第百六十四話『喉を舐める異常』
その竜の尻尾が突き刺さっていたのは、ベルフェイン領主館だった。ある意味案の定というべきなのか、それとも全く別の感想を抱くべきなのか、迷わされる。
薄緑の煌々とした光の粉を振りまきながら、未だ天へと魔力の柱が伸び続けている。その威容は、本当に竜を前にしたかのような感覚を味合わせてくれた。思わず、舌が震え喉が鳴る。
本当に、何をしているんだ、フィアラートは。こんな、所で。ようやく足元のふらつきがやみはじめた頃に、カリアが俺の耳元で、その唇を揺らした。
「貴様は怪我人だ。別に、私が一人で始末をつけて来てやっても構わんのだぞ」
それはどこか、影を見せるような口ぶりだった。こちらと、視線を合わせたがらないような素振り。これもまた、カリアにしては珍しい様子だ。恐らく、それは俺の返す答えがもう分かっているからこそなのだろう。それでも尚、カリアなりの気遣いというやつをしてくれたのかもしれない。
カリアの気遣いに応じるように、噛み煙草を胸元にしまい込みながら言う。
「少しくらいは腹を空かした方が、後の飯が上手いだろう」
肩を竦めながらそう返し、領主館の大門へと、手を掛ける。本来居座っているであろう見張りや門番の存在が、今はどこにも無かった。逃げてしまったのか。それともこの異様な光景に脅威を覚え、館の内部へと駆けこんだのか。どちらにしろ居てくれないのは、都合が良い。
そう思った所で、ふと、気づいた。
妙に、音が聞こえない。こんな異常事態だ。館の内部からは騒ぎ立て、絶叫に近い物音が聞こえてきてもおかしくはないのだが。妙に、静かだ。もうすでに、誰もがこの館から逃げ去ってしまったとでもいうのだろうか。
途端、踵から寒々しい何かが這いあがってくる。何か、よからぬ事がこの先で起きているのではないのかと、そんな妄念に近い予想が喉から漏れ出そうになる。何だ。一体、俺は何を考えているのだろう。別に何も考える必要などないというのに。ただ、この館へ足を踏み入れ、フィアラートの手を取り、後はベルフェインから逃げ出してしまえば良い。それで、終わりだ。終わりのはずだ。
喉が、妙に大きく、鳴った。それと、同時、
――ゴォ、ン――ゴォォオン――。
無音を切り裂くようにして、耳奥を劈くような暴音が、周囲に響き渡った。それはまるで、荘厳な鐘の音のようだった。
◇◆◇◆
何が、起こっている。
ベルフェイン領主モルドー=ゴーンの胸中に生まれたのは、ただただ純粋な疑問だった。
大罪人ルーギス捕縛の為私兵を投入し、結果どうやら一部の傭兵といざこざが起こっているらしいとの報告に、目を通していた時だった。その感覚が、肌の上に張り付き離れなくなったのは。何かが肌の上をなぞり、そうして熱そのものを奪い去っていくかの様な感覚。
先ほどまでは、僅かな違和感でしかなかった。瞬きをすれば忘れてしまうほどの、違和感。しかし今では、心臓が明確な怖気を有している。舌が乾き、身体の中で血流が獰猛に暴れ狂っている様な感触すら覚える。何かが、身体から奪われている様な、皮膚が、無理やりにこの身からはぎ取られている様な。
誰か、と思わずモルドーの唇が開いた。しかし、暫く経っても、返事がない。もう一度声を掛けても、結果は同じ。おかしい。この時間であれば、必ず使用人が傍に控えている。そのはずだ。だというのに、何故、何も反応がないのか。おかしい、おかしい、おかしい。モルドーの脳裏に、何か、異常な事が起こっているに違いないと、そんな確信めいた予感が浮かび上がりはじめていた。
知らず、手が執務室に備え付けられている斧を取った。
往年の己が振るっていたものだが、今は妙に重く感じられる。思えば、己も随分と衰えた。此の肉体はもはや戦場を歩くどころか、斧を存分に振るうことすら困難であるかもしれない。
だが、その精神の根幹にあるものに関しては、一切衰えを見せる気は、モルドーにない。
今、己の館で何かよからぬ事が起こっている、異常が湧きたっているのだと、心臓が告げている。では、その原因を排するのは己の義務だ。
そう、此処は、己の館だ。ベルフェインは、己の都市だ。かつて手を取り合い親友と呼んだものを此の手に掛けて、かつて愛した女を地の底に叩きつけて、そうして奪った、己のもの。己の人生の、全てだ。
此の異常が、何に引き起こされているのかは分からない。誰かに引き起こされているものであるのかも、分からない。
だが、到底、許容できるものではない。己の館に、己の都市に、手を伸ばしてくる存在は、一切として。
歯を噛みしめ、瞳を見開いて身体に無理やり力を込めながら、執務室の扉へと手を掛ける。
瞬間、扉が、その大口を開いた。斧を、反射的に振り上げる。
「――モルドー様、ご無事ですか」
斧を振り下ろさんとした先にいたのは、己の従者、そうして、聖女アリュエノの姿。知らず、喉を空気が撫でていった。安堵の吐息が、モルドーの口から漏れる。
その安堵は、扉の先にいたものが、怖気の立つ存在ではなかったという事、そうして、聖女アリュエノが無事であったという事。その二つから吐き出されたものだった。
そう、此の異常事態といえど、モルドーは聖女アリュエノを放っておくわけにはいかない。もし、万が一聖女の御身に傷がついたとなれば、それだけで大聖堂から破門を突き付けられるかもしれないのだ。例え、どんな異常が起こっていたとしても、罰は免れ得まい。
そうなれば、もはやベルフェインとて何もなく平穏に過ごせるはずがない。傭兵都市として栄えたこの都市の特権すら、奪い取られる。
「モルドー様、ご指示を頂きたく存じます。聖女様もご体調がすぐれぬようで」
従者の口から、早々と幾つもの言葉が駆けてくる。その額には、冷や汗に近いものが浮かんでいるのが、分かった。それは、そうだろう。従者とて、この館に起きている異常は、空気の怖気は、存分に感じ取っているに違いない。
聖女アリュエノへと視線をやれば、その煌かんばかりの黄金の瞳は色を失い、肌が青白く染まっている。とても体調が万全とは、言えぬ様子だ。廊下で座り込んでしまっている所をお連れしたのだと、従者は言った。
どうした、ものか。
モルドーの脳が一瞬、ぐるりと思考を回す。出来る事なら当然、聖女アリュエノを無事な場所に連れ出すべきだ。だが、無事な場所とは何処だ。館の外か、それともこの異常が感じられなくなる所までか。そもそも、大聖堂よりの預かりである聖女の身を、己の意志一つで何処かに動かしては、後で何を言われるか分からない。しかし、と、そう考えていた時だった。
「お逃げください――早く、出来る限り、早く此処を離れるように」
アリュエノがか細い声を出しながら、喉を鳴らす。黄金の瞳が僅かに細まり、廊下の先を見据えていた。モルドーの顔が、つられるかの様に、その視線の先を見やる。
「――別に、私は取って食べようというわけじゃあないのだけれど。其処まで怯えたような瞳を向けられるのは、ちょっと心外よ」
それは、場違いなほどに柔らかな口調だった。風に乗るような、そんな声。
もう、夜の帳が落ちきり、廊下の先をはっきりと見通すことは出来ない。だが、その中で、彼女だけは際立って見えた。
その身体に薄緑の光を纏うようにして、フィアラート=ラ=ボルゴグラードは、其処にいた。




