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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百七十八話『愛おしい傷跡』

 ――本当に何て自分勝手で、向こう見ずで、そして愚かな人なんだろう。


 フィアラートは黒い眼を揺らしつつ、思わず胸の奥でそう呟いた。意識をその身体から失わせ、庭園に倒れこんだルーギスを、カリアと共に抱き上げる。もはや僅かばかりの力もその身には込められていないのだろう。ルーギスの身体は随分と重い。四肢は、弛緩したようにして宙に揺られていた。


 しかし、フィアラートにとってはそれはどうにも、心地よい重みだった。


 本当に、こんな時でもないと彼は己にもたれ掛ってくれない。誰かにもたれ掛ることを罪悪とでも感じているかの様に、何時も自らの脚だけで踏み出そうとしてしまう。普段は、その身体の重みを決して己に感じさせてなどくれないのだ。だからこそ、今感じられるルーギスの重みが、フィアラートにとって妙に心地よかった。


「どうだ魔術師――いやフィアラート、この愚か者の身体を編み込めるか」


「ええ、カリア。勿論――全霊を掛けて」


 愚か者。カリアが自然と唇から漏らした言葉は、奇しくもフィアラートがルーギスに対して抱いた思いと変わりない。まさしくその通りだと頷いてしまいたいほど。


 私たちを頼り、危険を分かち合ったかのような素振りを見せておきながら、結局は己が最も傷跡を重ねる道を選ぶのだ、彼は。思わずその頬に手を添える。頬には幾つもの小さな傷が痕を残し、その顔色からは血の気が失われてすらいる。なるほど恐らくは、大量の血液を失ってしまったに違いない。それだけではない、大きな裂傷を見せる肩と左腕は、もはやこのままでは二度と使い道をなくすだろう。恐らくは二階から肉の獣へと墜落した際、全身の骨も軋みをあげたに違いない。


 本当に、何て、愚かな人。何て、憎らしい人。頬にあてた手をルーギスの心臓部へと這わせ、両手を彼の肌に直接当てる。


 今回、彼が己を頼ってくれたのは嬉しい、胸は弾み、思わず頬が緩む。それだけの事実で彼の身にすり寄りたくなってしまう。


 だけれども結局、ルーギスはいつも私に、私たちに傷を負えとは言わない。共に代償を背負ってくれとは、決して言いはしないのだ。


 酷い、それはとても酷い事だ。仲間だと言うのなら、共にある存在だというのなら、その痛みも、傷も苦しみも、全て共にする義務がある。権利がある。それを、ルーギスは全て独り占めしてしまう。自分が傷ついて、苦しんで全てが終わるのなら、それで構わないだろうとでも言うように。


 ああ、私は、貴方から与えられた傷であるならば愛おしいとすら思うのに。誇らしいとすらこの胸は感じるのに。本当に、本当に酷い人だ、ルーギスは。フィアラートの黒い毛髪が夜闇の中を、揺蕩う。


 彼の胸元に這わせた手を肉体へと押し付け、魔の術式を構築していく。脳裏が、かつての事を思い出す。紋章教徒の地下神殿、宝剣の魔力を用いて彼を鋳造した時の事を。あれほどに胸が昂ぶった経験は、フィアラートにはない。それを今一度、此処に顕現させよう。あの日の光景を、今一度再現してみせよう。何、簡単な事だ。魔力はそれこそ、使い切れぬほどにある。


 本当は、ルーギスに全て捧げ、彼の助けとするはずだった魔力の坩堝。未だ尚、ベルフェインの街並みを照らす薄緑の柱。此れをそのまま全て、ルーギスの修復につぎ込もう。彼の身体を編み込む事に、全てを掛けてしまおう。


 惜しいはずもない。もとより此の魔力はルーギスに捧げる為のもの、一切の出し惜しみもなく、彼の身体を再び此処に精錬させる。


 それが、私が彼の仲間として出来ること。フィアラートは眉をあげ、唇を波打たせながらそう思う。知らずその視線が、一瞬傍らのカリアへと向いた。


 カリアは、強い人だ。きっと、彼女の強さはルーギスをも強くする。その精神のあり方と武威は、洗練された魂の存在は、紛れもなくルーギスを引き上げる助けになることだろう。それは、己には出来ないこと。


 己のように惰弱な精神と魂を持ち、そうして彼に依りかかる事しかできぬような存在には、彼を強くする事なぞ出来ようはずもない。その思考にとらわれるたび、フィアラートは己の胸が締め付けられるように痛むのを感じる。そうしてそれが、己に何とも醜い表所を齎すことを、フィアラートは理解していた。


 だから、こそ。魔術という側面では、否、魔という世界では、己は誰に対しても遅れを取る気はない。そうでなければ、己はルーギスの傍らにいる権利を喪失してしまう。共にあれるという幸福を、手放してしまう事になる。


 それだけは、許容しかねる。何があろうと、絶対に。


 ならば己の魔に対する才能を、全てその身に注ぎ込ませよう。己にとれる全ての手段を持って、ルーギスの助けとしよう。


 歪んでいる。この想いが健全かと問われれば、素直に頷くことなど出来ようはずもない。胸に渦巻く情動が、何処か歪である事なぞ、随分と昔に理解している。


 それでも尚、その想いが手放し難く、失いたくないからこそ、己は手を伸ばすのだ。何かに希うのではなく、祈り願うのではなく。此の手を、前に、前に。


 フィアラートの指先が、緑色に輝く。濃密な、魔力の群れ。本来は意思持たぬはずの魔という存在が、フィアラートに命じられ、瞳を開き始める。


 ルーギスの傷口は余りに深い。ならば魔力を血管の代替とし機能させよう。もはやその筋は継ぎ合わされぬ。ならば魔力の糸をもって肉体を編み込もう。神経は千切れもはや繋がる気配すらない。では新たな器官を作り上げよう。


 まるで夢でも見ているかのようだった。かつて地下神殿で行った修復作業よりも遥かに高度で、本来ありえぬはずの魔術術式。夢想そのものの魔術理論。まるで人間そのものを作り上げるような背徳行為。


 それらがフィアラートの脳裏に浮かび、頭蓋の羊皮紙に書き込まれる度、指先が即座に実践してゆく。


 魔術師として、これ以上の快楽はない。そうしてフィアラート個人として、ルーギスを自らの手で精錬する、これ以上の悦びはない。


 ベルフェインに貯めこまれた、魔力。都市一つを蒸発させかねないほどの魔力の塊。肉塊の獣に注ぎ込み目減りはしているが、では残り全てを、彼の修復の為に注ぎ込もう。フィアラートの手元の緑が、より濃く、そして密度を増していく。


 歪な音が、耳の奥で鳴ったのをフィアラートは聞いた。酷く背徳的で、精神をかき乱される、音。思わずフィアラートの頬が揺れた。


 それはきっと、己の魂に傷跡がついた、音。理屈も因果も分かりはしないが、ああ、そういうものなのだと、自然とフィアラートは胸の奥底で頷いた。


 決して取り返しがつかない事を己は今成していると、フィアラートは理解している。だが、それすらも、今はどこか心地よい。ようやく一つ、彼の為に傷を負うことができたのだと、フィアラートは安息すら覚えていた。


 そうして、もはやフィアラートの魔力も枯渇を覚え、ルーギスの全身が魔力にて編み込まれた、その瞬間。


 ――銀の閃光が宙を走ったのが、眼の端に、見えた。それこそ、針ほどの大きさの閃光が。

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― 新着の感想 ―
[一言] フィアラート氏の魂傷ついたのだが果たして治るのだろうか あとルーギスもしかして超強化きた?
[良い点] ルーギスは自分は最低だだから死ぬぐらいやらないとあいつらにはついていけないと、周りはルーギスに追いつきたい、一緒になりたいと追いかける傷つき合いながらの切ない気持ちがとても良いです
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