第百七十話『手を取る者』
腕の中に、少しばかりの重みを伴って、衝撃が舞い降りる。
途端、壊れかけた身体がその衝撃に耐えかねたとでもいうように唸り、次に肩と左腕が、身を裂くような痛みを主張し始める。どうやらもっと大事に扱えと、不満を訴えているらしい。
全く身体という奴は、これでもかという程に所有者のいう事を聞いてくれないものだ。どうせなら、必要な時以外痛みや苦しみなどというものは消し去ってくれれば良いというのに。
そんな事を胸に思い浮かべながら、目を瞬かせる。眼前で、黒い髪の毛がまるで羽ばたくように広がり、揺蕩う。それはまるで、夜にそのまま溶けていくようにすら感じられた。
ほぉ、っと肺の中から吐息を漏らす。どうにも、間に合わないという事だけは、無かったらしい。
「少し痩せたか、フィアラート。それに隈が出来てる、もう少し休む事を覚えるんだな。睡眠は魂の休息だっていうだろ」
文字通り、空から降るようにして俺の腕の中に落ちて来た、魔術師フィアラート=ラ=ボルゴグラードに向けて、そう唇を開いた。言葉の調子が、随分と砕けたものになっているのが自分でわかる。流石に俺という人間も、あの畏怖すら覚えそうな魔力の柱を見て、何処かフィアラートが無事ではないのではないかと、そう心配を抱え込んでいたらしい。頬が思わず、緩んだ。
反面フィアラートはその表情を妙に固くして、唇を静かに震わせている。その唇は言葉を発しようと幾度か開かれるものの、無音のまままたすぐ閉じてしまい、声は中々その口から飛び出てこない。
その表情は何とも、話すべき言葉を選びかねているような、一体なんと言えば良いのか分からなくなっているような。フィアラートにしては珍しいというか、どうにも似合わない表情だ。
どうしたのだとばかりに、顔を覗き込んだ時、ようやくその声が空間を揺らす。耳に、よく響く声だった。
「――そりゃあ、ね。起こしてくれる人がいなかったら、寝坊が怖くて寝れないじゃない」
思わず、声が漏れ出そうだった。俺を真似たのだろうか。フィアラートもまた、随分と砕けた言葉をこちらに返す。そんな風に肩で息をしながらいっても、まるで説得力がないだろうに。勿論それは、フィアラート自身も理解しているに違いない。
それでも尚、フィアラートは無理やり唇を上向かせて笑みを、見せた。黒い瞳が僅かばかり潤んでいるのが分かる。
全く、本当に仕方のない魔術師殿だ。俺も人の事はとても言えないが。
ふとフィアラートの様子を見れば、脚は二階から飛び降りた所為か未だ痙攣したように震えており、頬も何とか笑みを浮かべようと苦心はしているようだが、やはり何処かひきつっている。
その原因を探すように、目を細めながら領主館の上部へと、視線を移した。
「構えろ、ルーギス。遊びを見逃してやれるのは此処までだ。アレが、来るぞ。何と呼んだものか、迷ってしまうな、ええ?」
カリアが銀の長剣を構えながら、暗闇の中を一歩、踏み出た。俺とフィアラート、そうしてカリアの視線の先に紛れもなく、その存在は、いた。
獣の形を象った、肉塊。肉を張り詰めさせた数本の腕と脚は、妙に悍ましく、そして不出来だった。
肉塊は、身体の所々に炎を纏いながら、じぃっとこちらを館の二階から見下ろしている。壁がまるごと砕けてしまっているのだ。それはそれは見晴らしがいい事だろう。
しかしあの獣は、こちらをよくよく観察しているようで、その実、何一つみていない。
何せその顔らしき箇所には、目玉などついていない。ただ夥しい血の跡と、悍ましい肉の脂だけが見えている。だから、あれはただ、まるで観察するような真似事をしているだけ。何の意味もなく、まるで己は生命だと主張するような、そんな行為だった。
背筋が粟だつ。余りに悍ましいその姿に、生理的な嫌悪感を感じざるを得ない。その所作の一つ一つに、脳髄の最奥が痙攣するように痺れた。何とも、まぁ、記憶の中の嫌な部分を、擽られる様な感触だ。
フィアラートを地面にゆっくりと降ろし、その場に座らせる。未だ彼女の脚は震えを隠し切れず、全うに歩くことも難しそうだ。
参った。理想はフィアラートの手を取った後、早々に此の都市を抜け出てしまう事だったのだが。さてはて、あの不気味な肉塊は、無事に此方を逃がしてくれることだろうか。もしかすると根は良い奴で、心地よい笑みを浮かべて背中を見送ってくれるかもしれない。
その張り詰めた肉の奥からでも感じられるような、まるで重圧すら覚えるほどの敵意が、此方に向けられていなければ、だが。
駄目だ。背中を見せれば、それもフィアラートを抱えたままともなれば、あれは一息の内にこちらの肉を食いちぎる。己の一部にしてしまおうと、こちらの存在そのものを抉り取るに違いない。最悪だ。そんな死に方をするくらいであれば、まだ溝の中で息絶えた方が幸せというものだろう。あの悍ましい肉塊の一部になるくらいで、あれば。
詰まり、そうなりたくないのならば、もはや剣を振り回し、今此処で奴を出し抜くしかないというわけだ。何とも結構、素晴らしい事この上ない。
「フィアラート、ありゃあ、どうした。まさか天から降りてきましたってわけでもあるまい」
フィアラートを庇うようにしながら、一歩前に出る。宝剣を前に突き出すように、構えた。
軽く言葉を漏らしながらも、頭蓋の中では、さてどうしたものかとぐるりぐるりと、思考を回す。頭の端から端まで思考が駆け巡っているというのに、どうにも思考は纏まりを見せてくれない。焦燥がゆっくりと肌を焼いていくのが分かった。
「……モルドー。モルドー=ゴーン、だったもの、っていうのが一番近いわね。少なくとも、アレの元になったのが彼だった、ていうのは事実」
モルドー、略奪者モルドー=ゴーン。傭兵の出でありながら、ベルフェイン領主という座すら奪い取った、文字通りの成り上がり者。その成った先が、あの肉塊なのだと、フィアラートは言う。
なるほど、と、そう頷きながら、それ以上に深くは聞くことはしなかった。ただその言葉を素直に胸の中にしまい込む。疑問も、疑念も、紛れもなくこの胸には生まれていたが、それでも今それを解消しているような余裕と暇は存在しない。
カリアもまた同様に黙ってフィアラートの言葉に頷き、そのまま剣を構え続けていた。あの肉塊が一度でも安易にその首筋を見せれば、即座にそれを斬り捨ててやろうと、そう言わんばかりの気迫を持って。
――ゥウ゛――ァ――。
それは、慟哭だろうか。それとも、ただの肉が歪む音に過ぎないのだろうか。何とも不快で、耳に障る音を鳴らしながら、ゆらりと、肉塊にて象られた獣の姿が、揺らめいた。
思わず、息を飲んだ次の、瞬間。
炎が、火の粉を散らしながら夜闇を駆ける。まるでそれが当然だとでもいうかの如く、獣が、空を跳んでいた。




