、ご判断をください」


 何とか、無様を晒さぬように、震える声でアンはそう言った。交渉者として、アンがこれほどの辱めを受けたのは、初めてだった。

 

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