第百六十八話『立ち止まる理由』
フィアラートの黒瞳に、肉塊が積み重なったかのような化け物が映り込んでいた。それはもはや、魔の獣と称するのも憚られる様な、いやむしろ魔よりも更に悍ましく、理解しがたい何か。それがモルドー=ゴーンという一人の人間の成れの果てとは、とても思えない有様だ。
思わずフィアラートは顔をあげ、その肉塊の顔らしき部分を、見つめた。大きく開かれた肉塊の口の中には、ただ窪みがあるだけだ。その中には舌も、内部へと続く食道もない。ゆえにそれは正確には口ではない。ただの、肉の裂け目。
ぞぉっとした思いが、フィアラートの臓腑、その内側を擽った。眼前に立ちはだかる肉塊の悍ましさゆえに、ではない。その獣を象った肉塊が、こちらに明確なまでの敵意を向けているからでも、ない。
ただ、此の獣を造形した存在を想像するだけで、フィアラートは震えが、止まらなくなりそうになる。人間が、自然とこのような姿に至るはずがない。何者の意思も介在せず、こんな吐き気を催すような業が行われるはずがない。
つまり、いるのだ。
此の肉塊を、悍ましい獣を造形した何者かが、この世界に。そうして、その存在は全くといっていいほど、命に興味がないに違いない。生命に対する尊厳すら、認めぬに違いない。どんな命であろうと、まるで子供が泥や粘土を弄るように、指で容易く捏ねてしまうのだろう。眼前の獣の存在が、それを容易く想像させる。フィアラートは喉が絶叫を響かそうと暴れ狂うのを、必死に押さえつけていた。
ゆらりと、随分ゆっくりとした速度で、獣が腕を持ち上げた。その肉が張り詰められているであろう太い腕は、どす黒い血の色を、している。眉が引きつりそうになるのを感じながら、フィアラートは飛び跳ねるように、一歩、下がった。
特別な脅威を感じたわけではない。ただその肉塊が近づいてくることに、原初的な恐怖と悍ましさを覚えたことは、間違いがなかった。
フィアラートは黒瞳を強張らせ、腕が振り下ろされる一瞬、その瞼を閉じた。
――ド、ガァンッ
その瞬間。耳を裂くような轟音が、周囲へと食らいつく。音そのものが衝撃の波となってフィアラートの身体へと迫った。余りの勢いに、立っていることすらままならなくなりそうなほど。身体を揺らめかせながら、知らず、フィアラートは瞼を開いていた。
視界に映りこんだのは、無残に破砕された壁と廊下の、姿。何か大型の魔物が渾身の力を以てそこに食らいついたのではないのかと、そう思わせるような惨状が、目の前に広がっていた。
此れは、駄目だ。目の前に広がる情景に、フィアラートの胸がそう告げる。
やはり、あの獣は人の想像が及ぶ地平にいる存在ではない。何か捻れた理の中で生きている、言わば理の外の存在だ。そんな考えが、すとん、とフィアラートの脳裏に生み落とされる。その考えの産声が、どんどんと大きくなって、脳内をあっという間に埋め尽くして行った。
此れは、人間の立ち向かうべき存在ではないのは間違いがない。しかし、では、早々に逃げるべきなのだろうか。それがどうにも、フィアラートには分からなかった。頭の中に、一つの考えが、浮かび始めていた。
勿論、本来であれば、逃げるべきだとそう信じる。知性への傾倒者であるフィアラートは、知の枠組みからはみ出したような存在と、戦おうとは思わない。それは余りに無意味であるし、それに対策も、相手の底も知れないのに戦いを挑むのは、余りに無謀だ。
だからきっと、本当は逃げるのが正しい。いや、逃げるという表現すらこの獣を相手にしては相応しくないだろう。その身から感じるのは、まるで、災害そのもののような、悍ましさ。災害を避けることを、誰も逃げるなどとは呼ばない。
だけれども、と、フィアラートはがくりと折れそうになる膝を、無理やりに立ち上がらせ、歯を食いしばる。黒い眼は肉塊の獣を見据え、何時もは纏まらせている黒髪が、今日は暗闇の中を揺蕩った。
――だけれども、ルーギスはきっと此処に来るだろう。そうして、彼がこの獣を見て、果たして素直に逃げ出すだろうか。
答えは、分かり切っていた。
竦みあがり、後ろに跳び跳ねてしまいそうな脚を窘める為、フィアラートはその場で床を強く蹴りつける。足先が、痺れるように痛んだ。吐息がゆっくりと、胸の奥から吐き出ていくのを感じていた。
「毅然とし、されど自然であれ、か。私も多少は、出来るようになったと思うんだけどね、ええ」
ガルーアマリアでルーギスの手を取って以来、頭に浮かべようとしなかったボルゴグラード家の教えが、ふと頭に浮かんでいた。頬が微かに、揺れる。己の胃の下あたりで、ぐるぐると膨大な魔力がその身を蠢かせているのが分かった。
今、フィアラートが出来ているのは、其処までだ。ベルフェインという都市にため込まれた魔力を、己が身を生贄にして、世界へと吐き出させているだけ。ゆえに、別段その魔力を自由自在に機能させられるわけでも、魔術の媒介と出来るわけでもない。眼前の獣に立ち向かう材料とするには、どうにも相応しくないだろう。己の才など、勿論信じるには及ばない。
だけれども。
再び、またゆったりとした動きで獣の腕が振り上げられる。やはりその肉が張り詰めた腕は、何処までも凶悪で、吐き気すら覚えるほどに悍ましかった。きっとその指先がこの身を掠めるだけで、己の腕は吹き飛び、下手をすれば腸が廊下を汚すだろう。
嫌だ。こんな化け物に立ち向かうなどというのは、怖くて怖くてたまらない。今すぐにだって逃げ出してしまいたい。
ああ、だけれども。己が逃げ延びた後、ルーギスがこの化け物と戦っている姿を見るのは、もっと、嫌だ。もっと、怖い。
暗闇の中、爆炎の輝きがフィアラートの手の上で踊る。獣の動きは余りにゆったりと、そうして大仰だ。魔力を練る時間は十分に、あった。勿論、その死地から生き延びる事が出来るかは、全く別の話であるが。
理想を言えば、後ろに飛びのきながら、間合いを取りつつ、魔術をその頭につぎ込んでやるのが良いに違いない。だが、そんな事が容易くできるものか。きっと、一度後ろに退いてしまえば、もう二度と自分は此の獣に立ち向かえない。この化け物相手にそんな器用な真似ができるほど、己は勇気ある者では、勇者では、ないのだ。フィアラートは時折歯をガチリと鳴らしながら、それでも懸命に魔術の詠唱を、ブレスを世界に捧げる。手の平の上で炎が、揺らめき、煌いた。
此の化け物が、人の肉から出来た存在である事は間違いがない。なればこそ、燃え盛る運命からは逃れられないはずだ。人間の体毛には火が燃え移り、体内に蔓延る脂は幾らでも燃料をつぎ込んでくれる。それに、此の悍ましい存在を消し去るには、何よりも炎が相応しい。
「――天蓋を貫け。無秩序の朱き蛇よ、貴様には生まれたその時から牙が生えていた」
炎がフィアラートの魔力を存分に食らいつくし、その身を大きく躍動させながら、宙を駆けた。朱が、煌く。
周囲の空気すらもその腹に収めて、爆炎はまるで蛇の如く獰猛に、獣の腕へと巻き付いていく。それだけで、終わるはずだ。平凡な魔獣であれば、それで十分。そう言えるほどの魔力をフィアラートは魔術に練り込んだ。何せフィアラートの中の本能の全てが絶叫をあげるのだ。背を見せろ、さもなくば奴の息の根を止めろと。
化け物の腕に巻き付いた朱の蛇が、そのまま肉の獣を、大口を開けて飲み込んでいく。その光景を、黒い瞳が何か祈りでも捧げるように、じぃっと見つめていた。




