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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第八章『悪徳の王国編』
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第百八十五話『主戦場は踊り歌う』

 ロイメッツ=フォモールの館。その裏口からゆっくりと、まるで影が這い出るようにリチャードが姿を見せる。

 

 別に表口から堂々と出ていったとして、主君であるロイメッツは何も言いはしないだろうが、やはり気を回すに越したことはない。


 それに、高位貴族が持つ館の正門などという華々しい場所が、どうにもリチャードは好きになれなかった。其処にいるだけで、何か悪いものでも口に含んでいる様な気分になってくる。むしろ裏通りのような、少しばかり薄暗い場所の方がリチャードという人間の性分に合っていた。水が、空気が、己の身体に合っている。


 人間というものは、呼吸を出来る場所がそれぞれ元から決まっているのだと、リチャードは思う。魚がよもや空へと飛び出し宙を踊ることがないように、逆に鳥が水中へと没してそこを己の住処としないように。


 人間にも生きるべき場所、いや生きていくことが出来る場所というのが、決められているのだ。それを決めるのがいるかも分からない神様という奴なのか、それとも全く別の何かなのかは、リチャードには分かりかねるが。


 分相応だのというわけではない。身分を弁えろなどと馬鹿らしいことこの上ない。例え貴族に生まれても、上の世界が身に会わぬ奴もいる。陽光の当たらぬ世界に生み落とされて、適応できず死んでしまう奴もいる。


 結局の所、己の生きるべき世界からはみ出して、人は生きていくことは出来ぬ。ただただ、それだけだ。


 そんな考えの中、ふと頭の奥底に、かつての教え子の姿が浮かんだ。そういえば、奴は今どうなのだろう。


 奴は、ルーギスは紛れもなく陽光の当たらぬ世界に生まれ落ち、そしてそこで生き延びた。いずれ陽光をこの手に掴むのだと嘯きながら、泥に塗れていたのをよく覚えている。


 あれには、紛れもなく一切の陽光が当たらぬ所でも、生きていける素質があった。と言っても、煌くほどの才能があったわけじゃあない。まさか英雄の器などと見出したわけでもない。ただ、素質があったのだ。


 汚泥に塗れ嘲弄にその身を削り取られながらも、尚の事指を伸ばし生を噛み取る素質が。だからこそ、己は奴へ少しばかり教えてやったのだ。こんなどうしようもない世界での、生存の仕方というやつを。生きる術というものを。


 そのルーギスが今、光の浴びる世界へと踏み出でようとしている。何、例え大逆者という立ち位置でも、歴史の陽光を全身に浴びたのは確かな事。


 リチャードは思わずその白い髭を撫でながら、目を細める。皺が深く表情に刻まれた。少しばかり、奴と話をしてみたいと、リチャードは思った。もはや此れから戦場に向かい、刃を交わす間柄だというのに、純粋な興味がわいたのだ。


 果たして、今お前がいる世界は、お前にとって居心地が良いのか、それとも悪いのか。それを聞いてみたかった。別にどちらの答えを望んでいるというわけでもない。本当に、ただの好奇心だった。


 なにせ、それはかつて一度己が通った道。そして、適応できなかった、道筋。少しばかり好奇心が胸の内に湧いて出た所で、おかしな事はないだろう。リチャードの顔に刻まれた皺が歪み、影が深くなる。


「――どうした、随分とご機嫌だな悪党。ようやく頭の中が酒で潰れたか」


 リチャードの不意を突くように、その悪態が投げかけられる。相手を鋭く貫くような、女の声だった。思わずリチャードの瞼が瞬く。


 裏通りの奥、丁度こちらに向かってくるようにしながら、その人物はリチャードを見つめていた。顔はローブをかぶせている為に良く見えないが、その声には聞き覚えがあった。


「なんだ、お前さんも来てたのか、ヴァレリィ。主もご多忙だねぇ」


 それは眼前に佇む人間に向かって語り掛けたというよりも、ただ空中に言葉を放り出したかの様な、そんな言葉だった。リチャードは相手が聞いているかどうかも知らぬまま、足を止めずに前へと進む。相手もまた、リチャード同様に足を止める気もないようで、互いに近づくように歩みを進めていった。


 互いに知った風に言葉を交わしているというのに、その素振りは互いに気にも留めず、ただ目的地に向かっているだけという様子だった。


「貴殿の行き先は?」


 表情の一切を変えずに、ヴァレリィと呼ばれた女性は唇を僅かに揺らす。その声の調子は紛れもなく高貴さを感じさせるそれ。流れ出る言葉の節々に、上級階級の者が扱う訛りが混じっているのを、リチャードは聞いた。


「東だ。良い魚でも食べようかと思ってね。今、活きの良いのがいるだろう」


 リチャードも瞬き一つせぬまま、言う。二人の距離が、より縮まった。互いにすれ違おうかというその時、一瞬だけ両者が足を、止めた。


「そうか、では私は西だな。東は楽ではないぞ。何せ未だ誰もが、主戦場は此処にあると思っているのだからな」


「ならお前さんが早く終わらせて楽させてくれや。俺も、出来るなら裏方にずっと潜んでいたいんでね」


 それだけだった。大した挨拶も、談笑を行うこともなく。それだけの言葉を交わして互いにすれ違い、離れていく。きっと遠くから見れば、ただ通る道が重なり合っただけ。両者に何の繋がりも感じることは出来ないだろう。


 リチャードは、白い髭を指先で撫でながら、目を細めた。ヴァレリィ、先ほどすれ違った女のいう事が、余りに理解でき過ぎて、胸が陰鬱な情動で満たされていく。


 そう、本当は、誰もが東を主戦場などと思っていないのだ。紋章教が己の首を食いちぎる獣であるなどと、ガーライストの貴族は誰も思っていない。己たちが敗北するなど、想像すらしていないに違いない。所詮紋章教はガーライストから見れば未だ木端程度の戦力しか持たない。


 ならばより重要な事は、ただ勝つ事ではない。勝って、利権をその手に握りしめることだ。今紋章教徒は交易都市ガルーアマリアだけでなく、傭兵都市ベルフェインまでもを己の勢力圏として拡大させている。


 そうなると、もはやガーライスト王国の貴族たち、そして大聖堂の司祭達が考える事はただ一つ。


 全てが終わった後、誰がその地を、言うならば利益を己のものとするのか、という事。中には、今のこの騒動を喝采をもって迎えている奴もいるのだろうと、リチャードは思う。平時であれば己が手に入れらぬはずの地も、乱れた場であれば、火事場泥棒の如く浚ってしまうことも出来るやもしれない。


 ああ、紋章教徒共よ。どうせ死ぬのならば、周囲よりもっともっと奪いつくし、肥え太ってから死んでくれ。そんな風に考えている人間も、少なくはないに違いなかった。


 だからこそ、己のような者が使われるのだと、リチャードは理解している。眉が上がり、眼が薄い暗闇の中で煌々と輝いた。


 本来リチャードが己の主ロイメッツ=フォモールから任される仕事というのは、表には出せない裏方の仕事ばかり。言わば汚れ仕事が専門だ。


 そう、かつて政敵であったバードニック家を陥れた時の如く、裏で手を回し主へと利益を与える役目。


 だというのに、今更この老兵を表舞台へ引っ張り出さねばならぬというのは、それこそ他の兵力は、政治の場で抑え込まれているのだろう。


 だが、まぁ。今回ばかりはそんな腐臭のする貴族どものやり取りも悪くはない。何せ久方ぶりに、面白い事になりそうだ。悪くない。実に、悪くないとも。


 ――さて、どうだルーギス。少しばかりは、成長したんだろうな。

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