第百七十五話『この身が背負うもの』
頭の奥底に妙な痺れがあるのを感じていた。心臓が強く鳴り、全身に響く音がどこか、遠いものに聞こえる。身体の感覚そのものが、何故か自分から離れていってしまうような、そんな感触があった。
「――だって、あれは神が遣わした獣。人間が勝ち得ることなんて、あり得ない。彼女達が勝ち得ようとするのだって、無駄な努力。本当に必要なのは、神に縋って、祈り願い、救済を請うことだけ」
そんな流れるような、まるで嘲笑うような、アリュエノの言葉。その言葉が驚くほど滑らかに耳の中を滑り落ち、胸へと突き刺さる。心臓が何度も鳴り響いているのが分かるというのに、それが何故か、遠い。
アリュエノの言葉、それは、真実なのかもしれない。紛れもない正の言葉であるのかもしれない。
何せあの化け物、肉塊の獣は明らかに他の生物とは一線を画する存在だ。神の仕業と言われれば、なるほどある種の納得をせざるを得ないし、はたまた悪魔の悪意そのものだと言われても、信じられる。とても自然から生まれ出でる様なものでないことだけは、確かだ。
黄金の頭髪が風にゆられ、一瞬視界の端を横切った。
「ルーギス。私はね、貴方が此処に来るって分かっていたのよ。ええ、全て知っていたわ――だからこそ此処に導いたし、筋道もひいてあげた。そうして、貴方が来るまで此処で待った」
声が、耳を通り抜けて行く。肌と指先が、いや、全身が酷く冷たく感じられた。吐く息も、吸う息も全てが、身体から熱を奪って行ってしまう。その度に、頭蓋の中が白く染まる。白く、とても白く。思考など、考えることなぞ、もうないのだとでも言う様に。
ただアリュエノの言葉だけが、暖かさを伝えてくれていた。
「よく見て、ルーギス。貴方が英雄と慕い、尊んだ存在も、神の手の中では素直に転がり続けるしかない。逆らうことなんて、決して出来ない」
眼下でカリアの銀剣が煌いたのが、見えた。しかし銀剣が幾ら肉塊を切り裂き血を噴出させようと、瞬きの間に肉は再度膨らみ、傷を塞ぐ。それはまるで、銀髪を揺らめかせながら懸命に体躯を動かすカリアを、あざ笑うかのよう。
「人は此れを、神の引いた道筋のことを、運命とそう呼ぶの。そうして運命には、決して逆らえない。そう、英雄も、勇者も――ねぇ、凡夫に過ぎない貴方なら、尚のことでしょう、ルーギス」
身体が、まるで氷そのものにでもなってしまったかのように、酷く、冷えた。それだけではない、臓腑の最奥までもが、熱を奪い取られたかのよう。寒い、凍える、凍えて死んでしまいそうになる。本当に、今までの人生で感じたことがないほどの冷たさだ。
奥歯が重ならずがちりと音を鳴らし、唇が乾燥を訴えていた。数度、吐息を吐き出す。それはとても俺自身のものとは思えぬほどに、か細い息だった。
ねぇ、ルーギス、と彼女が言葉を、続ける。夢でも見ているかの様な、柔らかな声。そして暖かい声だった。
「――もう、いいじゃない。諦めましょう。いえ、むしろ貴方はよくやり遂げたわ。もう頑張らなくていいのよ。傷つかなくても、いいの」
背後から伸びた手が首に絡みつき、耳にかかる吐息がそう、告げる。何とも甘い、甘い誘惑だった。身体も、心臓も、臓腑の全てまでもが溶け落ちてしまいそうな、甘さ。
濃い白が重なり合い、まるで何も見えなくなってしまった頭の中に、ふと、幾つかの光景が浮かんだ。
それは、紛れもない過去の情景だ。かつての屈辱に塗れた旅路から、城壁都市ガルーアマリア、空中庭園ガザリア、そうして此処、傭兵都市ベルフェインに至るまで。それら全ての情景がゆっくりと瞳の奥に浮かんでは、消えていく。
何とも、この俺が成したとは思えぬほどの軌跡が、其処かしらに散らばっているように思われた。大したものだ、自分で、自分を褒めてやりたい気分になってくる。
よくやり遂げた、か。
なるほど、確かにそうだ、間違いがない。この身が凡夫に過ぎぬのであれば、まさしく此れは光り輝く道筋に違いあるまい。素晴らしい。本当に、此れ以上の事はないさ。此処までの旅路を思うと、未だ夢でも見ているかの様な、そんな気分だ。此処に舞い戻ってから、本当に、楽しかった。ああ、素晴らしい日々だった。
頬を叩きつける寒風に、思わず目を見開く。アリュエノの、白くきめ細やかな肌がすぐ傍に見えていた。こちらから握り返すことを望んでいるかのように、胸元へと手が、伸ばされる。
――本当に、良い夢だ。
許されるはずだ。その手を取ることは、誰にも咎められることはないはずだ。その行為を、果たして誰が責め立てられるというのか。全ての責め苦を投げ捨て、それらを一夜の夢と流し去ってしまい、膝をつくことを、誰が。
背後から、何かを歌うような調子で声は響き続けている。一瞬、歯が、音を鳴らした。ゆっくりと、唇を開く。俺が後ろを振り向くことは、無かった。眼下で、カリアの銀剣が一際輝いている。
言葉を選ぶようにして、背後へと、言葉を投げかけた。
「――悪いな。神だの運命だの、高尚すぎてその手の話は肌に合わないらしい」
目の前に回っていた白い腕が、ぴくりと、不自然に跳ねた。頬を強かに打つ風が、相変わらず冷たい。もはや、痛みすら感じるほどだ。
だが、だというのに口から零れ出る吐息は不自然なほどに、熱い。凍り付き、音一つ立てなくなっていた臓腑が、その奥から煙を立てる。血液が、まるで炎の如く熱を吐き出しながら全身を駆け巡っていくのが、分かった。
そうだ、許されるとも。全ての責め苦を諦念の果てに投げ捨て、膝をついて眠りにつくことは誰もに許される権利だ。ああ、かつての俺にもきっとそれは許されていた。
だが、今となってそのような権利は、俺に与えられるはずもない。例え万人が赦そうが、俺自身が赦せるものか。
太陽の如き英雄の片眼を抉り、エルフの王の命を掻き切り、そうしてあろうことかこの身はカリアの首筋にまで、剣を突き付けた。
――己の中のドブネズミなど、首を絞めて殺してしまえ。
――この剣を跳ね飛ばしてみろ。其れが叶うのであれば、もはや貴様は凡夫でも、小石でもない。
今に至っては、この身は自由の身ではない。諦める事も、膝をつくことも、自らを凡夫と蔑むことも、全てが彼らへの侮蔑となる。俺が心より敬意を示し、そうして憧憬すらも胸に抱く彼らという存在に、泥を塗りつけることになる。
そんな事が、今更どうして出来るものか。そんな事を、どうしてこの胸が許容できようか。
「……どう、したの、ルーギス。そんな言葉を出さないで。私の手を取っては、くれないの?」
その声が耳に触れる度、心がぐらりと傾きそうになる。精神が、平衡を欠きそうになる。出来るならば今すぐ後ろを振り返り、その身を抱きしめてしまいたいとも、思ってしまう。矛盾するようだが確かにその情動も、この胸奥には存在している。
だが、だがだ。
「――おいおい、勘弁してくれよ。俺が惚れた女はな、お前ほど、安い言葉を吐く人間じゃあないのさ。良い夢は、見させてもらったがね」
首元から、その白い腕を引きはがして、そう、言った。




