第百七十二話『どうしようもない彼ら』
それは美麗と、そう呼んで差し支えない一閃だった。カリアの銀剣が獣に突き刺さり、血肉を抉る。
銀色が夜闇に円を描きながら、血飛沫を跳ねさせる。かつて整えられていたであろう領主館の庭園は、もはや血と肉に覆われていた。周囲には、まるで生き物が腐ったような酷い臭いが漂っている。
獣の肉が切り裂かれ、夥しい血がまき散らされるその度に、獣は絶叫を真似たような音を鳴らす。そうして己と敵対するものを破壊せんと、幾度もその豪腕が振るわれた。
それは空間そのものを薙ぎ払おうかというほどの、紛れもない剛撃。
――だがその悉くが、銀剣によって地に叩き落される。
カリアは肺から大きく吐息を漏らしながら、その長い睫毛を瞬かせた。
なるほど確かに、獣の一撃一撃は、脅威の塊だ。死をそのまま顕現させた存在といっても過言ではない。肉を張り詰めさせた腕が直撃すれば、間違いなくこの身を砕けさせるであろうし、僅かでも剣先を狂わせれば、勢いをつけた剛撃を捌くことは叶わない。その威容に、冷たい汗が己の背筋を撫でることもある。
それに加えて、だ。此の獣は、紛れもない異常を、その身に有している。
先ほど己がつけた傷にふと視線をやれば、それは一目で理解できた。傷口の下から、有り得ぬほどの勢いで肉が盛り上がり、瞬きもする間に血の飛沫を抑えてしまう。まるで人の治癒機能を、無理やり早めている様な光景だ。
先ほど、ルーギスと共に抉りぬいてやった顔面部も同様に、歪な肉が盛り上がっている。思わず、眉が歪んだ。
カリアの胸奥から再び、大きな吐息が漏れた。
斬撃が明らかに敵の肉を抉っているというのに、それが果たして意味を成しているのかがどうにも分からない。傷はつけた内から、塞がってしまう。精神が緩く締め付けられている様な感触をすらカリアは覚えていた。
面倒だ。至極、面倒な事だ。神話にある不死身の巨人とは、このような存在の事を指すのだろうと、カリアは銀髪を揺らしながら、思った。
だが、例え此の化け物がどれほど強靭であろうと、例え不死身であろうと、それが退く理由になるかと言えば、それは違う。諦める理由になるかと言えば、そんなはずがない。それに、このような想いをしたのは、一度や二度ではないのだ。
この身は、今まで幾度も己より遥かに巨大な生物と、剣を合わせて来た。大木の森の大猪に、ガザリアでの魔猿。何度、心を折りかけただろうか。幾度、膝をつきかけただろうか。
それらの威容を乗り越えて来たのだという自負、そうして誇りが、カリアの胸中で今、大きな柱となっている。一度乗り越えられたのであれば、もう一度乗り越えることなど容易いことだと銀剣が語る。
事実、獣の一撃は一度とて、カリアの頬に触れておらず、その脚を後退させる事も叶っていない。むしろ、此の戦場を制圧しているのはカリアの方だ。
それに、それにだ。退けぬ理由は、他にもある。カリアの耳の奥で、ルーギスの言葉が反響していた。
――情けない話だが、暫く正面を頼む。どうにも奴は、神話の生物気取りだ。なら、らしい死に方というのを、用意してやらんとな。
目の前で塞がっていく肉塊の裂傷を見ながらルーギスはそう言って、カリアへとこの場を託した。魔術師、いやフィアラートと言葉を交わしていた所を見るに、何等かの悪だくみをしているであろうことは、カリアにも想像がつく。そうしてその悪だくみを成就させるまでの時間を、私に稼いでほしいという事なのだろうという事も、言外から理解できた。
思わず唇が波打ちそうになっているのを、カリアは何とか堪えて、脚を踏み出す。
肉塊の大振りな剛撃が、その頬を掠めた。風圧だけで気を逸してしまうものすらいるであろう、剛を伴ったその一撃。それを前にして尚、カリアは更に一歩、踏み込む。
カリアは己の胸の奥で、心臓が今までにないような動悸を打っていることに、気づいていた。血流が妙に早く全身を巡っている。
ルーギスは、今己の傍らからは消えている。しかし、此の怪物を打倒する為の策を打っているのであれば、その為の隙を伺っているのならば、必ず、今の攻防を何処かで見ているはずだ。そう、見ている、はずなのだ。
やはり唇が波打ち、瞳が煌いてしまうのを、カリアは止められそうになかった。何せあのルーギスという男は、どうにも私の戦いから目を逸らし続けてきた人間だ。
あの大猪との戦いの時、私が見ていろと、そう言ったにも関わらず奴はまるで興味がなさそうに消えていった。魔猿の時もそう、奴は結局、私を待つことなく姿を消していた。
それが、ああ、それが。どれほどこの情動を、揺さぶった事か。貴様は知らんだろうな。
呼気が、熱を帯びていく。剣を持つ手に力が漲る。疲労は相応にあるはずなのだが、まるで気になりはしない。ただ一つの感情が、胸の中で大きくなっていく。
奴が、ルーギスが見ている。ならば決して、無様は晒せまい。その感情が、今何よりも大きいのだ。何とも、己が情けない女である事に辟易する。
みっともない情動だ、虚栄心がくだらない事など誰よりも承知している。ああ、理解しているとも。
だが、だがだ。今此の一時だけは、胸に昂ぶりを抱くことを戒めるのはやめてしまおう。頬が緩みかけてしまうのを、背筋に何時も以上の力が走るのを、仕方がないことだと断じてしまおう。
少しくらい良いだろうさ、何せ今までこんな機会がなかったのだから。初めての事とあれば、胸が昂るのも、多少力が入るのも当然の事だ。それに、此れは必要な事でもある。仲間であるならば、互いの力量を十全に把握しておくことは、当然に必要だ。そう、当然なのだ。
――だから少しばかり、奴に良い所を見せたいと思うのも、仕方がないだろう。
銀光が、獣の懐で、煌く。腰を駆動させ足首を捻り、獣の肩から胸元を斬り捨てる様にして、カリアは銀の長剣を肉に、這わせた。
殆ど、音というものが存在しなかった。
まるで真っすぐの線を描いたかの如く、長剣が獣の内部を通り抜けて行く。まるで何が起こったのか、恐らく獣すらも理解していなかったに違いない。
数瞬の、後。決壊を起こしたかの様に、獣の皮と肉が、弾けた。
肉がおもむろに口を開き、内部に溜まりこんだ脂と血液を吐き出して行く。血飛沫はまるで空中に飛び出すことを喜びとするかの如く、その身を跳ねさせた。
紛れもなく、ただの魔獣や獣であれば致命傷となるであろう、一閃。生命の核をもぎ取る一撃に違いない。
だが、此の怪物に関しては、此れでは死なぬのだろう。此れで死ぬのであれば、奴は、ルーギスは小細工など弄すようなことは、せんさ。であれば、もう少しばかり気を惹いてやる必要があるだろう。
ふと、カリアの眉が上がる。どうにもカリアは、今心に浮かんだ考えが、不思議でならなかった。
当然、ルーギスにも読み違いや見当を違うということはある。というより、それらしい事の方がずっと多いだろう。だというのに、どうしてこうも、私は奴のいう事を。
銀髪が、揺れる。その唇が緩やかに、波を打った。胸の奥底では、どうにも大きなため息が漏れ出ている。なんだ、結局どうしようもないのは、奴だけでなく、私も同じということか。本当に、どうしようもない。
肉塊の獣が、その節々から歪な音を鳴らす。それはまるで、断末魔を漏らすかのよう。だがそれでも、その身の肉は、尚の事再生を続けている。
傷口の内部から肉は盛り上がり、まるで無理やりその獣を舞台に引き上げようとでもいうように、幾度も、幾度も、戦うことを強要するように、肉体は修復を繰り返される。
カリアは、一瞬小さく息を吸い、そうして身体を捻り勢いを付けながら、獣の喉を目がけて銀剣を突き出す。それは紛れもなく、渾身の一刺し。
別段、そこが急所だと思った訳でもない。それで絶命に至ると思った訳でもない。だが、此の肉塊は所々生物らしい所作を取る傾向にある。ならば喉を一突きしてやれば、隙の一つくらいは、出来るだろうさ。
カリアが脚を踏み入れている場所は、もはや完全な獣の間合いの内。今更剣を引き抜いて、間合いの外へと引くような真似は出来ない。だから、これは、己なりの信用の見せ方だとカリアは瞳を瞬かせる。
――さぁ、見せてみろ。貴様は此の私から勝利をもぎ取ったのだろう。ならば、小石などとはもう言わせん。




