第百七十八話『愛おしい傷跡』
――本当に何て自分勝手で、向こう見ずで、そして愚かな人なんだろう。
フィアラートは黒い眼を揺らしつつ、思わず胸の奥でそう呟いた。意識をその身体から失わせ、庭園に倒れこんだルーギスを、カリアと共に抱き上げる。もはや僅かばかりの力もその身には込められていないのだろう。ルーギスの身体は随分と重い。四肢は、弛緩したようにして宙に揺られていた。
しかし、フィアラートにとってはそれはどうにも、心地よい重みだった。
本当に、こんな時でもないと彼は己にもたれ掛ってくれない。誰かにもたれ掛ることを罪悪とでも感じているかの様に、何時も自らの脚だけで踏み出そうとしてしまう。普段は、その身体の重みを決して己に感じさせてなどくれないのだ。だからこそ、今感じられるルーギスの重みが、フィアラートにとって妙に心地よかった。
「どうだ魔術師――いやフィアラート、この愚か者の身体を編み込めるか」
「ええ、カリア。勿論――全霊を掛けて」
愚か者。カリアが自然と唇から漏らした言葉は、奇しくもフィアラートがルーギスに対して抱いた思いと変わりない。まさしくその通りだと頷いてしまいたいほど。
私たちを頼り、危険を分かち合ったかのような素振りを見せておきながら、結局は己が最も傷跡を重ねる道を選ぶのだ、彼は。思わずその頬に手を添える。頬には幾つもの小さな傷が痕を残し、その顔色からは血の気が失われてすらいる。なるほど恐らくは、大量の血液を失ってしまったに違いない。それだけではない、大きな裂傷を見せる肩と左腕は、もはやこのままでは二度と使い道をなくすだろう。恐らくは二階から肉の獣へと墜落した際、全身の骨も軋みをあげたに違いない。
本当に、何て、愚かな人。何て、憎らしい人。頬にあてた手をルーギスの心臓部へと這わせ、両手を彼の肌に直接当てる。
今回、彼が己を頼ってくれたのは嬉しい、胸は弾み、思わず頬が緩む。それだけの事実で彼の身にすり寄りたくなってしまう。
だけれども結局、ルーギスはいつも私に、私たちに傷を負えとは言わない。共に代償を背負ってくれとは、決して言いはしないのだ。
酷い、それはとても酷い事だ。仲間だと言うのなら、共にある存在だというのなら、その痛みも、傷も苦しみも、全て共にする義務がある。権利がある。それを、ルーギスは全て独り占めしてしまう。自分が傷ついて、苦しんで全てが終わるのなら、それで構わないだろうとでも言うように。
ああ、私は、貴方から与えられた傷であるならば愛おしいとすら思うのに。誇らしいとすらこの胸は感じるのに。本当に、本当に酷い人だ、ルーギスは。フィアラートの黒い毛髪が夜闇の中を、揺蕩う。
彼の胸元に這わせた手を肉体へと押し付け、魔の術式を構築していく。脳裏が、かつての事を思い出す。紋章教徒の地下神殿、宝剣の魔力を用いて彼を鋳造した時の事を。あれほどに胸が昂ぶった経験は、フィアラートにはない。それを今一度、此処に顕現させよう。あの日の光景を、今一度再現してみせよう。何、簡単な事だ。魔力はそれこそ、使い切れぬほどにある。
本当は、ルーギスに全て捧げ、彼の助けとするはずだった魔力の坩堝。未だ尚、ベルフェインの街並みを照らす薄緑の柱。此れをそのまま全て、ルーギスの修復につぎ込もう。彼の身体を編み込む事に、全てを掛けてしまおう。
惜しいはずもない。もとより此の魔力はルーギスに捧げる為のもの、一切の出し惜しみもなく、彼の身体を再び此処に精錬させる。
それが、私が彼の仲間として出来ること。フィアラートは眉をあげ、唇を波打たせながらそう思う。知らずその視線が、一瞬傍らのカリアへと向いた。
カリアは、強い人だ。きっと、彼女の強さはルーギスをも強くする。その精神のあり方と武威は、洗練された魂の存在は、紛れもなくルーギスを引き上げる助けになることだろう。それは、己には出来ないこと。
己のように惰弱な精神と魂を持ち、そうして彼に依りかかる事しかできぬような存在には、彼を強くする事なぞ出来ようはずもない。その思考にとらわれるたび、フィアラートは己の胸が締め付けられるように痛むのを感じる。そうしてそれが、己に何とも醜い表所を齎すことを、フィアラートは理解していた。
だから、こそ。魔術という側面では、否、魔という世界では、己は誰に対しても遅れを取る気はない。そうでなければ、己はルーギスの傍らにいる権利を喪失してしまう。共にあれるという幸福を、手放してしまう事になる。
それだけは、許容しかねる。何があろうと、絶対に。
ならば己の魔に対する才能を、全てその身に注ぎ込ませよう。己にとれる全ての手段を持って、ルーギスの助けとしよう。
歪んでいる。この想いが健全かと問われれば、素直に頷くことなど出来ようはずもない。胸に渦巻く情動が、何処か歪である事なぞ、随分と昔に理解している。
それでも尚、その想いが手放し難く、失いたくないからこそ、己は手を伸ばすのだ。何かに希うのではなく、祈り願うのではなく。此の手を、前に、前に。
フィアラートの指先が、緑色に輝く。濃密な、魔力の群れ。本来は意思持たぬはずの魔という存在が、フィアラートに命じられ、瞳を開き始める。
ルーギスの傷口は余りに深い。ならば魔力を血管の代替とし機能させよう。もはやその筋は継ぎ合わされぬ。ならば魔力の糸をもって肉体を編み込もう。神経は千切れもはや繋がる気配すらない。では新たな器官を作り上げよう。
まるで夢でも見ているかのようだった。かつて地下神殿で行った修復作業よりも遥かに高度で、本来ありえぬはずの魔術術式。夢想そのものの魔術理論。まるで人間そのものを作り上げるような背徳行為。
それらがフィアラートの脳裏に浮かび、頭蓋の羊皮紙に書き込まれる度、指先が即座に実践してゆく。
魔術師として、これ以上の快楽はない。そうしてフィアラート個人として、ルーギスを自らの手で精錬する、これ以上の悦びはない。
ベルフェインに貯めこまれた、魔力。都市一つを蒸発させかねないほどの魔力の塊。肉塊の獣に注ぎ込み目減りはしているが、では残り全てを、彼の修復の為に注ぎ込もう。フィアラートの手元の緑が、より濃く、そして密度を増していく。
歪な音が、耳の奥で鳴ったのをフィアラートは聞いた。酷く背徳的で、精神をかき乱される、音。思わずフィアラートの頬が揺れた。
それはきっと、己の魂に傷跡がついた、音。理屈も因果も分かりはしないが、ああ、そういうものなのだと、自然とフィアラートは胸の奥底で頷いた。
決して取り返しがつかない事を己は今成していると、フィアラートは理解している。だが、それすらも、今はどこか心地よい。ようやく一つ、彼の為に傷を負うことができたのだと、フィアラートは安息すら覚えていた。
そうして、もはやフィアラートの魔力も枯渇を覚え、ルーギスの全身が魔力にて編み込まれた、その瞬間。
――銀の閃光が宙を走ったのが、眼の端に、見えた。それこそ、針ほどの大きさの閃光が。




