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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第七章『騒乱ベルフェイン編』
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第百七十四話『聖女の姿と神の言葉』

 ――カリアと肉の獣の壮絶な攻防が、夜闇に音を打ち立てている。


 その両者の戦い、血と肉が散々に飛び交う光景を、俺は領主館二階、丁度あの化け物が破壊し尽くした廊下から見下ろしていた。壁の殆どが砕け散ってしまったお陰で、随分と見晴らしが良い。冷たい風が頬を撫でる度、全身に肌寒さを感じる。


 膝が時折力を失い、身体をぐらつかせた。脳は脚にもう暫くの辛抱だと命令を出し続けているのだが、どうにもそれが上手くいかず、真っすぐに立っていられないし、歩くことももはや困難だ。それゆえ此処に至るのにも、ふらふらと身体を揺らしながら階段を駆け上がる羽目になった。


 何とも、無様な事この上ない。それがまた俺らしいと言えば、らしいのだが。


 喉が軽くなり、眉がくいと上がる。優雅さを望むほど、贅沢ではない。しかしせめて少しくらいは見栄えよく振る舞ってみたいものだ。どうにも神様はお許しくださらないらしいが。


 あの化け物、肉の獣に刃を突き立てる為に、態々こんな場所にまで脚を運ばねばならないのも、なるほど見栄えが良いとはとても言えないだろう。


 きっと見栄えが良い戦い方というのは、正面から向き合って互いに名乗りを上げ、そうしてそのまま正々堂々と敵と切り結ぶような。そんな、戦い方を言うのだ。


 少なくとも今の俺には、あの化け物を前にして正々堂々を謳うような余裕はない。いやむしろ、例え身体が万全の状態であっても御免だ。


 だがそれでも、多少は出来ることがある。そう、それこそ今の俺にだって。剣は振るえずとも、もはや脚は剣戟を成す程の力を残していなくとも、だ。そう思って、俺は此処に来た。


 ――ああ、そのはずだ。そのはず、だった。


 肺から冷たい空気を吐き出しながら、もはや断崖の淵となった廊下の外側に、足を掛ける。そうして頬に風を受け、眼下の化け物を見下ろしながら、言った。


「――それで、俺があいつらを助けるべきでない理由ってのは、何だよ」


 背後に立っているであろう、誰かに、声を掛けた。いや、誰がそこにいるのかは、もう知っている。知ってはいるのだが、それが果たして本当の事であるのかが、未だ胸奥で上手く受け入れられていなかった。


 その人物が、後ろでゆっくりと声を漏らす。耳奥を優しく撫でる様な、そうして妙に聞きなれた気がする、そんな声だった。


「決まっているじゃない、ルーギス。彼女達は反逆者で、異教徒。許されざる民、そのものじゃないの」


 僅かに顔を振り向かせると、何処か虚ろさを見せる黄金の瞳が、光一つない廊下の中で瞬いたのが見えた。瞳と同色の髪の毛が、まるで風に揺蕩うように揺れる。


 暗闇の中でも尚映える、触れてしまえば脆く崩れてしまいそうな白い肌と細い指。その風貌は、年月を経て、よりそのきめ細やかさを増したようにすら思わせる。


 そう、その姿は紛れもない。見間違えるはずもない。俺の幼馴染であり、想い人――アリュエノの、姿。


 彼女が頬を崩して見せる笑みは愛らしく、何処までも無邪気だ。その小さく揺れる唇が言葉を紡ぐ。


「勿論、彼女達にも救いは与えられるべきよ。だけれども同時に、試練も与えられなければならない。その試練を乗り越えてこそ、救いは意味を成すものでしょう。ええ、そういうものよ、ルーギス」


 語られる言葉に一切の淀みはなく、まるで流れるようにそう告げられる。それは彼女が自らの言葉を、心の底から信じ切っている事を意味しているのだろう。何一つ間違いはない。己のいう事こそが正しいのだと、確信しきっている。アリュエノはそんな、様子だった。眉が、知らず跳ねる。


「……だが、それが罪なら、俺も同じだろう。もしもカリアに、フィアラート、彼女らに試練が与えられるのなら、俺に与えられない道理はないんじゃないのかね」


 階下から響き渡る剣戟の音が、耳を打つ。俺はカリアの銀髪が揺らめく姿を見ながら、そう、自然と声を漏らしていた。


 当然の、疑問だ。彼女らが罪人だというのなら、俺はそれ以上の罪を与えられるに違いない。与えられてしかるべきだ。だというのに、試練を与えられるのは彼女らのみで、俺はのうのうとそれを観戦しているというのは、余りに道理に合わぬことだろう。


 こつん、と、アリュエノの足が廊下を打つ音を聞こえた。その足音までもが、まるで昔と変わっていないような気分を胸中に引き起こす。


「ええ、そうね。その通り。貴方もまた、とても、とても罪深い罪人ね、ルーギス」


 足音とその声から、背後のアリュエノがこちらにゆっくりと、近づいてきているのが分かった。俺は目線を細めながらも、廊下の淵に脚を掛けたまま、動かなかった。僅かに視界が、揺らぐ。耳に降りかかる声が、どうしても、あの頃を思い出させた。


 瞳に浮かぶのは、孤児院で俺とアリュエノ、そして育て親のナインズさんが笑いあっていたあの、光景。それがまるで目の前にあるかのように、鮮明に感じられる。


 背中のすぐ傍で、アリュエノの声が、響いた。


「でも、だからこそ、助けにいっては駄目。何故なら貴方には貴方の試練があり、彼女らには、彼女らの試練があるのだもの」


 首回りにアリュエノの腕が、巻き付いたのが分かる。アリュエノの存在を、背中のすぐ近くに感じ取っていた。


 そう、なのだろうか。その言葉はもしかすると全て正しいのだろうか。


 不思議とそう思わせる様な響きが、アリュエノの声には宿っていた。人の気を自然と手に巻き取ってしまうような、そんな響き。指先が小さく震える。淵に掛かっていた足を、思わず後ろに退きそうになってしまう。目の前に、アリュエノの白く細い指が、見えていた。


 ああ、そうだとも、何を迷うことが。何を逡巡する事があるのだ。


 俺はこの手を、何よりも欲していたのではないか。何よりもアリュエノという人間を欲して、彼女に手を届かせる為に今、此処にいるのではないか。では、今俺がすべき事はもう、決まりきっている、そのはずだ。


 僅かに胸の奥で心臓が、跳ねた。アリュエノの身体がより近くで感じられるように、なっていた。


「――それに、ルーギス、貴方が例え彼女達に力を貸した所で、何の意味もないのよ。あの守護する獣には、絶対に勝ちえない。勝利しようと、奮励する事自体が、無駄に過ぎないわ」

 

 アリュエノの言葉が妙に、冷たく、そうして淡々と耳の奥に入り込んできていた。流れるような声の調子で、彼女は言葉を続ける。


「だって、あれは神が遣わした獣。人間が勝ち得ることなんて、あり得ない。彼女達が勝ち得ようとするのだって、無駄な努力。本当に必要なのは、神に縋って、祈り願い、救済を請うことだけ」


 ただ、それだけなの。その言葉が、俺のすぐ傍、耳に唇が触れるかと思うほどの距離で、囁かれた。それはまるで、あの悍ましい獣に立ち向かう姿を、あざ笑うような響きすら、含んでいた。


 もう一度、強く、心臓が鳴った。

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