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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第百八十六話『与えられる岐路』

 ガルーアマリアの砦は石で積み上げられている所為だろうか、酷く空気というやつが冷たく感じる。


 ただ部屋の中でじぃっとしているだけだというのに、それでも尚冷気が頬を刺した。その存分に冷えた空気を肺の中に掻き込んで、そして大きなため息に変えて、空中へと吐き出す。白い靄が身を表し、そしてそのままゆっくりと消えていった。


 駄目だ。もういい加減限界だ。こんな部屋に籠り続けるのは無理がある。


 せめて身体を暖める為のエールでもあれば良いのだが、テーブルの上に置かれた陶器は、逆さまにしたところで一滴の潤いも齎してはくれない。何時まで俺は、こんな与えられるものは冷気しかない部屋の中に閉じこもっておけば良いんだ。


 最初、その妙な提案をしたのは聖女マティアの片腕であるラルグド=アンだった。


 ――英雄殿、暫しの間、部屋の中に籠っては頂けませんか。


 曰く、それは紋章教という組織の規律の為だとアンは言った。


 傭兵都市ベルフェインを陥落せしめる際に、俺が何者にも告げずにガルーアマリアを出奔した事は、それなりな騒動となったらしい。勿論、その内容自体は詳しく知らぬのだが、あのマティアすらも表情を変えたと聞いている。ベルフェインではそんな素振りは、余り見られなかったのだが。


 アンは、万が一同じ事を成そうとする者がいては困ると、そう言った。


 功を高々とあげさえすれば、どんな無法を成しても問題はない。そのような事になれば、当然組織というものは成り立たない。いずれその身をどこかで食いつぶすのが顛末というところだろう。余り、組織だのなんだのというものに所属していなかった俺には、馴染みの無い感覚ではあるが。


 それ故、形だけでも謹慎という形を取ってほしいのだそうだ。別に俺としては、やらねばならぬ事があるわけでもない。ただ部屋の中に籠っていろというのは、それこそ窮屈ではあるが大した問題はないだろうと、軽い気持ちで頷いてしまった。恐らくそれが失敗だったのだろう。


 よもや酒一つ満足に手に入らぬとは思わなかった。いや勿論、謹慎という名目上、易々と酒を与える訳にはいかぬというのもあるのだろうが。それにしてもせめて噛み煙草くらいは許してほしい。


 再び肩を落として息を漏らすと、また中空で白い靄が身をくねらせた。もう、いっその事寝てしまおうか。その方がきっと早く時間が経つに違いない。そう思った頃合い、こつりと、扉を叩く音が耳に響いた。


「英雄殿、暫しお時間をよろしいですか」


 音と同時、その声が部屋内に届けられた。その呼び方だけで、扉の前に立っている人物が誰であるのか、見当がつく。この広大な世界の何処を見渡しても、俺の事を英雄殿、などという人間は一人しかいない。


「ああ、勿論。出来ればワインかエールを土産に持ってきてくれれば最高なんだがね」


 扉がぎぃと軋んだ音を鳴らしながら、その口を開いていく。その先にいたのは、ラルグド=アン。


 声自体の調子は何時もと変わりがないものの、眼の下に隈らしきものが出来ているところを見るに、随分と身体に無理をさせているらしい事が分かる。


 なるほど、相変わらず、政務が出来る人材というのが増えてはいないらしい。


 知識を尊ぶ紋章教にあって尚、組織を運営させられる人材というのはごく僅かだ。その中でもアンはマティアの片腕として、その小柄な身体に想像も出来ないほどの政務を背負わされていると聞いている。


 眼を、細める。少しばかり嫌な予感が指先を走る感覚が、あった。果て、その重責を担っているであろう彼女が、どうして態々謹慎中の俺なんぞを訪ねたりするのだろうか。


 謹慎を解く、もしくは脱走をしていないかの確認だというのなら、そこいらの兵を宛がえば良い。だというのに、何故。


「残念ながら、お酒は持ってきていませんよ、英雄殿。ですが、お土産であれば一つほど」


 と、言うものの、アンはその手に何一つ持ち合わせてはいない。唇と頬が歪み、眉が上を向いた。指先で顎を撫でながら、アンの言葉の続きを促す。


「――大聖教が、その指先を動かしました。ガーライスト王国では、この寒さの中、熱を覚えるような勢いで兵の動員が進められていると」


 心臓が、アンが漏らした言葉に動悸を鳴らす。先ほどまで冷気の中に身を埋めて、ろくに動こうともしていなかった血液が、急に眼を覚ましたような感覚があった。


「おいおい、奴ら正気かよ。よりによって、酒がなけりゃろくに寝付けもしないこの時期に?」


 思わず漏らしたその言葉に、ええ、この時期に、とアンが声を返す。唇の端を噛みながら、眼を細める。


 早い。想像していたより、ずっと。大聖教が兵を整え始めるのは、せめてもう少しばかり手先に暖かみが感じられるようになってからだと思っていたのだが。


 寒冷期、特に大地が白い化粧を施される時節の進軍というのは、酷く困難かつ、金がかかる。身体を暖める為の防寒具は必要になるし、酒の消費だって平時より遥かに早くなくなる。それらを切らしてしまえば、鍛え上げられた精鋭ならともかく、戦争の為に集められた剣奴や傭兵どもの士気が持つわけがない。それに雪に足を取られ進軍が遅れれば、その分兵糧だって無駄に食い荒らすことになってしまう。


 勿論、寒冷期に進軍するような事例が今まで全くなかったわけじゃあない。だが、それでも態々好んで戦う時節でない事は確かだ。


「今、マティア様がその対応策を練り上げる為、皆を招集されている所です。英雄殿――」


「――分かった、何が出来るか分からんが、俺も行けばいいのかい」


 アンの語尾を食いとるような言葉使いに、知らず己の中にも気焦りのようなものが浮かんでいるのを、理解した。臓腑が自らその身を捩るような感覚が、あった。


 しかしなるほど、このような内容であれば、アンが自ら伝令役を行っているのもよく分かる。


 大聖教がその重い腰をあげて、己たちの首を掻き切る準備をしているのだ、などと聞けば大抵のものは平静でいられまい。下手に情報が広まってしまえば、無駄な混乱が起こることは間違いがないだろう。勿論、平静でいられぬというのは、俺も同じなのだが。


 何せ、紋章教という勢力はかつて大聖教に敗北し、その息の根を止められているのだから。


 そうして聖女マティアも、地下神殿を自らの棺としてその命を絶えさせた。それがかつて起こった事実であり、避け得なかった結末だ。


 奥歯を、噛みしめる。先ほどまで冷たかった指先が僅かに熱を帯びているのがわかった。


 駄目だな。それだけは、駄目だ。かつてと同じような歴史の線を辿るようなことは、したくない。過程は違えど、紋章教が同じ無残な結末をその身に受け入れるのであれば、この俺とて、過程は違えど同じ最期を迎えたっておかしくない。


 あの尊厳も、力も、愛しい者すらも、何一つとして得られなかった旅路の果てに再び舞い戻ってもおかしな事は、ないのだ。ああ、それだけは、それだけは何があろうと御免こうむる。卑しいと罵られても良い。小人と嘲笑われようと構わない。


 だけれども、この手の中に何も持たないまま、全てを諦めてしまったあの頃にだけは、二度と戻りたくない。それは偽らざる本音。心の奥底からの言葉。魂の嗚咽。


 もし此処で、紋章教という存在がかつてと同じ線をたどってしまえば、きっと俺もまた何かに縛り付けられてしまう。そんな予感が、どこかにあった。


 腰元に宝剣をつりさげながら、部屋を出る用意を整える。そんな折、再びアンの声が、耳朶を震わせた。


「――英雄殿、いえルーギス様。貴方は会議に出席される必要はありません」


 それは何時もの周囲に響かせるような、声ではなかった。何処か地を這うような低い音程が伴った声。少なくとも俺は聞いた覚えのない、アンの声だった。

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