第百八十話『救いの御手』
ぼんやりと、視界が揺れる。どうにも焦点が合おうとしない。ただ妙に身体が暖かいのが分かった。アリュエノは黄金の瞳を瞬かせ、天井を、見上げる。天井もまた、視界と同様にがたりがたりと揺れ動いていた。何とも、奇妙だ。
身をゆっくりと起き上がらせると、アリュエノの身体には随分と上等な毛布が掛けられていた事がわかる。なるほど、暖かいはずだ。それだけではない、己が寝転がっていた場所は、まるで寝台のように人の身を抱き込む柔らかさを有していた。
何だろう、至れり尽くせりとはこのことだ。身体を包むその柔らかさに、そのまま体重を預けたくなってしまう。
何せ瞼は未だ、重い。まるで身体中の力という力を根こそぎ奪われてしまったような感覚すらある。
がたん、っと断続的に与えられていた揺れが、一際大きく、轟く。
そうか、此れは馬車だ。それも、よく見てみれば此れは己が為に用意されていた馬車ではないか。
黄金の眼が揺らめきながら、疑問を浮かべる。はて、では己はどうして馬車なぞに身を任せ、揺られているのだろうか。少なくとも他にもっと、やるべき事があったような気がするのだが、妙に意識が曖昧だ。
そうだ、馬車には乗った。その光景が頭の中にある。しかしそこに至るまでの過程が、すっぽりと抜け落ちてしまっている。別段、馬車に乗る理由など自分には無かったのではなかったか。
馬車に揺られていることも相まってか、今が夢であるのかそれとも現実であるのかが余計に分からなくなってくる。瞼が、重い。
瞼の重力に従うままにアリュエノは目を細めつつ、周囲を一瞬ちらりと見渡す。傍には誰も、いない。馬車の個室の中、揺られているのはアリュエノのみだ。恐らく専属の御者が馬車を引いていることくらいは予想がつくが、他には誰もいないのだろう。
やはり、夢だった。
そう胸の奥で一つの結論を抱きながら、アリュエノは眼を閉じて馬車の座席へと再び横たわる。背中に与えられる感触が、柔らかく心地よい。
――近くに、それも吐息が重なるほどの傍に、ルーギスがいた気がした。
あれは、夢だったのだろうか。確かに記憶の中を探ってみても、頭蓋の中に靄がかかったようにその光景は曖昧だ。精々残っているのは、眼の端と、そうして耳奥に僅かに感触が残っているだけ。
眼に焼き付いているのは、殆ど抱き合うような恰好で、己の傍にいたルーギス。そうして、耳奥で未だ響いている声は、一つ。
――俺が惚れた女はな――。
その言葉が耳の中で響き渡り、そうして思考を刺激した瞬間、アリュエノの閉じかけた瞼が、開く。黄金の髪の毛が揺れ動きながら、喉が唾をのんだ。
違う、あれは夢では、ない。
それを確信した途端、頬が知らず熱を持つ。瞳が潤みを持ちながらぐるぐるとその視線の置き場を探していた。そうだ、確かルーギスはあの時誰かと言葉を交わしていた。それが果たして一体誰だったのかまでは、記憶が辿りつこうとしない。脳髄の中はあやふやで、記憶は雲の如く裂かれてしまう。まるでそう、何者かがこの身と意識を奪い去っていたかの如く。
覚えているのは、ただ一つ。その言葉を語った時のルーギスの瞳が、紛れもなく己を貫いていたと、いうこと。
知らず、毛布で顔を隠す。熱い、熱い、熱い。其れが本当の事だったか、夢ではなかったかと幾度も記憶の糸を頭蓋の中で手繰り寄せる。
きっと今、己は誰にも見せられない顔をしているに違いない。緊張が全身を覆い、顔は妙に熱を有していう事を聞かないのだ。だというのに、唇は震えながら波を打って喜びを表している。やはり、人に見せられた顔ではない。
覚えていた、覚えて、くれていたのだ、彼は。
紋章教にその身を預け、己の事など忘れ去ってしまったのだと、他のものにこそ救いを求めてしまったのだと、そう思っていた。だが、違う。違った。ルーギスは、己を待ってくれている。己をこそ、求めてくれている。
その事実だけで、アリュエノの胸は嬉色に揺れる。指先は、一層毛布を強く握りしめた。歓喜が背骨を伝わって全身へと震えを与える。
――ああ、やはり、ルーギスが求めているものは、そうして彼に救いを与えられるのは、私に違いない。
そんな清々しい確信が、アリュエノの胸を覆っていく。何よりも、その事が嬉しくてたまらない。
それと、同時。まるで己の道を指し示すが如く、アリュエノの脳の奥底、思考の根源に、新たな光の如き啓示が、浮かび上がろうとしていた。
それは、神の啓示。聖女へと至るための道筋を書き記したもの。それがかつて大聖堂にいた頃と同じように、頭の中に浮かび上がる。
なるほど、過程はどうにも思い出されないが、その啓示故に、己は馬車に揺られているというわけだ。頭蓋の中の記憶が、まるで啓示に導かれる様に整えられていく。何も、おかしな事はないのだと、此れは正しい道筋なのだと主張するように。
啓示の指し示す先は、ベルフェインから離れる旅路。
黄金の瞳が、細まる。眼からは熱が、吐き出されん勢いだった。ベルフェインから離れるという事は、ルーギスから己が離れるという事だ。それこそ一刻も早く彼の手を取ってあげたいと、いうのに。
しかし、一瞬眼を瞬かせつつ、アリュエノは深く、数度呼吸を漏らした。頭蓋の中が僅かに冷静さを取り戻していく。
なるほど確かに、出来うることならば今すぐベルフェインへと踵を返し、ルーギスの手を取りたい。しかしそれは、駄目だ。それは余りに短慮が過ぎる。
ルーギスは今、誤った救いに手を伸ばそうとしてしまっている。紋章教という名の、歪んだ救いに。勿論それも仕方がない。私を待ち望みながらも、それでも時には他に心が傾くことはあるだろう。彼とて人間だ。それは、当然の事。
だから、大事なのは、二度と他の何ものにルーギスが傾かぬようにする事。他の全てから彼を切り離してしまうことだ。その為には、少々の遠回りも仕方がない。それに今ベルフェインに向かった所で、己はただの小娘。何が出来るわけでもない。
ならば今は、啓示に従いましょう。己が聖女に近づくことが、ルーギスの救いに近づくのだと、そう信じて。
そう、心の中に浮かべながらアリュエノはもう一言、胸の奥底で呟いた。それは意識的なものでは決してない。きっと無意識の中で浮かび上がり、そうして再び胸の奥へと沈み込んでしまった一つの言葉。
――ええ、そう。彼に救いを与えられるのは私だけ。此の権利は、神様にだって譲りはしない。




