第百八十一話『導きの聖女』
聖女マティアの髪の毛が、汗と共にその頬に張り付いた。肩で息をしながら、ほんの数口ほどの水を唇に含ませる。
その清涼な感覚に、乾ききった口と喉が痺れるようだった。勢い余って気道にでも入ってしまったのだろう、一瞬、喉がせき込む。
呼吸を落ち着かせつつ、血塗れになった指先を擦り合わせたが中々汚れは落ちていかない。どうやら幾度も血を浴びるうち、こびりついてしまっているようだ。仕方がない、とばかりにマティアは指を触れ合わせるのをやめた。
此処では使える水も限られている。ただ手を洗う為に、などという理由で無駄に消費するわけにもいかない。ガルーアマリアに帰ったなら、手を洗うだけではなく水浴びまで済ませてしまおう。久方ぶりに髪の毛にも櫛を入れれば、きっと清々しいに違いない。
胸に浮かべた期待に反応して、マティアの耳が敏感に揺れ動いた。耳朶を、静かな呼吸音が打つ。
「彼女が意識を戻したなら、口を湿らせる程度の水をあげてください。それから、包帯を巻く時は薬草を塗り込むのを忘れずに」
寝台に横たわり、重い瞼を閉じたままのヴェスタリヌを見やりながら、言う。傍らの紋章教徒が深く頷き、水瓶を寝台の傍においた。
マティアはその様子を視界に収めつつ、足を鳴らして負傷者が重なり合う治療場を一時、抜け出す。流石に身を完全に離れさせてしまう事は出来ないが、僅かばかり呼吸を整えるくらいの猶予は赦されるだろう。
冷たい空気がマティアの頬を刺す。ほぉ、と肺に溜まり切った吐息が唇から漏れだした。随分と、溜まりこんでいたのだろう。それだけで身体が軽くなった気分だった。
鉄鋼姫ヴェスタリヌ。彼女がその命を長らえたかどうかは、未だ分からない。少なくとも容体が落ち着き切ったなら、医術を学んだ者の所へ運び込む必要があるだろう。
それでも今一時は、そのか細い命の糸を何とか紡ぎ切ることが、出来た。
知らず、マティアの眉が弛緩していく。顔から力が抜けていくのが理解できた。どうにか、ルーギスの期待に応じ、そうして己も少しばかりは聖女ぶる事ができたらしい。全く、本当にらしくない事だと唇が緩む。
人の生き死になど、もう何度も繰り返し瞼に焼き付けただろうに。そうしてそれらを打算でもって、割り切ってきたはずだろうに。今更たった一つの命の行き先に拘るなどと。本当に、らしくない。
何にしろ、もうヴェスタリヌに関しては傷口から悪魔が入り込んでいないことを願うばかり。傷口から人へと入り込み、肉を内から食い破る腐り病に入り込まれてしまっていたら、もう助けることなど出来はしない。
マティアの唇から再び、重い吐息が漏れた。今度は、身体が軽くなるような感触はなかった。
――やはり聖女とは、この程度のものなのですね。
久方ぶりに、命の灯に触れた所為だろうか。妙に心が感傷的になっているようだった。マティアはもう自嘲すら浮かべられずに、民家の外壁にもたれ込む。
幼い頃は、もっと多く知れば、もっと賢くなれば多くの人間を導き救えるのだと思い込んでいたし、周囲にもそう教えられた。
勿論、成長して多くを知るほどに、そんな事は嘘だと理解したし、此の世に理想とやらが実在しないであろう事も承知していた。だが、どうにも聖女という存在への幻想は、何故か中々己の中から消え去らなかったのだ。どうやら幼い頃の私は、随分と夢見がちだったらしい。
幼い頃、人間は皆、幸福になるために生まれてくるのだと信じていた。それが、何かが間違って不幸に陥ってしまっているのだと、勘違いをしていた。そうして己が何もかもを知り得て、聖女として立派になれば、きっと何もかもをこの手で抱えきれるのだと盲信していた。
そうだ、あの頃は、正義を勝利させる魔法があり、人を生き返らせる奇跡があり、世界は素晴らしいもので溢れかえっているのだと、そう信じたがった。
それが、どうだ。今のこのありさまは。きっと幼い頃の己が今の私を見れば、こう叫ぶことだろう。顔をくしゃくしゃにして、瞳に涙をため込んで、喉を枯らして言うのだ。
――あんな人間は、聖女ではありません。
唇がゆらりと、揺れる。きっと、そうだ、そうに違いない。今の私なぞ、理想の聖女からは程遠い。何せ、目の前の命一つ救うのに、幸運に祈らねばならないのだ。これが聖女だなどと、笑わせてくれる。
聖女とそう名乗るならば、命の一つや二つ、簡単に救いあげなければ話にならない。何時からだろう、確か紋章教徒の指導者、その一人となった時だったろうか。私は命を救うのではなく、選別し、切り捨てる側になった。
より効率的に、より功利的に。どうすれば、全体がより栄えるか。考え行っていたことは、世の施政者を名乗る者達とそう変わりはない。ただただ、上手く組織が循環するには、と、それだけを考えて生きて来た。幼い頃の想いなど、降りかかる忙しさの中に投げ捨ててしまっていた。そしてそれが正しいのだと、己の胸に言い聞かせていた。
情けない。もはや全てこの頭蓋の中で割り切ったはずだというのに。今更にこのようなことで思い悩むとは、ルーギスに聞かれでもしたら何を言われることか分からない。らしくないとでも、言われるのだろうか。お前に悩みなんてものがあるとは意外だとか、そんなくだらない事を言いそうだ。
ああ、全く。貴方さえいなければこんな風に思い悩むことなどありはしなかったというのに。ずっと理想に手を伸ばし続ける貴方さえ、いなければ。
さて、と冷たい空気を再び肺の中に取り込みながらマティアは、瞳を細める。休息もこの程度取れば十分だ。疲弊した中でなお身体を動かす事は、かつて地下に潜っていた時の経験で慣れ親しんでいる。むしろ、それくらいでこの身は丁度良い。
それに、もうそろそろルーギスも、此処に運ばれてくるに違いないのだ。何せ、自ら茨の中に身を跳びこませておいて、無傷で済むなどという事があろうはずもない。その肉体や精神が、全くの無傷のまま事を終えられるほど、ルーギスの選び取る道は平坦ではない。彼は、そういう人間なのだ。そういう生き方しか、自ら選び取ることが出来ない性質なのだ。
ゆえにこそ、再びルーギスに私という存在を深く、刻み込んであげなくてはならない。再び負ったであろう傷痕は、その良い材料だ。何せそれは、私との約束を破った証。
散々に、困らせてあげよう。何せ私を幾度も不安に駆らせたのだから、手加減は不要だ。手心こそ、きっと彼の為にならない。それに、彼と交わした約束だってある。
後に起こるであろう喜びを思い描くと、疲労は肉体に溜まりこんでいるというのにも関わらず、思わずマティアの頬はつりあがる。
多少、ルーギスにとっては酷な事になるかもしれない。だがそれも、当然の事、仕方のない事なのだ。それは、彼を導く為。ルーギスにより正しい道を歩かせる為、その手を引く行為に違いない。
それは、己が成さねばならない責務だ。ルーギスが傷を負えば、その上から私の言葉で新たな傷を刻み付けよう。決して、忘れられぬよう。彼が私の言葉、私の意思という檻の中でしか生きられぬように。
そうでもなければ、ルーギスという人間はあっという間に自ら危うい道へと踏み込んでしまう事だろう。まるで歩く火種のようなものだ。本当に、仕方がない人。
――ルーギス。貴方が理想を追い求めるならばそれでも良い。ですがそれまでの道筋は、私の手に引かれてもらいましょう。
冷たい風が吹きすさぶ中にあっても、尚、頬が自然と熱を保っているのを、マティアは理解していた。それが意味する所は、マティアにもよく分からなかったが。
今回で第七章『騒乱ベルフェイン編』は完結となります。
次回以降は第八章となり、多忙な時期でもある為やや更新までお時間を頂くかもしれません。申し訳ありません。
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